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デザインと出版の狭間で:ゲームの"デベロップ"の曖昧さ(Entre création et édition, les ambiguïtés du “développement” d’un jeu)

本記事は、Bruno Faidutti氏が2023年6月11日に投稿した「Entre création et édition, les ambiguïtés du “développement” d’un jeu」(英題:「Between design and publication, the ambiguities of game “development”」)の翻訳である。

Faiduttiによる出版社の成績簿のような内容だ。直接的にはデベロップの話をしているわけではなく、一般的な出版社とデザイナーのやりとりに関する話という感じとなっている。出版社とデザイナーの役割分担や、契約内容の話、最近のトラブル事例など内容は多岐にわたっている。

ゲーマーの本分はゲームで遊ぶことである。しかし、ボードゲームを愛する以上は、どうしてもデザイナーと出版社との間でのみ行われる裏側をうかがいたくなってしまうものだ。本記事は、そういう人たちのための記事のように思われる。Faiduttiはどちらかというと、出版社側に読んでほしいという旨を示唆しているが、日本の出版社の大半は主としてローカライズを担っており、日本においてはあまり参考になるものではないだろう。

なお、オインクゲームズの新作である「クジラオルカ」に関する記述もある。出版社側のデザイナーに対する誠実さがうかがえると思われる。

元記事は以下のリンク先を参照されたい。ヘッダー画像はみんなのフォトギャラリー機能を利用させていただいた(なお、出版社名が適当なので、適宜、正しいものに修正している。)。

2022年10月、ポーランドのプシュチコボ(Puszczykowo)で行われたゲームデザイナーと出版社の会合に招待された。この会合については、ここにある以前のブログ記事で既に語ったところだ。私は、最近あったいくつかの悪い体験に主に触発されて、出版社が“デベロップ"したいと思った時、つまりゲームを変更したい時に直面する利点のみならず、その問題点に関するスピーチを行ったんだ。この記事は、このスピーチを簡素化して最新版にしたものである。最新版とした理由は、例として用いたいくつかのゲームや、当時、私が取り組んでいたゲームが、2023年6月に棚に到着した(※発売された)からである。

小説家なら誰でも、半分冗談まじりで、文芸編集者や出版社の大半は挫折した作家だと話すことがあるだろう。同じことがボードゲーム業界にも当てはまる。そういうことによって、専門的になるおかげで出版社とゲームの詳細について議論することが興味深くなるとともに、嫉妬心に阻まれてしまうせいで困難なものにもなる。ボードゲームの"デベロップ"(まあ、デベロップというのは、出版契約が締結された後に行われるルール変更の婉曲表現なわけだが)は、時として途中で終わりにしたいと思うほど、ボードゲームのデザインにおいて精神的、道義的に最も疲弊する部分である。

当然、ほかのボードゲームデザイナーと同じく、私は、出版社によくテストされたプロトタイプしか見せないし、仕上がっていてアートワークを付け足せば、ほとんど出版できるような状態だと考えている。けれども、出版社が何点か変更を加えたいと考えることは、十分に理解できることだ。このような変更の本質や許容できる範囲というのは、前もって議論されるべきことだが、そのような実例は滅多にない。契約において明記されるべき事柄かもしれないが、そんなことは一切なかった。デザイナーと出版社の間のデザインとデベロップの問題というのは、お金の問題よりも一層頻繁に起こる。しかし、ほとんどのゲーム出版に係る契約は、ほとんどの場合、ロイヤリティの率と出版期限のみ取り扱っている。残念ながら、契約書に記載されていない事柄について意見の相違があった場合には、出版社が強い立場にある。つまり、多かれ少なかれ、出版社の望むがままのことができるわけだ。

出版契約が締結された後のゲームデベロップをまとめ上げる方法は、実務上の問題である。ゲームに関するデザイナーと出版社との間の意見の相違を対処する方法は、道義的な問題であり、法的な問題になり得る。けれども、裁判が提起される前に解決したゲームデベロップに係る問題については、(まだ?)1件も知らないね。ただ、こういった問題に関する法律は、国によって大きく異なることは強調しておきたい。フランス法においては、出版契約を通じて売却することができる著作財産権(a patrimonial author’s right)と売却することができない著作者人格権(a moral author’s right)がある。そして、著作者人格権が示唆するところは、契約書にどんなことが記載されていようと、(※創作物を手がけた)下請け(subcontractors)が何人いようと、文化的な所産は、作者の同意なくして本質的な改変をすることは許されないということだ。私の知る限り、アメリカ法にはそのような区別はない。

