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「夜叉神峠の亡霊」〜出発〜2

前日は興奮して眠れなかった。生まれて初めての家出に緊張と不安が無い混ぜに絡まった。
計画がバレたらどうなるのか?バレるとしたら何が綻びの原因になるだろう。
バレた時の家族の気持ちはどうだろうか?
警察に捕まるのだろうか?捕まったらどんな刑罰が待っているのか?命を失う可能性もあるだろうか?南アルプスに安住の地は存在するのだろうか?私たちの立てた計画に落ち度はないだろうか?
計画を企てた犯人が、実行前夜に想起する心持ちが少しだけ解ったような気がした。
ふと、蝉の鳴き声に気がつくと、すでに東の闇は消えさり橙が覗き始めていた。

母親は昨夜も遅かった。深夜を回ったあたりでダイニングの灯りが点くと、私の部屋のドアの隙間から一本の光の糸が差す。仕事だから仕方のないことだけれど、酔った母親はあまり好きではなかった。洗面所でえずいているのは、酒の飲み過ぎなのか歯磨きのやつなのか。
今日は週末だから飲み過ぎなのだろう。
ということは、すぐに寝室に入り眠りにつくだろうから、私が朝に出て行く時も起きてはこないだろう。母親と最後に話したのは、少林寺拳法の総本山で修行をすると嘘の説明した日が最後だったか。
すれ違いの生活。朝、学校に出かける時は、母親は眠りの中だ。アルバイトを始めてからは、学校から直接バイト先に行くから、帰ってくる時はすでに母親は店に出ている。
この1ヶ月、アルバイトの休みの日のほとんどは、村田と計画を練り込むために費やした。
なにか、母親に言うことはないか?今ならまだ間に合うはずだ。だが私は諦めた。酔った時の母親の話はひどく長い。加えて子供が深夜に起きていることを嫌った。子供は早く寝なさい!それが母親の口癖の一つだ。
一体、何歳のガキだと思っているのだ。

部屋のドアを静かに開けると、ダイニングは静まり返っていた。母親の寝室から薄く鼾が聞こえた。
金沢駅に6時。
待ち合わせには充分に余裕を持とう。
私は母親には何も言えないまま、そっと家のドアを閉めた。
金沢駅には30分前に着いた。するとそこに村田が待っていた。随分と早い2人の集合に互いに笑った。変装のための帽子と眼鏡は忘れない。
未成年だとバレないように、大人びたジャケットを着ていたが、あまりの暑さに脱いた。
2人はプラットホームでゆっくりと入ってくる電車を眺めていた。思いのほか言葉がなく無言が続いた。村田はバックからコーラを2本取り出すと、私に差し出した。
そして、私の背中を平手でバチンと叩くと、村田は笑った。「頼りにしてますよ、相棒」
そう言うと村田は電車に乗り込んだ。
ヒリヒリとした背中の痛みに、村田の本気の覚悟が伝わった。家出は遊びではないのだ。
もう、戻らないかもしれない。彼は本気で親元から離れたのだ。私も覚悟を決めなければならない。そう思うと、昨日の深夜、母親に一言だけでもいいから言っておけばよかったと後悔がよぎった。だが、もう後戻りはできない。
私は家を出たのだ。
蝉とホームの喧騒にまぎれて、私は「おしゃ!」と気合い入れて、電車に脚を伸ばした。

向かうは山梨県の甲府だ。






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