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【40作目、41作目】#RTした人の小説を読みに行く をやってみた

 批評を再開したものの、急遽じぶんの小説のほうで仕事のあれこれがあって動きが止まっていてすみません。noteでのまとめは何らかのパッケージがあった方がいいとは思いつつ、1作を徹底して読むのに手一杯でなかなかそこまで頑張れていません。。。
 今回は2作品の批評です。言語表現への問題意識を散文化した作品と、格闘ゲームとスポーツに潜む「競技性」の作品です。

【40作目】散策の外皮(6○5)/小説と散文詩の差異

 3月くらいに友だちとお好み焼きを食べているとき、「大滝さんは詩を書かないんですか?」といわれ「書かないよ」と答えました。というのも、詩についてぼくには大きな憧れと畏怖があって、書きたくても書けない。一定の長さを持ったものを「散文詩」と呼べるなら、散文詩と小説の差異なんてほとんど判別できないものになるとおもいますが、実作の感触として、両者には明確なちがいがあると確信しています。御作品「散策の外皮」を読んでそのことを思い出しました。
 この作品は以下のように書きはじめられています。

つまりはこうだ。
記された文字列はそれを構成するものにもそれにより構成されるものにも属さず、持続と断絶を繰り返す前区分的な参照点を探索しながら荒い再構成を促し、まだ記されていない記号において最適解を探す運動の遅延は、ここのところずっと継続している。
(引用終わり)

 また、最終段落にはこうした記述もあります。

街は対峙している。街自身を形成する街において彼たる彼は彼自身を限定し、無限に生きようとしているし、そうあらねばならない。
(引用終わり)

 この作品では、無機質な個体の集まりとしての全体への自己言及を行なっていると読みました。個と全体、たとえばことばと文章(群)、街と構成物が対比的にあらわれてきますが、それを記すことばが具体的な意味を持つことをことごとく、むろん意図的に拒んでいきます。意味を拒絶することによって個と全体の差異は取り除かれ、街自身が街を形成するようなフラクタルは、ことば自身が一定の指向性をもって集まったとしても「ことば」以上の意味をもたないような、一種の悲観的な身振りとして映りました。
 散文詩であるかそれとも小説であるかーーそんなことはこの作品にとってどうでもいいことなのかもしれない。しかし、(ちょっと高慢ないいかたになってしまいますが)これが現代に書かれうる文芸作品でありたいならば、ぼくが虚體ペンギンさんの作品「はじまりの時への幻視」に対して言及したように、こうした態度が過去の作品には先行する作品との相対化をはかりつつ「前衛」から「古典」へといかに昇華されるかの手続きを考えることが非常に重要になると考えています。

 ぼくが「詩は書けない」と友だちの質問に対して答えた理由は、詩作品としてそうした問題にアプローチする術や思考法を持たないからです。そこには詩とは何かという問いが大きく存在しているわけですが、ひとまず単純な話として共起する語と語のあいだに一定の距離を見いだしたとき、反射的に「詩」を感じるという体験はおそらく日常的に経験するのではないでしょうか?
 西崎憲さんの小説講座では簡単なゲームを通してそれを実感するトレーニングをしているようでして、そのひとつに「提示されたことばからもっとも遠いことばを反射的に挙げてください」というものがあります。たとえば「暑い」に対して「寒い」と答えるのは「遠い」といえるか、というのは示唆的です。意味の上では「真逆」となるわけですが、特定の感覚を示す語群としては近い位置にあるといえます。それを踏まえると西崎さんが立ち上げている「惑星と口笛ブックス」は、語と語の遠さを使ったネーミングで、「惑星」と「口笛」の差異を埋めるには単純な手続きだけではできそうにない、この不可能性は「詩」のひとつのあらわれだといえます。ぼくとしては「散文詩」と「小説」には、この距離の埋めかたないし扱いかた(必ずしも「埋める」必要はないかもしれない)には根本的にちがうものがあるのではないかと考えています。

「散文詩」と「小説」の差異を特筆すべき作品として、小笠原鳥類「エルガーを聞きながら書いた小説」が挙げられます。この作品の特色は、この「小説」が書かれはじめる瞬間において、そこには物語はおろか表現すら存在しません。あるのは言語表現の素材になるだろう語彙と、小説を書いているという環境だけです。その文章は躊躇いと確認を繰り返しながらゆっくりと動き出し、「特定の音楽を聞いている」という環境に強く影響を受けて語彙が選択されていきます。いわば、語と語が結びつく場の力学をこの小説は書いていると読めて、この作品が「小説」とされているのはその場の構築を行う論理の連続性があるからかもしれません。語と語の距離、イメージとイメージの距離、物語と物語の距離……などなど、文芸作品からはあらゆる距離を見出せますが、小説はその距離に対してゆっくりとアプローチする一方、詩作品では瞬間的にアプローチする性質があるとぼくは考えています。
 今回読ませていただいた「散策の外皮」は、見据えた距離に対する態度が示されているとは読みうるものの、私観ではありますが上記のような「小説的な」アプローチとしては緻密さに欠け、「散文詩的な」アプローチとしては瞬発力に欠けるとかんじました。感覚に合わせて方法意識をより強く持ち、文芸表現としての特色がより際立たせることができればよいなとおもいます。