しかし、重要なのは法律ではない。デザイナー、出版社、デザイナーと出版社との関係性、そして当然のことながらゲームが重要なのだ。私は、自分のゲームの大半が考案したとおりのルールで出版されることを望んでいる。そして、通常は、何とかしてそうなるようにしている。とはいえ、出版社に自由裁量を与える準備のあるゲームも中にはあるし、いくつかのゲームでは私からそれを依頼したことさえもある。全ては、人、ゲーム、タイミング次第なのだ。全てのケースは違うものだが、全てのケースにおいて事前に話し合わなければならない。

今までにロイヤリティの計算や支払で揉めたデザイナーなんてほとんどいないということはわかっているさ。全てのデザイナーは、出版社がデザインの一部をどのように修正したかとか、修正したがったとかといった不条理な話を持っていると思う。私たち全員、ぎこちないルールの書き換えをされた経験があるし、昨年の記事で既に話した別のトピックだけれど、ひどいルール翻訳だって経験しているさ。付け加えるなら、お金の問題というのは、たとえ遅かったとしても、裁判所の力を借りれば、常に解決し得るものだ。幸いなことに、お金の問題は極めて稀な話で、私には一度も起こったことがない。他方、編集上の問題は、後から是正される(correct)ことはあり得ない。起こってしまったらそれで終わりで、2度目のチャンスがゲームに来ることはほとんどない。

この記事で書くことは、ほぼ私の経験からのみを元にしている。私が一番よく知っていることだし、仲間のデザイナーから聞いた話は、彼らが公にしてほしいと思っているか分からないからね。もし、この問題を議論することが、私のような実績のあるデザイナーにとっても難しいことなのであれば、ボードゲーム業界で全く実績がないとかほとんど実績がないとかといった若手のデザイナーにとっては更に困難なことであるし、出版社と対立した際には強い立場にいるはずもないと想像する。もちろん、形式的には、デザイナーに向けて話しているとしても、この記事は、ある意味、出版社に読んでもらう意図もある。

ゲームは"適合しなければならない"

そしたら、みんながプロトタイプを出版社に見せたら、出版社はそのゲームが面白いと思ったとする。けれど……

テーマが自社の製品ラインと適合してない
テーマが自社の別の製品と似すぎている
プレイ時間が長すぎる
プレイ時間が短すぎる
インタラクションに欠けている
攻撃要素が強すぎる
単純すぎる
複雑すぎる
2人プレイに対応すべきだ(この指摘はいつも言われることだ。私のプロトタイプは、大体対応してないからね。)

テーマの問題はゲームによりけりだ。設定が変更できる時もあれば、できない時もある。ゲームシステムの変更は、やりすぎでない限りは、常に想定できるはずだ。ゲームシステムの変更は、性急にならないよう慎重に行わなければならない。オリジナルのデザイナー自身が手がけるのではないにしても、少なくとも一緒に行うべきだろう。こういったことは作家でも起こる話だ。文章を短くするように言われることは多いし、一部分を書き換えろと言われることもある。私のユニコーンに関する著作は、出版社からすると2.4倍長すぎるものだった。私はそれを受け入れたけど、自分で短くしたよ。

テーマ-お好みならば、設定と言っても構わない

注釈:ゲーム業界においては今では一般的になっているけれど、私は、ゲームのアクションが行われる世界を記述するために、"テーマ"と"設定"という用語を使い分けることには無頓着だ。批評の中には使い分けているものもあるのを非常によくわかっているさ。文学理論から受け継がれたものであって、テーマというのはゲームアクションの根底にある筋書きであり(協力、フーダニット……)、設定というのはゲームアクションが行われる世界である(中世ファンタジー、SF……)。小説や演劇を議論する際には、この区別は興味深いけれども、ボードゲームに関しては必ずしも意味をなすとは限らない。文芸評論家が"テーマ“と呼ぶものは、ほとんどのゲームにおいてメカニクスに内在するものだ。

非常によくみられる状況というのは、出版社がゲームを楽しくプレイしたが、設定が売れ線でないとか、自社の製品ラインとは合致しないと考える時だ。テーマの変更は、最も頻繁にされる出版社からの要望である。そして、大抵は、最も対処しやすい事柄である。変更が可能か否かという話だ。

