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【備忘録】ボーイズライフ。

「どんな子供時代でした?」
 よくそんなことを訊かれる。僕は答えを用意しているので、すぐにそれに答えられる。
「成績は良かったし、運動もできました。でも、毎年、不登校の期間をつくる子供なので、スクールカーストなら下位だったと思います」
 そのころはスクールカーストなんて言葉はなかったけれど、クラスの中心グループにいたことはない。そこから距離を作って、オタク寄りのグループでひっそりと息をしているほうでした。
 成績はいつも良かった。とくに国語や、中学になってからの英語など、勉強なんてろくにしない子供であったに関わらず、成績はいつもトップクラスだった。教科書を一度読んでおけば、それだけで好成績をマークできる分野なのに、「わからない」という人のことが理解できなかった。理数と違って、解答は本文内のどこかか、あるいはその近くにある。読めばわかる。読まなくても多くはわかる。そうとしか思わなかった。
 いまもそうだけれど、痩せっぽちで、ひょろっとしていた。体重が少なくていつも笑われていた(いまですら60キロが遠い)。当然、腕力も体力もなかったけれど、脚は速かったし、誰より身軽だった。短距離走や跳び箱や、走り幅跳びが大好きだった。陸上はやっていなかったけれど、大会があるたびに臨時部員として駆り出された(遅くまでの練習はまったく楽しくなかった)
 授業や休憩時間のドッジボールが大好きだった。自分の身軽さを知っていたから、僕は最後までボールをかわして逃げた。それはそれなりに楽しかった。
 いつだって友達がたくさんいた。いたけれど、僕は集団行動には向かない子供だった。ひとりでいるのが好きな子供だった。

 幼稚園児だったころ。
 よく憶えている。ピアノに合わせて、児童たちはリスの物真似を命じられていた。皆はどんぐりか何かを齧る様子になり、それぞれにリスを演じていた。
 僕はなにもしなかった。なぜ、リスにならなくてはならないのか、それが理解できなかった。担任の先生の前でリスを演じる子供たちは、僕の目には奴隷に映った。絶対にやりたくなかった。リスを演じて床を這う子供は、リスどころではない最下の生き物に見えた。いまになっても、そのお題は理解できない。
 なにもしない僕を見て、その教師はヒステリックに僕をなじった。何を言われたかは記したくない。思い出したくない。なにを言われても僕は動かず、時間が過ぎるのを待っていた。

 そのころから、きっと僕は「時間が過ぎるのを待つ」子供だった。
 子供向けに用意された映画やアニメが好きじゃなかった。お遊戯会に鼻白み、その終わりを待っていた。仮面ライダーにもウルトラマンにも興味がなく、初めて好きになったのは、再放送か再再放送なのか、夕方に放送されていた「機動戦士ガンダム」だった。
 ガンダムは特別だった。子供には理解できない戦争の物語ではあったが、学校(幼稚園かも)から帰った僕は、毎日のガンダムだけが楽しみだった。ガンダムが楽しみで、「月の砂漠」や「異邦人」を聴いているような、なんとも風変わりな子供だった。いまでも、ガンダムが大好きで、月の砂漠や異邦人も変わらずに聴いている。早熟な子供だったのだと思う。

 僕が通っていた小学校は、通学は全学年、帰宅は一、二年生のみ、集団登校、集団下校が決められていた。僕の左右の手はいつも女の子たちと繋がっていた。列をなして、僕の手は誰かに捕まえられていた。しょせん、子供のころのことだ。左右で笑う女の子たちをわずらわしく思っていた。鎖に繋がれているような気がした。忌まわしき幼稚園時代、僕はフェンスを乗り越えて逃走するような、それはとても勇敢な子供だったのだ。それを思い出しては、小学校を逃避して捕まり、自宅に軟禁されたものだ。
 我ながら呆れる。呆れるが、そうするしか僕には自分を守る術がなかった。
「あの塀のなかに入ったら自由なんかないんだぞ」
 幼い僕はそんなふうに思っていたのだ。

 二十歳になったころ。僕は友人からディスクを借りて、「あしたのジョー」を観る。孤児であった矢吹丈は、自分を管理、監視する幼稚園から脱走を試みて海へゆく。そのシーンを見て、僕は自分を「ひょっとしてジョーなんじゃないか」と勘違いする。本当に、どうしようもなく単純な人間でもある。