【41作目】eの拳〜手のひらの中のオリンピック(輝井永澄)/闘争と切実の文学

 数年前、ある作家が急病で帰らぬひととなり、その報せをうけたひとりの書き手が、インターネットで知り合った友人らにある提案を持ちかけました。それは亡くなった作家が死の直前まで書いていた作品のタイトルを借り受け、新しい小説を16人の仲間の共作として制作するというものでした。ぼくは亡くなった作家やその作品の提案者とは繋がりを持たないのですが、友だちがその16人のひとりだったようで、つい最近、久々に連絡をとったところ、この時の話をしてくれました。途方もない議論の末に完成したその作品は、文学賞を受賞し、単行本として世に出ることとなりました。夜釣十六の『楽園』という作品です。ペンネームは亡くなった作家にとって書きたかったモチーフにあった十代の頃の「夜釣り」の記憶と、仲間の数の「16」を合わせたものだといいます。このことは、単行本のあとがきにも書かれています。
 他人のぼくがこう話せば非常に消費的になってしまうのですが、この「嘘みたいなほんとの話」に宿った切実の所在についてはずいぶん考え込まされました。そこには広い意味での「闘争」があって、文学賞などの「勝ち負け」は本質的な問題ではない。だけど、それは意志と結果の中間に位置づけられるもので、本作の書き出しである「オリンピックは勝つことでなく、参加することに意義がある」という引用は意図するところは違えどそうした切実への言及のひとつのかたちなのかもしれないということを考えました。

 闘争のかたちーーそれは個別の事象それぞれにちがったかたちをしていて、大きな規模でいえば村上春樹や中村文則の長編群のような「悪」とおぼしき巨大な、しかし明瞭な像を帯びてくれないものの存在が挙げられます。いまはまだ時期尚早ゆえぼくの手元には確信をもったことばが見当たりませんが、新型コロナウイルスが引き起こしたさまざまな大小さまざまな混乱もまた、明瞭な像を持たないなんらかの存在との闘争のあらわれとしていずれ評されるようになるのではないかと考えています。それを踏まえて、スポーツやゲームなどの競技性を与えられた「勝ち負け」は、広義の闘争を「個人対個人」のレベルに具体化したものとして位置づけられるように思われます。
 本作「eの拳〜手のひらの中のオリンピック〜」は、空手のオリンピック代表選考に漏れた主人公が、コロナウイルスの影響による自粛期間中に格闘ゲームにのめり込んでいく物語です。その過程で具に描かれるのは現実とヴァーチャルのふたつの「空手」の差異であり、それは現実とヴァーチャルの肉体の差異でもある。競技性とは、勝利を評価軸としたその差異の理解と適応の要請であり、その徹底は意志に指向性を与えます。一般的ないいかたをすれば、その指向性が得られたとき、勝利の希求は切実さとして昇華されるように思われました。

 競技性が要請する身体やその徹底において生じる切実を見事に描いた作品として、赤野工作『お前のこったからどうせそんなこったろうと思ったよ』が挙げられます。この作品もまた格闘ゲームを題材とした作品ですが、格闘ゲームにおける「相手の思考を読む」ということをフレーム単位で行うという、「ゲームの身体」が徹底されています。そこに月と地球という物理的距離が与えられ、その距離の先にいる相手をおもう感情が物理限界を突破しようとする意志に切実さが顕現します。
 また、WEB文芸でも昨年開催された「ブンゲイファイトクラブ」が特殊なゲームルールを環境とした文芸として特筆すべきものがあります。この催しは原稿用紙6枚以下で広義の文芸創作を行う「ファイター」のトーナメントバトルで、勝ち負けは複数いるジャッジによる採点・投票で決まります。なかでも特殊なのが、「ジャッジの採点をファイターが採点・投票し、上位ジャッジだけが生き残る」という方式がとられており、決勝戦では2人のファイターと1人のジャッジだけが残ります。文芸は勝ち負けなのか?という問いが否応無く現れるのですが、「それでも読み、自分の文学を信じて選ばねばならない」という抑圧が切実さを生んでおり、その苦悩の記録として本戦作品とジャッジによる批評の遷移はまさに「勝ち負けの文学」そのものを体現しています。

 いろいろと雑多な話をしましたが、意志の指向性が切実を生むと考えるなら、それを人為的に発生させる構造として「ゲーム」に着目するのは非常に大きな批評性を有しているとおもいます。そして描くゲーム空間の解像度をひたすらに高める行為に切実が宿る。そうした点においてぼくはおもしろく読みました。
 エンターテイメントでは構造の単純化や勧善懲悪の導入による「勝利」が使用されがちですが、競技性が生む切実は、それに堕することのない「勝利」につながるのではないかとおもいます。そんな小説を読んでみたいとおもいました。

次回は「SF批評祭り」!

 次はせっかくなので、テーマを設けて作品を募集し、個別批評+横断批評をしてみようと思いました。そこでお寄せいただいた作品のうち、以下の6作品を対象としてやってみたいと思います。まだ日がありますので、みなさんもぼくが評を出す前に読んでみてください!!!!

 まだ誰も表立った評価をしていない書き手、創元SF短編賞受賞作家、WEBメディア掲載作品、ゲンロンSF創作講座といったバラエティ豊かなラインナップですので、ぼくもみなさんに「負けない」ように全力で読みたいとおもいます。

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