出版社は、ゲームの設定がどうなるかがわからないまま出版しようとは考えないので、ほとんどの出版社は、出版契約の締結前にデザイナーとテーマ変更について話し合う。少なくとも、新しいテーマを探したいと思っていると明確にするものだ。しかしながら、二、三回、事前にゲームのテーマ変更をしたい旨を規定しなかった出版社と契約を締結したことがある。というのは、彼らにとってみれば、問題になるとは真面目に考えていなかったからだ。少なくとも、その後になって、常に私と新しい設定について話し合ったよ。

当然だけど、変更が可能かどうかはゲームによりけりだ。多くのゲームは、本質的には、テーマがない抽象的なものだ(abstract)。もし、設定が、ゲームや駒に漠然とした歴史的又は異国情緒のある名前を与える以上のものでないのであれば、設定変更は決して問題なるはずがないものだ。「Attila」については、元々のテーマがあったとしても、それが何だったかは覚えていないけれども、未開人が草原に押し寄せるというものではなかったことは覚えているね。用いている駒が吸血鬼の形をしているという理由だけで、Vampire Huntersという名前を付けたプロトタイプがある。このプロトタイプには何百通りのテーマがほかにつけられるだろう。「マスカレイド」のテーマが不思議の国のアリスからヴェネツィア・カーニバルに変更されたのが、Repos Productionと契約を締結する前なのか締結した後なのかすら覚えていない。「Miaui」は、鳩にパンくずを与える老婦人というテーマだったが、出版社が魚を捕まえるポリネシアの猫というテーマにした。けれども、この変更はゲームプレイに影響するものではなかった。

逆にいうと、ゲームの中にはテーマを中心として構築されたものもあり、そういったゲームは設定の変更が明らかに不可能となる。この話は、ウォーゲームを含むシミュレーションゲームにおいて問題となることが明らかであるが、他の多くの軽めのゲームにおいても当てはまる。私がデザインした作品の中では、「Mystery of the Abbey」や「Trollfest」なんかがそうだ。これらは良いゲームであると言われることが多く、これらはストーリーを語るゲームということになる。驚かれるかもしれないが、Bruno Cathalaと私でデザインしたホビットと巨大グモの対決(※というテーマ)が、若干のルール変更が加わったとはいえ、「ラプトル」(Raptors, ※小型で俊敏な肉食性の恐竜)とハンター兼科学者というテーマに変わるとは想像したことはなかった。

ほとんどのゲーム、少なくとも私がデザインするゲームの大半は、その中間にある。こいつが物事を厄介なものにしている。

多くの場合、出版社が提案した変更というのはより良い方向になるものである。この良い例としては、「黄金の島 イスラ・ドラーダ」が挙げられる。Funforgeに見せた当初のプロトタイプは、想像し得る最も退屈な設定だった。それは、中央ヨーロッパの中世の商人というものだ。このテーマはつまらないというのはわかっていたが、意味があって一貫性のある別のテーマを無闇に探していたんだ。島の探検というテーマにするというアイディアは、疑う余地なく人をより惹きつけるものだったし、出版社側のPhilippe Nourahが考え出したものだった。この変更はすぐに実装されたことで、飛行艇、キラーパンダ、部族間の戦争といった新しくて楽しいテーマ性のある要素を取り入れる猶予が1年あった。ゲームが出版された後になって、異国情緒のある島の定型表現として欠かせない火山を加えることを忘れていたことに気づいた。もし、いつか新版が出版されるのであれば、何とかして火山を入れ込もうと思うね。別の素晴らしかった話としては、「Tonari」に関するものがある。私のプロトタイプは、着想を与えてくれたAlex Randolphのもっと単純なゲームと同じく、完全なアブストラクトゲームだった。そして、多かれ少なかれ意味のある設定が必要ということはわかっていた。漁船というアイディアは、完全にゲームと合致するもので、出版社であるIDW Gamesから提案されたものだった(残念だけど、彼らはそれ以後、ボードゲーム業界から撤退してしまったのだった。だから、この軽量級の楽しいゲームは新しい出版社を探しているんだ。)。

