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“ここ”を踊りと呼べるまで ~それを踊りと呼べるまで⑫~

去年の4月から一年間、毎月続いたこの連載も、いよいよ今回が最終回となった。
最後に何を書こうか?と迷ったが、今回は、ちょうどこれから始まるプロジェクトである、私達の“新たな拠点”の話を書こうと思う。

とは言えこのプロジェクト、まだ公に出来ない事が多い。
それは、このプロジェクトが、私達単体で進めているものではなく、町や学校、地域住民を巻き込んだ複合的なプロジェクトとして進行しているからだ。

来年にはクラウドファンディングも行おうと準備を進めているが、今年はまずローカルルールにのっとって、少しずつ基礎を固めて行く事から始めている。
上手くいけば再来年、この町に教育福祉とアートを繋ぐ、私達の新たな拠点が誕生する予定だ。
実現はまだまだ先の話だが、この連載の終わりに始まりの話を書いてみるのも、最終回っぽくなくていいかもしれない。

<“ここ”を拠点と呼べるまで>

東京から兵庫県神崎郡神河町に移住して6年。
長らくフリーランスのダンサー・振付家として活動してきた私達夫婦は、とうとう腰を据えて、この神河町に一つの「拠点」を持つことを決めた。
そして、これから始まるその場所を、自宅とも、稽古場とも違う「アトリエ」と名付けてみようと思っている。

正直、まさか自分がそんな場所を持つことになるとは思っていなかった。
なんせ移住当初は、地域おこし協力隊になった妻の任期である3年後には、神河町を離れるかもしれないとすら思っていたのだから。

今まで体一つで世界を巡ってきた私にとって、拠点とは場所ではなく、自分の身体だった。
私の出かけて行くところがその都度、拠点だった。
だから私は、神河町への移住も、ある意味で“長期レジデンスプロジェクト”のように考えていた。

現在の我が家

ところが、そんな移住4年目にコロナがやって来たことによって事態は急変する。
それまで国内外を飛び回っていた私は、仕事を兵庫県内にシフトせざるを得なくなり、妻は協力隊最後の一年に計画していた事業が出来なくなり、動けないというストレスと、先の見えない不安が我が家を襲った。

そんな時、庭に一匹の子猫が迷い込んできた。

生後1ヶ月半のビヤ

ダニだらけで、ボサボサの毛。「ビャービャー」としゃがれた声をしたその子猫は、その鳴き声から「陽矢(ビヤ)」と名付けられ、当時の5倍の体重となって今や家族同然の顔で、皆と同じ布団で寝て過ごしている。

「猫は場所に付く」と言われている。
ビヤが一体どこから来たのかは未だに謎だが、彼がこの場所を選んできたのだとしたら、私達はここにいる意味があるのかもしれない。そんな風に思えた。
そしてその翌年、我々の元に更にもう一人、家族が増えた。

未熟児で一か月入院し、退院した時のオミ

「子は親を選んでやってくる」と言われている。
娘が果たして、私達を選んで来てくれたかは定かではないが、少なくとも私達は、私達がここで生きていくことを、娘に肯定されたように思っている。

こうして“長期レジデンスプロジェクト”と思っていた私達の住むこの場所、この生活、この命たちは、いつの間にか、かけがえのない私達の“拠点”になっていった。

その過程で、私の中での“拠点”という言葉の意味も、少しずつ変わっていったように思う。

<拠点=心の置き場所>

移住前から私達夫婦は互いに支え合ってきた。
一般的な家庭に比べてフリーランス同士、しかもダンサーという特殊な仕事に就く者同士、支え合わずして夫婦は成り立たない。

2016年 横浜ダンスコレクション コンペⅠ 奨励賞受賞作品 伊東歌織振付『四角形のゆううつ』より

しかし、東京に住んでいた頃私達は、同じ場所に住んでいながら、それぞれ違う時間を過ごしていたり、仕事で何カ月も離れていたり、異なる仕事にやりがいを感じていたり、それぞれがそれぞれに大切なものを持っていた。

それは今でも変わらない。しかしそれ以上に、この5年間、慣れない土地で支え合い、コロナに翻弄されながらも、育児と仕事に励む中で、私達は独特の絆を培ってきたとも思う。
それは正に“ここ”で得た、というより“ここ”でしか得られなかったであろう、かけがえのないものだ。

