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【要約】もうひとつの声で

もうひとつの声で 心理学の理論とケアの倫理
キャロル・ギリガン (2022年 日本語訳 出版)

【要約】

第一章      人間/男性のライフサイクルにおける女性の位置

歴史的に、社会は「人間」という概念・イメージについて 明らかに男性(または男性性)を規準とし、それを人間一般に適用してきた。もっと言うと、「人間」という時 そこには男性しか想定されていなかった。男性に対し、女性はずっと非正規的、従属的な存在とされてきたか、あるいはシンプルに無視されていた。女性の不在は、日常的な言語表現にも文学の中にもあるし、そもそも聖書にも見られる。(イブはアダムのために、アダムの肋骨から作られた。)

女性と男性の行動や思考様式に違いがあるのは明らかである。それは幼少期から既に見られ始める。例えば、集団での遊びの仕方について男子と女子の違いを研究したものがある。
その研究では、男子は女子よりも一つの遊び(ゲーム)の継続時間が長いことが観察された。理由は、男子の場合はゲームルールをめぐる口論の時間が長かったためである。「実際のところ、男子たちはゲームそのものを楽しむのと同じくらい、規則をめぐる討論を楽しんでいるよう」(69)に見えたという。
それに対して女子の場合、ゲーム中に言い争いが起こると、そのゲームはおしまいにするという傾向があった。女子は、ゲームのルールに対して男子よりもプラグマティック(実用主義的)に考え、「そのゲームがうまくいくかぎり、いい規則である」(70)と考える傾向が見られた。

このような事例(とその他の多くの研究や日常感覚など)を踏まえると、価値判断や行動規範として 男性は個人の「権利」を重視する一方、女性は人間どうしの「関係性」を重視する傾向があると言える。
しかし、これまで女性に対する社会の評価は、権利の規範を十分に獲得できず 関係性の思考に「留まってしまう」として、男性よりも道徳的に劣った存在だと断じてきた。

コールバーグの道徳性発達理論は上の言説を支持するものだが、彼はそもそも男性しか研究対象としておらず、女性は文字通り「無視」されていた。その研究が(誤って)導いたのは、人間の道徳性は論理性の高まりに沿って、低から高へ直線的に発達する(べき)という結論だった。
その規範からすると、多くの女性は道徳的に低い位置に「留まっている」ことになり、よって女性は男性より劣っているとされてきた。


第二章      関係性の複数のイメージ

コールバーグが実施した、子どもの道徳性発達に関する実験がある。実験では以下のような仮定の状況を設定する。

ハインツには重病の妻がいる。薬屋にはその治療薬があるのだが、大変高価なのでハインツには買うことができない。ハインツは薬屋に妻の命の危機と自分たちの経済的困窮を訴えるが、薬屋は値引きなどには応じない。この状況で、ハインツは治療薬を盗むべきだろうか?

ジェイクという11歳の男の子は、人間の命はお金よりも尊いから という理由で盗むことを肯定する。その際、ジェイクは法を単純に無視するのではなく、法律の意義を認めた上で、価値の高低(生命の価値とお金の価値)を比較して 高いほう(生命)を優先するという判断を「数学的な」論理として正当化する。
また、ジェイクは道徳的価値(何が正しい行いか)について 社会的コンセンサスが成立しうると考えており、「自分は解を合理的に導き出しているので、理性に従って考える人であれば誰でも自分と同じ結論に至ると考えている。」(101) 

これに対し、エイミーという同じ11歳の女の子の答えは直線的ではない。盗んではいけないけれど、妻を死なせてもいけないというジレンマに戸惑い、判断を保留する。
また、盗むべきではない理由として彼女が考慮するのも、それが単に違法だからではなく、ハインツが盗みにより捕まった場合、妻の病気は一層重くなるかもしれないという 人間関係的・文脈的な理由が頭にある。「エイミーはジレンマの中に、人間に応用された数学の問題ではなく、長期的に考えるべき関係性のナラティブを見出している。」(104)