出版社から提案されて自分が賛同した場合であっても、「Dreadful Circus」におけるテーマ変更は失敗だったね。もうすぐ発売されるこのゲームの新版と同じく、プロトタイプは、コイン、宝石、魔法の財宝を収集するドワーフがテーマであった。このテーマは、ゲームメカニズムと完璧に合致していたんだ。けれど、このテーマは、ドイツにおける中世の商人というテーマよりかは、わずかに独創的であるだけだ。Portal Gamesがテーマを変更しないか聞いてきた時は、特段驚かなかった。それに、彼らがアイディアを見つけてきてくれたんで嬉しかったよ。問題は、新しい世界観がプレイ中では全く意味がないものとなってしまい、このゲームにおいて物語が展開していくようには全く感じられなかった。設定それ自体が原因なのか、ゲームの要素に対する生のフィードバックがないまま、出版の数か月前という急な実装のせいなのかははっきり断言するのは難しいね。

私のデザインはシミュレーションではないが、そうであっても、独自の世界観というのは、多くの面でゲームメカニズムを特徴づけてくれる。普段は、些細なテーマに沿ったジョークや、カードの名前とその効果を関連づけるジョークを用いて、設定に対するヒントを与えようとしている。こういったちょっとしたルールやちょっとした冗談というのは、テーマ変更があった際には意味不明となって埋没することが明らかであるし、他のものにとって代わるべきものだ。たとえ、そのせいでいくつかのルールを変更することになろうともね。あるルールが、新しい設定の下では意味をなさない場合には、単純に取り除いてしまったほうがマシなことが多い。ほとんどの場合、新しいテーマからゲームルールやカードに至るまでの必要なフィードバックは忘れ去られてしまう。出版社は、プロトタイプからカード、駒、効果を取り出してきて、多かれ少なかれ、新しいテーマから着想を得たランダムな名前を付けていくだけだ。必ずしも、意味をなすとは限らない名前をね。もし、多くのゲームのテーマが"のぺっと貼り付けられた(pasted on)"ように感じるのであれば、大抵の場合、実際には、性急、かつ、ぞんざいに貼り付けられたからである。Anja Wredeと私が、迷える羊のゲームを「Tales & Games: Lost in the Woods」になった時のように、新しくてテーマに合致したちょっとしたルールや冗談をゲームに持ち込むことは時間とゲームバランスに関する複雑な知識が必要となる。そういうわけで、テーマの変更は、オリジナルのデザイナー自らが行うか、少なくともオリジナルのデザイナーと一緒に行うべきだ。

メカニズムーつまりは、ルールだ

この話が物事が厄介にしていて、意見の相違や恨みすらも招く可能性がある。デザイナーに不満を抱いていない数少ない出版社は、元ゲームデザイナーが経営している。デザイナーも出版社も、新しいルールやカードを加えたり、ゲームバランスを修正したりすることにあらがえない。大きな出版社は、社内"ゲームデベロッパー"を雇うことすらあって、彼らは挫折した過去のあるプロのゲームデザイナーもどきのようなものだ。こういった人たちは、ゲーム文化にどっぷり浸かっていて、ルールを読んだり書いたりするという経験が豊富だ。そいつらは、みんなよりもゲームやゲーマーのことをよく知っているんだ。問題というのは、ゲーム文化に深く浸かっているにもかかわらず、みんなが製作したそのゲームに精通してないということだ。彼らは、まだ荒削りな状態のゲームを完成させる手助けをしてくれるし、貴重なアドバイスだってくれる。だが、そいつらが自分のことを無視するような振る舞いを許すべきではない。最高のデベロッパーというのは、ゲームのルールを書き換えようとするのではなく、むしろデザイナーを道案内して、作業を進めるべき方向性を示す人のことだ。

Bruno Cathalaと私は、「ラプトル」で奇妙で矛盾したような体験をしたことがある。私たち、まあ、ほとんどBrunoなんだけど、私たちが考えていたホビットと蜘蛛の設定からラプトルと科学者の設定に変更した後、このゲームのためにMatagotという出版社を見つけてきたんだ。デベロップの最初の数か月は苦痛だったよ。出版社は、全く意味をなさない変更をゲームに加えようとしてきた。例えば、異なるスペース上にある火をスペースの間の有刺鉄線に置き換えるとかね。そんなことしたら、ゲームが複雑になってしまうし、テーマ性も乏しくなる。ある意味で、自分たちがうまくいってないとわかっていた初期のバージョンに立ち戻ってしまうものだった。幸いなことに、挫折した過去のあるゲームデザイナーが出版社であったとしても、これじゃあうまくいかないと気づく知的な人であった。私たちは、初期のバージョンにほとんど戻したんだが、数か月後には迷走していた。他の出版社はより頑固だったり、デザイナーと一緒に変更する箇所を話し合うことすら考えつかなったりする。

