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【感想②】自己犠牲を越えて

もうひとつの声で 心理学の理論とケアの倫理
キャロル・ギリガン (2022年 日本語訳 出版)

前回からの続き

※「男性」「女性」という言葉は、この記事では「男性性(女性性)の総体」として便宜的に使っているだけで、それぞれの言葉に人間の性別を限定する意図はない。

ギリガンは、女性に行った膨大で丁寧なインタビュー調査から、女性には男性と違う道徳性の発達の型があることを発見した。ものすごいシンプルに言うと、女性の道徳性の発達とは、「誰をケアするか」の考えが深まることと、その範囲が広がることを意味する。そしてそれは大まかに三つの段階がある。

【第一段階】自分だけをケアする=自己中心の道徳
【第二段階】他人だけをケアする=自己犠牲の道徳
【第三段階】自他共にケアする=誰も傷つくべきではない道徳

ギリガンがインタビューした女性の中で多く見られたのが、第二段階の「他人をケアする自己犠牲」の道徳から抜け出せない、というか「それで善い」とする人たちであった。

いうまでもなく、他者をケアすることは一般的に「善い」こととされる。その意味で、第二段階の道徳性には、「この判断でよい」として人を一時的に納得、安定させる要素がある。

しかし、本当の葛藤というのは――道徳的判断が難しい状況というのは――自分と他人の間で責任や権利、痛みが衝突する時である。そんな葛藤を前にして、常に全てのケアを他人に振り分けてしまったら、それは極端な自己犠牲であり、もはや自己放棄とも呼べる行為である。
人は、やはりそこには道徳的に何かが欠けていると感じる。つまり、人は第二段階の道徳性に安寧して留まり続けることはできない。(簡単に言うと、自分が辛いままなのは耐えられないってこと。)
 
にもかかわらず、なぜ女性は第二段階に留まりがちなのか。
それは、従来の価値観――慣習、社会的に善いとされていること――では、「女性らしさ」や「女性としての善さ」と自己犠牲が強く結びつけられているからだ。
その結果、「控えめな女性」「尽くす女性」「女は自己主張すべきでない」などの規範が作り上げられ(口に出すかは別としても)、そして女性自身がその規範を内面化することにより、自分の本音――自分もケアされたいという「もうひとつの声」――を自らの中に深く沈めてしまうのである。

他者をケアすることや、利他的な精神というのは、女性でも男性でも称賛されるべき徳目である。しかし男性と違い、女性には上のような慣習的徳目があるせいで、自らの正直な声(もうひとつの声)を聴くことは、より難しい状況に置かれている。

これは「控えめな人は損するね、気の毒だね」で終わる話ではない。
自分の本音や、自己に正直でいることが抑圧されたままの状況は、実は人の人生に深刻な悪影響を与える可能性がある。
ギリガン曰く、第二段階の道徳性に留まり、他者のケアしかしない状態を続けると、やがて自己は分裂し、自己放棄に至ってしまうという。
これは、近年ではよく耳にするようになった、自己肯定感、HSP、あるいはトラウマなどの用語に関わる言説や問題を想起すれば、とても身近なことであると気づくだろう。


さて、これで「もうひとつの声」の二つの意味についてのまとめが終わった。
一つは、「男性(正義)の声」に対する「女性(ケア)の声」
そしてもう一つは、「慣習に合わせた自分の声」に対する「自分の本音」



最後に…
ギリガンは本の中で明示的に言及しているわけではないが、こんな問いが頭に浮かんだ。
慣習を理由に 自分の「もうひとつの声」を心の底に沈めてしまっているのは、はたして女性だけだろうか?

自分もケアされたい、
本当はこれをしたい、
こんな願望は口にしちゃけない、
どうせバカにされる夢、
言葉にできない本音…

みんな、男も女も、普段何気ない顔して生活してるけど、こんな声たちに気づいているだろうか?

僕は、自分の「もうひとつの声」に耳を傾けられているだろうか?

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