コールバーグの理論では、人間の道徳性の発達は自己中心的で具体的な思考の段階(ステージ1、2)から、人間関係や社会規範を理解する段階(ステージ3、4)を経て、普遍的で抽象的な倫理原則を理解する段階(ステージ5、6)へと、直線的に進むものとされた。この理論を当てはめると、エイミーはジェイクよりも道徳的に未熟な、劣った段階にいると判断される。
しかしコールバーグは、具体的な関係性を重視し非暴力的に衝突を解決しようとするエイミーの思考を、抽象的な法と理論を重視するジェイクの思考よりも下等だと一方的に断じ、妥当な根拠も提示できていない。

二人の視点は、どちらが善いとか悪いというものではなく、また「どちらかが他方の帰結として生じるというものでも、対立するものでもなく、むしろ、補完し合う関係にある。」(114)
なぜなら、ジェイクに代表される「権利、自立、公正の道徳」と、エイミーに代表される「関係性、応答、ケアの道徳」は、人間の経験する二つの真実をそれぞれ反映しているからである。
すなわち、人間は 他者との関わり合いの中でのみ、自分が他者と違う独立した存在であることを知るのであり、また、他者と自分が区別されているからこそ、われわれは関係性を経験することができる、という二つの真実である。


第三章      自己と道徳性の概念

妊娠中絶を決断しようとしている女性に対して、中絶の意思決定や道徳性などに関するインタビュー調査が行われた。そこで明らかになったのは、女性たちはコールバーグの道徳性発達理論とは異なった道徳的視座を持っているということだ。それはケアを中心とする「ケアの倫理」であり、その成長の過程は 三つの視座と 二つの移行期によって表される。

【第一の視座】は、自分の生存と利益を第一に考える自己中心的な視座である。この時、ケアの対象は自分自身となっている。
  (移行期)この視座はしかし、自己と他者のつながりが意識されることにより、利己的だとして自ら批判される。そして
【第二の視座】に至ると、ここでは他者に対する責任が強く意識され、ケアの対象は他者となる。慣習的な「善さ」を重視することで道徳的葛藤を解消しようとする。しかし、やがて
  (移行期)がまた訪れ、他者へのケアと「自己犠牲」が混同されることにより不調和が生まれる。自分と他者へのケアのアンバランスに苦しむ。そして、その不均衡を解消しようすることで、
【第三の視座】へと移る。ここでは、自分への「正直さ」や「真実」への関心が高まり、ケアの対象は自分と他者の両方となる。そして、第二の視座のような慣習的な道徳ではなく、主体的な判断の拠り所となる普遍的な道徳が意識される。その道徳が重視するのは、「何人も、できる限り傷つかないようにされるべき」ということである。

インタビュー調査の中で、多くの女性が自らの意見や本音を抑えこんでいることが判明した。彼女たちが声を出す(主張する、選択する)ことを避けるのは、第二の視座で 「女性的な善さは自己犠牲である」という慣習道徳に囚われているためである。
しかし、一般的に成人であるとは、「主体的な個人」であること――つまり自己を主張することが求められる。これが意味するのは、多くの女性は大人になる過程で 成人性(自己主張)と女性性(自己犠牲)という相反する要求=ジレンマに葛藤するということである。


第四章      危機と移行

「ケアの倫理」における三つの視座の発達には連続性がある(順序と移行期があるということ)。そして、次の視座への移行を促すものは葛藤、ジレンマ、危機である場合が多い。

妊娠中絶を真剣に考えることは、女性にとって重大な危機である。その危機を直視すると、どんなに取り繕っても「誰も傷つかない解決策」などないということに気づく。
危機における葛藤を成長の機会にできた場合、女性たちは自己と他者の関係性について より省察的な思考ができるようになり、前よりも自己を肯定的に見られるようになる。