もちろん、テーマと全く同じく、出版社やデベロッパーは本当に優れたアイディアを持っていることがある。「マスカレイド」や「あやつり人形」の新版のキャラクターの中には、Repos ProductionやZ-Man Gamesに所属する人によって自社内で加えられたものがある。デザイナーとしては、デベロッパーのことを邪険にすべきではないし、無視すべきではない。けれども、自由にさせるべきでもない。自分のゲームのコントロールをし続けて、新しいカードやルールの全てを必ず確認することだ。そういうわけで、ルールの変更は、1つ1つ実装していかなければならないのだ。

出版社から何の音沙汰もないくせに、突然、デベロップが行われ続けていて、多かれ少なかれ、自分抜きでテストプレイしていたことが判明することほど、イラつくことはないね。それがわかるのは、自分の最新バージョンから何百もの変更が加えられた新しいルールとカード一式へのリンクを受け取った時だ。これは、「Dreadful Circus」で起こったことそのものであって、私が非常に重大で問題のある変更点を見過ごしてしまった理由となる(※こんな経緯があったようだ。)。私は、Ignacy TrzewiczekとPortal Gamesのチームとの間で長く話し合いをしてきた。私たち全員がエラーを認めて、私にゲームの権利を返還することに決めた。私がデザインした元々のゲームは、おそらく最も自信のあるデザインだが、当初の設定、当初のルール、そして当初のバランスでTrick or Treat Studiosから「Treasure of the Dwarves」として2023年末に発売される。このゲームは、間違いなく「Dreadful Circus」とは異なるものだ。

最初から全てが話し合われている場合には、まあ、それはそれでいいかもしれないし、とてもスムーズに物事が進むかもしれないね。私は、どちらかというと、小さい箱の中に小さいゲームを入れる日本の小さな出版社であるオインクゲームズには、星空で星を数えるというテーマのゲームである「Constellations」(※星座)を出版してほしかったんだ。それでも、佐々木隼が私のゲームの中核となるメカニズムの1つを用いて、少し違ったアイディアを提供してくれて、私は嬉しかった。ホエールウォッチングに向かう観光客をテーマとする彼のゲームを見て、オインクのチームとオンラインでプレイした。そして、そのゲームを出版させることを承諾したよ。けれども、私の名前は、箱には隼の次の2番目にクレジットされている。当初は、なお、私が元々のゲーム(※「Constellations」のこと)を出版してくれる出版社を探してもいいということをみんなが合意していた。けれども、「クジラオルカ」の最終バージョンを数回プレイした後は、その考えを諦めたよ。実のところ、「クジラオルカ」は、「Dreadful Circus」とは異なり、私の「Constellations」よりも優れていて楽しいものだからね。

Vampire: The Masquerade – Vendetta」は、3回にわたるデザインの段階があったが、いかにして出版社のデベロップが効率よく行われるかを示す格好の例だった。既に成功したビデオゲームデザイナーであるCharlie Clevelandが吸血鬼をテーマにしたボードゲームに挑戦すると決断した時、彼は、用心深く、協力して手掛けてくれるよう依頼するキャリアのあるボードゲームデザイナーを選んでいた。そして、彼は私を選んだんだ。私たちは、彼のオリジナルのプロトタイプから初めて、一緒になって2つ目のバージョンをデザインした。プロトタイプの箱に私たちの双方の名前が記載される価値があるほど、より滑らかで違うものとなった。ある意味、私はデベロッパーだった。その後、私たちは、Horrible Guildという出版社を見つけた。彼らは、このゲームを「ヴァンパイア:ザ・マスカレード」の世界に移すことを決めた。吸血鬼の設定はそのままだったが、非常に特殊で洗練されたテーマとなった。Charlie、Lorenzo(※ Lorenzo Silvaのこと)、それにHorrible GuildのHjalmar(※Hjalmar Hachのこと)は、そのゲームに精通していたが、私はそうでなかった。彼らと一緒に作業するには、この世界観を知り尽くすために原典を読むのに数か月を費やさなければならなかった。そして、私にはその時間がなかったんだ。こういうわけで、主に技術的な理由からだが、最終的なデベロップの段階では身を引くことにしたが、オリジナルデザイナーであるCharlieはそのまま作業を続けて、集中的なテストプレイとデベロップのために、数回、サンフランシスコからミランへの旅行すらしたんだ。彼らは素晴らしい仕事をしてくれたよ。