そしてこの5年間の生活は、私にとても重要な事を教えてくれた。
それは何をするにも、「ここに心があるかどうか」が重要だということ。

至極当たり前のことだが、移住してみて改めて、このことの大切さを身に染みて感じている。
どんなに地方移住や二拠点生活が流行っても、いくらダブルワークやリモートワークが普及しても、人の心を動かすのはやはり、人の心だ。

物理的な移動だけでなく、役割や価値観すらも変動して行くのが“普通”となった昨今、「どこに心があるか?」という事は、以前より増して重要になった気がしている。

2019年 フィリピンでのワークショップ風景

当たり前の話だが「心ここにあらず」「気もそぞろ」な人間に、人は心を動かされない。
いつまでも移住を“長期レジデンスプロジェクト”と思っている人間に対して、地元の人間は心を開いてくれない。
場合によっては、その距離がちょうどいい事もあるが、移住した土地で何かを始め、深く、強く地域と関わっていこうとするならば、そこに心がなければならない。

それはとてもシンプルだが、とても難しいことでもある。
私達夫婦はこの5年間でそれを知った。

一回だけのワークショップ、一度だけの振付現場、一週間だけの本番。
そんな刹那の関係性の中で、如何に自分の力を発揮するかに賭けて来た今までの人生とは、全く違う戦い方がある事を知った。

そしてもう一つ。
人には様々な「心の置き場所」があることを知った。

今まで私は、自分の心と人の心を動かし続けることがアーティストの仕事であると思ってきたし、それはこれからも変わらない。

しかしそれ以外にもアーティストに出来る仕事がある。
それは人の「心の置き場所を作る」という仕事だ。

社会福祉法人 あすか会 でのワークショップ

コロナで県外への移動が難しくなってから、私は劇場よりもスタジオよりも、幼稚園や保育園、学校や障がい者施設といった、今まで出会わなかった人々のいるところへ出かけ行くようになった。
そのことで私は、多くの心と触れ合うことが出来ただけでなく、それらは私自身の「心の置き場所」にもなっていったのだった。

動き続ける心は時に、留まることを欲し、傷ついた心は、一時の安息を求める。
ダンサー・振付家として身体を扱うという事は、心を扱うことに他ならない。

だからこそ私達は、移住6年目にして、この町に「新たな心の置き場」を作ることにしたのかもしれない。

<新たな拠点、そして心と体について>

ここまで書いて私はふと、2015年のウィーンの町角で出会った一人のダンサーとの会話を思い出した。

自作を上演したウィーンの劇場 Theater BRETT

あるダンス公演の夜、偶々帰る方向が一緒だった男性に話しかけられた。

「君はダンサーか?」
「そうだよ。君も?」

互いに特に名乗らず、ただ互いがダンサーであることを何となく感じあって、夜道を歩きながら交わした他愛もない会話。

「そうか、じゃあ研修が終わったら日本に帰るの?」
「そうだね。君はそのツアーが終わったらどうするの?」
「契約はこのツアーまでだから、その先は分からないな。」
「お互い、この先どこで何をしているか分からないね。」
「そうだね。でもどこに行こうと、きっと踊ってるだろ?」
「確かに。踊ってるだろうね。」

あれから8年が経った。彼は今、どこで何をしているだろうか?
人生は分からないもので、今私は日本の田舎を拠点に「踊っている」。

そして「私の心と体は、ここにある」と、言い続けられる為の場所を、これから作ろうとしている。

寺前幼稚園「からだあそびの時間」番外編

道のりは長い。それでも、私は“ここ”を私の「心の置き場」にしようと決めた。
これからも心と体を動かし続けるために。そしてその喜びを沢山の人に伝えるために。
思えば京極WORKSのコンセプトにもそんなことを書いた気がする。
いつかこのコンセプトが、私の生きる上でのコンセプトと重なって行けばと思っている。

それはつまり、私の生き方そのもの全てを、いつか「踊り」と呼べるまでの長い道のりだ。
そのためにまず新しい拠点である“ここ”を「踊り」と呼んでみようと思う。

それを踊りと呼べるまで。
一生分の楽しみが、そこにある事を願って。



京極朋彦の記事はこちらから。
https://note.com/beyond_it_all/m/mf4d89e6e7111


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