「しかし、危機による転機は一方で、ひとをニヒリズムと絶望へと陥らせる可能性を孕んでいる。」(296) 危機に際し、次の道徳的視座へスムーズに移行ができない女性は、「ケアすることは自分たちの弱さであると考え、男性の立場を強さと結びつけて捉えるようになり、しまいには強き者は道徳的である必要がなく、関係性をケアするのは弱き者だけだと結論づける。」(296) 移行に失敗してしまうケースは様々あるが、共通するのは他者から否定・放棄される経験と、その応答として自分自身を否定・放棄してしまうという点である。


第五章      女性の権利と女性の判断

1860年に出版されたジョージ・エリオットの小説『フロス河の水車場』では、マギーという女性が禁じられた恋を前に葛藤し、最終的には慣習的な善に従うように自分の恋心を断念する。
およそ100年後の1969年、マーガレット・ドラブルの小説『滝』の主人公ジェーンは、マギーと同じ境遇に置かれながらも、「溺れてもかまわない」といって自分の感情に正直になることで マギーとは真逆の決断をする。

マギーの判断の中核にあったのは、女性の慣習的な徳目としての自制や自己犠牲、そして他者を傷つけてはならないという他者への責任だった。
一方ジェーンは、マギーの決断を認識した上で「自己に誠実であれ」という自らの内なる声に従った。ただし、ジェーンは自らの行動の利己性に気づいており、その判断により誰かが傷つくということを自覚し、苦悩する。 

マギーとジェーンが経験した葛藤は、「権利の概念」(自己に誠実であれ)と「責任の倫理」(誰も傷ついてはいけない)の緊張関係を表している。権利の概念から見ると、自己犠牲は自己の放棄という否定的な意味を持つ。一方、責任の倫理から見ると、自己への誠実さは利己性と重ねられる。 
この緊張に対して、権利の言葉だけを使って解決を図っても 利己性と自己犠牲は対立したまま行き詰まってしまう。「権利の用語法は、人間関係における責任の問題を扱うには不適切」(322)なのである。 

大切なのはバランスであり、責任・ケアの倫理の側面からは、慣習的な道徳に権利の言葉を加えることで「責任は、自己犠牲から切り離され」(318)、他者だけのケアから 自他共のケアへと広がっていく。
また、権利概念もケアの視座が加えられることで「判断は、より寛容で、それほど絶対的のものではなくなる。」(346)


第六章      女性の権利と女性の判断

これまでの創作の中には、人間(男性)が自立・分離を経てアイデンティティを確立し、自己実現をする(夢を叶える)話で溢れてきた。これは、成熟――つまり大人になることは自己と他者を分離することだとする価値観の物語りである。
しかし繰り返し述べているように、このような枠組みは男性のライフサイクルをモデルにしたにすぎず、女性についての記述が不足している。

男性のライフサイクルも女性のライフサイクルも、どちらも人間の現実であり、成熟に至る二つの傾向を表しているにすぎない。女であれ男であれ、大人になること(成熟)が真に意味するものは、「絶対性」を手放し「複雑性」に直面すことである。
それはすなわち女性の場合、自己犠牲的なケアという絶対命令から離れ、権利と公正の概念を加味することを意味し、また 男性の場合は、真理と公正という絶対性から離れ、ケアと寛大さに接近することを意味する。

「分離に報酬を与える社会」(360)では、女性が経験してきた愛着や相互依存という、もうひとつの成熟の姿が無視されてきた。実際は、男性の声が語る分離も、女性の声が語る愛着も、どちらも重要な成熟の姿なのである。なぜなら「前者は自己を際立たせ、奮起させるものとして分離の役割を、後者は人間らしいコミュニティを作り出し維持する」(361)役割があるからである。


これまで聴かれてこなかった「もうひとつの声」に耳を傾け、成熟や発達についての言説に女性の経験を含めることで、「(分離に親和的だった)アイデンティティ概念が拡張されて、相互連関の経験を含むようになる。道徳の定義域は同様に、関係性における責任とケアを含むことで拡張される。」(391)
そうすることで、私たちの人間についての見方は、より深く、より豊かなものになるだろう。

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