 僕は体の弱い子供でもあった。
 毎年、冬のたびに風邪をこじらせて寝込み、その何度かは死にかけ、いつも食欲がなく(給食の時間が苦痛)、運動もしない。しないのに、妙に脚は速い(きっと、自分を取り囲む何もかもから逃げたかったのだ)
 マラソン大会は最初からやる気もなく歩き、周囲の生徒を誘って徒歩チームを作ってしまう。給食を残すことを許されないと思えば、お皿をひっくり返して食べることをやめ、年に3か月は学校に行かずに犬と遊んでいた。そのくせ、読書感想文コンクールや絵画コンクールでは県で一位か二位の成績を残し、テストはいつも学校内でトップだった。
「協調性はかけらもなく、消極的でわがまま。やりたくないことは絶対にやらない。それなのに、この子はクラスのリーダーになってしまう。なんとも不思議な子です」
 通知簿にはいつもそんなふうに記されていた。自分で思い返しても、ほんとに面倒な、ややこしい子供だったと思う。しかし、僕はいつも担任の先生にはとても大切にされる子供だった。成績がいいから、だけではない。
 子供のとき、僕は「大人はこういう子供が好き」というものを知ったうえで行動していたからだ。だからこそ、女性の担任はいつも僕をかばってもくれた。修学旅行になると緊張して熱を出して、迷惑をかける子供だったが、誰かが助けてくれた(やがて、それを理由に修学旅行などの宿泊を伴う行事には参加しなくなった)

 高校生になったころ。
 僕はやはり学校生活に馴染めず、不登校になっていた。母に連れられて行ったのは心療内科だった。そのときの診断がなんであったのか、もはや記憶にもないけれど(おそらく病名などつかなかったはずだ)、血圧の低さに驚かれ、何度か測り直されたことは記憶にある。いまでもたいして変わらない。上が90なら高いくらい。下は計測できないことすらある。それでも、大人になった僕は、血圧測定の前には「少し上げておこう」と、廊下を走っておいたりしているのだから。それでなんとかマークできるのが、「上90、下55」なのだから。血圧が低いのでテンションはいつも低い。

 のちに、小学校6年のときの担任をしてくださった、玉村先生と再会する。僕はもう17だった。
「ビリーくんね。国語というか、文章かな。文才があったんだよ。子供が書く文章じゃなかった。なんでもいいから、文章を書けばいいやんか。先生は君を保証できる。わたしが持った生徒のなかで、君はいちばん才能がある子供だった」
 そのとき、その玉村先生はすでに教頭になっていた。まだ40代だった。いまはすでに校長か、それ以上の役職だろうと思う。ひょっとしたら現役を退いているかもしれない。17歳の僕は、やはり、両手に女の子を連れて、タバコさえ吸っていた。ろくでもない少年だった。ろくでもない少年だったが、せめて、誰よりも映画を観て、音楽を聴いている子供だった。

 人間なんて変わらないもの。
 社会人になった僕は、その10年後の失職によろこび、好きなように生きてみようと考えた。もう会社になんて行かない。行かなくて済む生き方に変えればいい。二度と会社員なんてやらないぞ。なんとかなるさ。なんとかしてきただろう。
 昔、大切な人が亡くなったとき。

 その女の子が笑ってくれたんですね。
「スピッツがいるやん。私たちの人生にはスピッツがいるぞ」って。
 私たちの国には、スピッツがいる。スピッツを聴いていれば大丈夫。なんとかなるよ。って。
 いまはわかる。偉大なるロックンロール。それを担う、偉大なる草野マサムネ。スピッツがいるから、なんとか生きていける。
 いま、思い出すだけで震える。もう、二度と帰って来ない魂。がんばるよ、俺。いや、がんばらないけど、また、素晴らしい物語を作ってみる。

 かつて。
 手のかかる、面倒であった子供は、ずいぶん大きく強くなって(あるいはひどく弱くもなって)、どうにか毎日を生きている。体はずいぶん強くなった。風邪すらひかない。低温だった体温も36度まで上がった。
 まったく相変わらずの魂は、会社になんて行かず、好きなように生きて、楽しいことを探して笑ってもいる。とっとと仕事なんて終わらせて、金曜の午後には缶チューハイを飲み始める。どこの居酒屋に行こうか、なんて考えながら、こんなことを文章にしたためる。
 不真面目なくらい、いい加減が良い加減。なんとかなる。なると思ってる。あるいは。なんとかなると確信してさえいる。
 たくさんの記憶と、強くなった自分と、大好きな作品たちは僕をあたため続ける。そして、いつか、自分でもそんな作品をつくってやろうじゃないかと思ってもいる。
 子供のころ。
「かっこ悪いな」と思った大人にならないように、子供のころの僕が、いまの僕を睨んでいるのだ。

photograph and words by billy.

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