古いデザインの新版

古参のゲームデザイナーになると、多くの絶版ゲームが載った"カタログ"があるものだ。そして、そのいくつかのカタログに載ったゲームは、二、三回版を重ねたものだってある。ところで、もし、私の古い作品を再販することに興味がある出版社であるのならば、最近のブログの投稿で再販可能なタイトルのリストを掲げているよ

数年前、Serge Lagetと私は、「Ad Astra」のダイナミックさが増したバージョンを手がけることにした。この新版は、Grand Gamers Guildからもうすぐ出版される予定だ。全く新しいゲームと同じく、Sergeと私はデベロップのほとんどを手がけた。出版社は、何度もテストをしてくれて、意見やアドバイスをメールで送ってくれた。それらを私たちは活用したんだ。同様に、私がルールの初稿を書いて、Grand Gamers Guildがあちこち修正をした。けれど、常に、私たちと議論した後にされていた。残念だけど、フランス語版の出版社とは同じようにスムーズにはいかなかったね。

しかしながら、ほとんどの場合、特に絶版ゲームの新版のアイディアが出版社から来た時に、私の昔のデザインを修正することにそこまで知的な興味がわかない。本当に新しいものを作るときほどわくわくすることにはなり得ない。"私の"ゲームの元々のバージョンが既に出版されている場合には、それが成功したかどうかにはかかわらず、出版社に対して新版についての自由裁量を与えることには全く問題にはならない。このゲームに対して私ができることというのは、既になされている。他の人たちがそのゲームから何をできるかについて見るのに好奇心を覚えるのだ。

格好の例は、Matagotが出版されて、たった今しがた棚に到着した「Grail Cup」となる。このゲームは、10年前か15年前に出版された私の古い作品である「ロスト・テンプル」のリメイクである。「ロスト・テンプル」は、それ自体が「あやつり人形」のキャラクターシステムを別の形にしたものだった。このゲームは比較的よく売れたが、その成功は続かず、出版社は絶版にしてしまった。私はこのゲーム(※の権利)を取り戻し、お金と宝石の要素を抜いた合理化されたバージョンを作成し、いくつかの出版社に見せた。Matagotが興味をもってくれたが、同じゲームではないことを強調するために違う設定を使うことも望んだ。私たちは一緒に設定について話し合って、キャメロットの騎士たちが聖杯の城を目指して競走するという楽しいアイディアに行き着いた。「ロスト・テンプル」は前々から手元にあって、棚にはデザイナーがもらえる分が数個まだあった。その時、他のプロジェクトを手掛けていたので、Matagotのデベロップチームに変更点を任せることを一緒に決めた。数か月ごとに、私がテストプレイできるように最新のプロトタイプを見せてくれて、時々、ちょっとしたアイディアが数個取り入れられていた。私は、このゲームの完成品を見てとても嬉しかった。おそらく、私がすることができたであろうことよりも優れているからね。

同様に、最近、Trick or Treat Studiosという新しい出版社と5つのゲームについて契約を交わした。そのうち3つは全く新しいデザインだった。「Trollfest」、「Treasure of the Dwarves」、あと残りの1つはまだアナウンスされていない。出版社からは、ルールに主要な変更を求められなかったんだ。新作を除く残りの2つは、昔のカードゲームの新版だ。「Knock! Knock!」が「Halloween Party」としてちょうど新たに出版されたところだ。デベロップは、本当の協力作業だった。Gwenaël Bouquinと私という2人のデザイナーが、出版社と共にカード効果の微調整を行なったんだ。

最後のゲームは、まだ発表されていないカードゲームとなるが、既にいくつかのバージョンがある昔のデザインの新版である。Trick or Treat Studiosは、設定を変えたがっていて、新しいテーマということは、新しい世界観にはまり込むような新しいカードとデックをデザインしなければならないこととなる。当初から、こういう作業をすることに興味がないとはっきり伝えていて、彼らにデベロップを任せたんだ。時々、彼らのやっていることを確認して、すべてがうまくいくように新しいカードデックをテストプレイした。このゲームは、まだ作業中なんだ。

