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ほんのちょっと「許し・許される」と、しなやかに生きていける

【美描院(ミャア)による書評ですニャア🐈💕】

『ほんのちょっと当事者』、青山ゆみこ著、ミシマ社、2019

本書では、「人間とは何か?——どういうことがあると喜び・怖がり・他者への嫌悪を示しながら、時に憎み、しかしそれでも許し、あるいは許されながらどう社会での中で生を営んでいるのか」ということについて、著者自身が、その人生を振り返りながら、血を吐くようにして絞り出した言葉でもって、そのことが綴られているんだにゃ。

帯に「ここまで曝すか!」とあるように、自身の内面について「そこまでしなくとも」と言いたくなるくらい詳らかにしているのは、実は本心の吐露という段階にとどまらない深い意図があってのことからであろうにゃ。

筆者である青山ゆみこさんは、決して「自分は(こんなに)変わった——変化した」などという表現を使わない。過去の出来事が自分に何らかの作用を及ぼすことで自分が(前向きに)変わったのだ、というようなお定まりのチープなことを言いたいわけではにゃい。そんなことのために、普通なら隠しておきたいようなことをわざわざ吐露したりするわけもないよにゃ。

だからそうではなく、「自分は何も変わっていない」のだけれども、自分の経験してきたことのひとつずつに向かい合うことで、著者が「青山ゆみこという<自分>というものになっていく」、その過程を微に入り細に入りのディテール描写でもって、また、切れのいい文章でもって骨太の物語として紡いでいるところに本書の特色があるのにゃよ。

普通であれば、日常というものは、限りなく無色に近い形でほとんど脳裏にとどまることなく流れて消えゆくものだろう。しかし、本書ではそうした忘れ去られやすい〝普通の日〟について、驚異的ともいえる記憶力と再生能力、そして描写力でもって、まるでフィルムの一コマのように切り出し、意図的に読者の前に鮮やかではあるが、角度によってはどぎつい色を伴っての提示がなされていく。

きっと私たち——いわゆる普通の人間にとってそれは見たくない種類のものも含まれるはずだ。なぜなら、誰もがそれを見てしまうと己の良心の呵責に微妙に苛まれるはずだろうから。誰にとってもあるだろう決して思い出したくもない〝ある日の事柄〟というものが、著者が巧妙に設定した間口を広く取ったテーマの中にひとたびドブンと放り込まれると、ひとつくらいは誰でもどうしたって見つかってしまうし、その封印しておきたいものが思い返されて困ってしまうっことだろう。

小学生の頃、障がいがある子が自らの班に加わることを嫌がった著者は今、当時の同級生を〝面倒な子〟と感じていたその感じ方が恐らく今も劇的に変化したわけではない、などと、ある種危うい心情を吐露するのだが、それは自己への肯定とも否定とも特段なってはいにゃい。

実はその続きにこそ著者の伝えたいことがあるのだ。自分の感じ方に変化は恐らくあまりないだろう(恥ずかしさはある)。しかし、自分もまたあの子と同じように〝面倒な存在である〟ことへの気づきが生じてしまったことで、「面倒を受け入れられる(自他共に対しての許しの)余白」を、自分の心に(ついに)挿入できたという事実の重要性をこそ語りたいのだニャア……きっと。

そこには、此れ有れば彼有り・此れ無ければ彼無し、という仏教観が強く滲んでもいる。

四十代になるまでの人生を振り返れば、自分もまた他者へ迷惑をかける「面倒な人」だったのであり、それがしかし「許される人」として、同時に他者や社会から受け入れられてきただけなのだと著者は言う。

さて、多くの人が自覚的であるように、恐らく人というのはそんなに簡単には変われない。だからこそ、私たちは自分にとって都合の悪いこと——思い返せば恥ずかしいやら悔しいやら、といったことから無意識に目を逸らそうとする。

恐らく著者は、日常がそのような姿であることから、確たる言葉へと変換できずに、すなわちそれがしっかり取り組める対象とはなりにくいことの危険性に気づいたのではなかろうか。

あるいは「それはもったいないよ」と伝えたいのではなかろうか。なぜなら、そうしたことをどう受け止めていくかが、己の(生き方の)余白——許し許されるという余白を増やし、幹の太い人間ともなる機会となっているはずだからだにゃ。

私たちが生きている世界は「許し・許され」の交換のなかで成立している。自分が生きるためには、許される必要があるし、同時に相手を許すことこそが求められるにゃ。

世間で言う「コレ!——たとえばそれはポスドク問題の当事者だ」、というようなわかりやすく大きくカテゴライズされた「当事者」ではなく、日々の出来事の中で言葉にし難く立ち位置も曖昧なものであるものの、〝ほんのちょっと(したことの)当事者〟になることで、同じような悩みや苦しみを抱える他者の力になれるかもしれないと著者は考えたようだ。

家族・友人・仕事などの日常に生ずる些細な出来事や関係性のなかで生まれる「余裕のなさ」は、相手への「許し」をすぐに奪いがちにゃ。それは自身がずっぽし当事者——(本書での〝当事者〝とは異なる使い方ではあるが)、になっているからでもあって、だからこそ著者はその位置をわずかにずらすことで自らを緩く客観視できることを、一方でそこをも示したかったのかもしれにゃい。

だって第三者的立ち位置になればそんなに「カーッと」ならなくてもすむではにゃいか。少しは余裕も生まれ、「まいっか」と許せるようにもなろう。

そうした姿の一切を含め「ほんのちょっと(だけ)当事者」として、自らを曝してみることで、著者は読者に「人間とはなにか、〝私〟が普通の日々を時々において直面する出来事にもまれながら生きる、とはどういうことか」という問いをもってして、「四つ相撲」を組みたがっているように思えたのにゃ。

その挑戦を受けて立つ勇気があれば是非本書を手に取るべきにゃ!
「許す」という余白があなたの中にも生まれるかもしれない。
それはきっとあにゃたを救うことに繋がるだろう。

著者はそのことをこそ一番に願っているはずにゃ。



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