短編小説「泡沫」
遥か高く。そして遠く。手を伸ばしたところで届くはずもないのに、まるで眼前にあるかのように近い。しばらく見ていれば、その青みに溶け込めてしまいそうな気がした。
空。青空。不愉快なほど澄み渡るのに、そこにはこの世界の誰も含まれていない。
あのとき、あなたは私に言った。
「高い。広い。俺たちなんて、ちっぽけだね」
測量すら、かなわないものを比較の対象にするなんて愚かすぎる。
「ほら、雲が流れてる。俺たちの悩みなんて、たいしたことないよね」
それはあなたの考えることが浅薄なだけでしょう。悩んでいないからでしょう。お金も仕事も、食べるものの備蓄さえ尽きそうな人に、同じこと言えるかな。背後から刺されるよ。
空が青かろうが、雲が流れてようが、そんなの、私たちには、なんの関係ないし、それによって苦しみから解放されたりもしない。見上げてるだけで楽になれるなら、ずっと上を見ていなよ。バカは気楽でいいね。
人は、私たちは、きっとずっと、そんな錯覚をして生きてきたのだろう。その錯覚のまま死んでもゆくのだろう。とりとめもなく浮かぶ機微を疎ましく、しかし、それだけではない心持ちで見届け続ける。雲が流れる。ぽつりの一滴が額に捧げられて、もうすぐ雨が降るのだと予感した。首にぶら下げたままのチェーンを引っぱる。髪を一本、引き抜いたかのように、抵抗もなく切れた。手のなかの金は冬の木漏れ日のように繊細だった。指に絡まる。それを振り解く。
離れて。私の邪魔をしないで。いつか誰かに投げつけた、解放の宣言のように。よく憶えている。どうでもいいことばかり、よく憶えていた。
どうにか大人に見られるようになったころ、夜が私を誘った。ほら、ここなら、どうかしら。そんなふうに。どこでも良かった。少しでもましな生活がしたかっただけ。黒いひらひらしたドレスを着て、酔い客が空けたグラスに新しく注いだ。
ビール? ウイスキー? 焼酎? なんだっけ。知らない。
なんでもいいわよ。意識を、記憶を失いたいだけでしょう。私は胸元に視線が集まるように、金のチェーンを揺らしておいた。おおげさに立ち上がって、裾を翻した。そこで私は誰より若かったから、誰よりも美しいと勘違いさせることができた。しょせんは暗がり、酔っ払いの考えること。美しいと誤解させられたら、それでいいのよ。
容姿の美醜は人の価値ではない。そう説いていた誰かさんは、連夜、私を追いかけに来てくれた。
職業に貴賤はない。そんな人もいたかな。でも、あなたは高価なお店で飲めるくらいの職業でしょう? 貴賤はあるんじゃない?
人は平等なんだ。飢えて死ぬ子がいる。貧しい親に育てられる子がいる。いい大人が、そんな妄言をほざいてちゃダメでしょう。本当のことを言いなさい。嘘をつくくらいなら、グラスにくちづけしてるほうがまし。
この世は、お金です。資本主義だと教えてもらったでしょう。それを生むのは容姿。資質や特性といった、才能。私たちは平等にはなれない。わかるでしょう? だって、人は平等なんて求めていない。甘い嘘に騙された貧乏人のおかげで、あんたたちはへらへらと笑っていられるのよ。
私は、負けない。
私と、飲みたい?
私に、触れたいんでしょう?
私と寝たいのね。知ってるよ、その眼差し。
いいよ。夜は私たちに平等だもの。なにをくれる? いくらくれる? 知ってる? 等価交換って言葉を。私には愛や恋なんて、そんな錯覚は通じない。いくら出せる? 気持ち良くしてあげる。恋人も奥様も忘れさせてあげるよ。せめて私を知ってから死になさい。あなたは幸せだよ。
無遠慮に目の前を過ぎる子供の駆け足に足をかけて転倒させた。その泣き声に笑った。安い餌に並ぶ家畜の行列をせせら笑って、小さな幸せだとか誤魔化す貧乏人の嘘に鼻水を出すほど笑わせてもらった。ATMやらセルフレジやら、ろくに使えず、あたふたしている老人たちには、介護施設にでも頼めば? なんて、耳元に囁いてもあげた。ぼんやり生きてる余裕はないの。でしょう。ピースサインの旅行者たちに、田舎者は田舎の空でも見てろと大笑いして、いよいよ大人の私は美味しい酒を飲めるようになった。
この世界はなんて面白いんだろう。弱者が、その存在理由を見つけては、声高に喧伝する。そりゃあ。そりゃあ、ダメになるよね。
あんたたちが考えることなんて、私にだってわかっている。人なんて、そんなに差はないから。自分が特別だなんて、思い上がりよ。それを認めてから、やっとスタートライン。
隣には青空。窓の外に青い空。雲が流れる。ここって、何階だっけ。ほとんど空だよな。いつか、無目的なお馬鹿さんが、空がどうのこうのと言っていたっけ。忘れてしまった。
私は勝ち上がった。ここまで来た。誰も見ていない。ほとんど裸になって、グラスを天に手向けた。そのときだった。誰かが私の背を押した。グラスからワインがあふれて、空から下へ落ちた。私よりも早く落ちたグラスは踏みつけられた薄氷のように粉になっていた。そこへ、私は落下してゆく。膝から落ちて、その衝撃で左足が弾けて飛んだ。動かせない。右手もないらしい。千切れて失くなったんだろう。
目を閉じて、開ける。目前に青空。ちくしょう、と、よだれや泡を混じらせた。咳き込む。血を吐く。自分で動くこともできない。私がちっぽけだったなんて、最初からわかっていたよ。
遥か高い。そして遠い。空は青い。私は目を閉じる。偶然だろうとは思う。天は私に泣き始めていた。
artwork and words by billy.
#2000字のホラー
#ほろ酔い文学
#眠れない夜に
#創作大賞2023
p.s.
2000字のホラーって、まだ募集してるんでしたっけ。期日過ぎてしまったのかな。ま、いいや。
涼しくなってきましたね。サンドイッチでも持って、海岸でお昼を食べるのが嬉しい季節。多くの人は今週末は三連休。
僕は「マイ・ブロークン・マリコ」を見に行こうと思っています。
それでは、また、明日。
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