ルールを書くことと書き換えること

結局のところ、ゲームというのはルールの集まりにすぎない。そういう理由から、本当の最後まで、予期せぬ変更や好ましくない変更が一切されていないか確認するために、デザイナーは全てのバージョンのルールを確認すべきこととなる。理論上は、事前に、デザイナーと話し合わずにいかなる変更もされるべきではない。けどだ。うーん、そういうことは起こる。そういうことは、最も軽くて単純なゲームであっても起こるものだ。「インカの黄金」の本当に最初のバージョンの最終ルールを確認している際に、同じ2枚の危険カードが場に出たら、そのうち1つはゲームから取り除くという表現がルールから抜け落ちていることに突然気づいてしまった。このことは、事前に出版社と話し合われたことではなかった。私は出版社にメールしたよ。そしたら回答は、単純化するために取り除いた非常に軽微なルールだと言うだけなんだ。実際には小さなルールだ。けれども、勝率を変えてしまうし、ゲームが進行した際に前進することによる危険性がわずかに減るものであって、それゆえ劇的な逆転の可能性が高まるので、そのルールは必要不可欠なものだった。もし、私がこれに気づかなかったならば、もし、私が些細なルールを戻すように強く言わなければ、このゲームはそのルールがないまま出版されてしまい、おそらくここまで成功しなかっただろうさ。

今では、決定稿となったルール(the final ruleset)の初稿を書くことを強く要求するようになった。その後、出版社とデザイナーとの間を行き来して修正していき、あちこち書き直すこととなるものだ。ほとんどのゲームデザイナーはこんな作業をしない。だって、ルールライティングが好きではなかったり、ルールライティングが得意でないことがわかりきったりするからだ。ただ、少なくとも、ルールが明確で、文法的に正しいことを確認しなければならないし、修正としっかりとした校正のための時間が十分にあるか確かめないといけない。あまりにもよくあることだが、急遽作成されて、時には印刷にかけられる前の週のことだってある。大変多くのゲームのルールが曖昧で下手に書かれていることは不思議な話ではない。

出版社の中には(よくわからんけど、フランスの出版社がほとんどだ)、アートとグラフィックデザインの手直しに数か月かけて、最後の1週間にぎこちないルールを書き上げて、校正と修正のためにデザイナーに一、二日見せるというところもある。アメリカの出版社は、明確で読みやすい書き方の重要性により意識的であるように思われる。これは、ほぼ常にフランス語のルールよりも英語のルールの方が優れていることの理由の1つとなっている。

何事も適切な時期というものがある

ゲームデザイナーとゲーム出版社の時間感覚は異なっている。その理由は理解できる。出版社のスケジュールの問題は気の毒に思うところだ。そうはいっても、出版契約を締結し、ほとんどあるいは全く知らせがないまま一、二年が経ち、突然、"6か月後に出版する予定なんだけど、その間に、設定を変えて、2人用ルールと協力ルールを付け加えた上で、何枚かカードを削除し、言語依存をなくすために全てのテキストをアイコンにとって代えるんだ"というメールを受け取ると、腹立ちと打ちのめされた感を覚えるよ。出版社がみんなに変更を依頼するか、自社内でその作業を担うかどうかにかかわらず、このことは編集上の災難の引き金となる。デザイナーのプロトタイプだって、大抵は、数年とはいわないまでも、テストプレイや微調整に数か月間かけた賜物である。変更は常に後から行うことができるが、変更するたびに、次々と十分なテストプレイとフィードバックを行なって同じように慎重にされなければならない。多くの出版社は、こういった変更を取り入れるために必要な時間というのを過小評価したり、デベロッパーとデザイナーの能力を過大評価したりする。

最後の最後で出てくるアイディアは素晴らしいものかもしれないが、決して確実なものではない。自分自身のアイディアに警戒し、かつ、自分ほどゲームのことを知らないデベロッパーのアイディアにはもっと警戒しなければならない。

全部一人でやれば?

もちろん、デザイナー、出版社、そして時にはイラストレーターすらも、同時に全部一人でこなすという誘惑は常にある。例えば、最近の素晴らしいゲームである「Night Parade of a Hundred Yokais」をデザインしたLuís Brüehは、こういう選択をした。私は、彼のデザインのスタイルが好きだし、私のゲーム全てにおいてこれほどうまくイラストが描かれて生産されてほしいと思っている。こういった方法は、望むゲームをまさに手に入れる最良の方法に見えるかもしれない。2つの理由から、真剣にこれを行おうと考えたことはない。

最初の理由は、前にも説明したとおり、出版社は悪いアイディアを持ってくる時もあるが、良いアイディアを持ってくるほうが多い。ここでは失望した具体例をいくつか披露してぶつぶつ文句を言ってるけれど、もし、私が出版した全てのゲームを頭に思い浮かべるとしたら、出版社の"デベロップ"によって改善されたゲームはもっと多くあるだろうさ。

2つ目の理由は、出版というのは異なる仕事であって、私が習得できるとは思えないものであるということだ。グラフィックデザイン、印刷、製造、配送について議論する気にはなれないし、めちゃくちゃ不得手だということは間違いない。私は絵を描くのが壊滅的に苦手だ。Kickstarterは、部分的に配送という別の問題を解決してくれている。Luís Brüehのような比較的成功した1つの話を目指して、名の知れない、時にはボロボロになったデザイナーが多くいる。彼らは、全力を尽くし、ゲームをデザインすることで、この仕事の最も困難なパートを成し遂げたと確信するんだ。そんなことはないというのに。

この40年で何が変わったか……

最近、何個か嫌な経験をしたんだ。ゲームがどのように"デベロップ"されるかは、最初から明確にされるべきなのに、ほとんど明確にはなっていない。出版社とデザイナーの間で、ゲームデベロップに関する問題は、お金に関する問題よりもはるかに頻繁に起こっている。契約書には、時々、ロイヤリティの計算方法に10ページ以上も記載があるのに、デベロップやゲームの完成については1文も書かれていないなんてことがある。もし、誰もこのことに関して裁判所に行こうとは思わないとすれば、そんなことを書く意味はほとんどないかもしれない。しかし、少なくとも、契約を締結する前にデザイナーと出版社で、明確かつオープンに話し合われるべきことだ。

今では、ゲームをデザインして出版社と取引し始めてから40年が経った。ちっぽけな趣味の世界から大規模市場に移行する過程で多くの変化があった。デザイナーや出版社のほとんどはいまだに熱狂的なゲーマーであるが、彼らはより専門的にならざるを得なかった。ゲームの完成、ルールの最終調整、アーティストの選択、最終稿のルールライティングになると、誰もがますます責任感を覚えて全てを確認したくなる。多分、私にはアートの見る目がないので、イラストレーションに関する出版社の選択につべこべ言おうとは思わない。たとえ、私が情報を教えられることを好んでいて、時には自分の意見を伝えるような人間だとしてもね。けど、他の全ての出版に関する問題、つまりゲームそれ自体を取り扱う問題については、話し合いがより緊張感あるものとなっている。私は話し合いを喜んで受け入れるタイプだが、私が納得しなければ、自分の意見を曲げようとはしないし、もっと多くのデザイナーは自分の意見を堅持すべきだと思うよ。

出版社は私よりも市場のことをよく知っているし、みんなよりも知っているさ。彼らは何が売れて何が売れないかもわかっている。彼らはどんなゲームが自身のラインに合致し得て、どんなゲームが合致し得ないかも理解している。ゲームデザイナーとは対照的に、彼らはゲームを出版することに対して自分のお金を注ぎ込んでいる。このこと全てによって、彼らがより強い立場にいることとなるし、ボードゲームデザイナー、特にデザイナー志望の人にとっては、ゲームが没にされるかもしれない(might weaken)ことを恐れて変更に抵抗することが難しくなっている。他方で、ブックカバーに小説家の名前があるのと同じく、デザイナーの名前は今ではゲームの箱絵に書かれる。今では、ゲームデザイナーは"作家"、ほとんど書き手(a writer)として認識されている。これは、"発明者(inventor)"の類として見られていた90年代とは状況が異なる。このことは、デザイナー/作家が、箱の中、ゲーム、設定、メカニズム、ルールの中身について説明責任があることも意味する。もし、私に説明責任があるのであれば、私が出版の過程を監督する立場にいる必要があるし、少なくとも関与する必要がある。

以上

※ 本記事のほかに、Bruno Faidutti氏の記事として、以下のものがある。

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