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言い訳なんてする必要あるの?(No excuses!)

Bruno Faidutti氏が2021年12月3日に投稿した「Pas d’excuses ! (英題: No excuses !)」の翻訳である。タイトルを直訳すれば、「言い訳はダメだ!」となるが意訳をしている。

Bruno Faiduttiは、フランス在住のゲームデザイナー。ルネッサンス期のユニコーンの実在性に関する科学的論争をテーマとした論文を書いて、歴史学の博士号を取得した歴史学者、社会学者でもある。教員を勤めながら、ゲームデザイナーとして活動をしている。代表作は「操り人形」、「ババンク」、「ラプトル」、「Diamant」がある。

教育とゲームをテーマにした内容だ。要は、ゲームの社会的な有用性を問うことの意味についての話になる。こういった問いに対して、真面目な人は、ゲームの社会的有用性を一生懸命考えるだろう。でも、この質問の暗黙の前提とは何だろうか(その質問者がどういう前提に立って、そういう質問をしているのか)、そういうことをこの記事では掘り下げている。

本記事は、Faiduttiのブログで最もよく読まれた記事であるらしい(Faiduttiのツイートを参照)。ボードゲームデザインの話ではないが、参考になることもあると思われる。没記事にしようかと思ったが、Faiduttiがめちゃくちゃ良い人だったこともあり、翻訳を公開することとした。

なお、元記事を見ると、フランス語と英語の2言語で書かれている。訳者は、少しばかりフランス語が読めることもあり、フランス語の文を読んだところ、英語の文とはニュアンスの異なる記述が散見された。翻訳に当たっては、英文のほうをメインにした上で、フランス語の文章(ニュアンス)を念頭に入れて訳した箇所がある。あらかじめ留意されたい。

元記事は以下のリンク先を参照されたい。本記事の翻訳・公開については、Bruno Faiduttiからの許諾を得ている。なお、ヘッダー画像はみんなのフォトギャラリー機能を利用している。

クレジット: Bruno Faidutti
※イラストは仏文と英文で異なり、2種類ある。

(注意:以下に書いていることは、フランス語圏のゲーム界隈に当てはまる話だ。英語圏で、どの程度、当てはまる話なのかわからない。)

最近、フランスのソーシャル・ネットワークにこんな投稿したんだ。"ゲームを通じた仲介"(mediation)をテーマにしたシンポジウムのプログラムに対して、ちょっと皮肉が混じってるけど、礼儀正しく、微妙なニュアンスを持たせたコメントをした。そのシンポジウムでは、"教育的なゲーム"とか、"社会的包摂(inclusion)や世論喚起(sensibilization)のための道具としてのゲーム"とか、"横断的(transversal)能力"とか、"幅広い目的意識を持った学び"とかについて議論されることになってたみたい(このエセ学術用語を英語で表現しても、フランス語での表現よりも馬鹿げてないだろうさ。)。結果として、Facebook上で参加者の何人かと面白い議論ができた。けど、Twitterや個人メッセージを通じて、暴力的で、侮蔑的な反応ももらった。そういうことで、ここ数年における、ゲームの社会的・教育的な利用に関する、時流に乗っていて、みんなが盛んに言い始めた、不当な現状の論説に対して異議を唱えることに決めた理由を説明したくなった。

私は、半分はキリスト教、半分はマルクス主義という環境で育った(upbringing)。そこでは、結局のところ、革命の準備のためにもっと真剣に働かないといけないということになるので、ゲーム、音楽、小説は忌み嫌われていたわけだ。10代後半(a late teenager)になると、ゲームが仲違い(break up)や逃げ道ではなく、プレッシャーを和らげ、現実世界の複雑さをやりくりする(make do with)方法だということを発見したんだ。現実と異なり、ゲームは閉じられた世界で、単純で、理解できる形をとっていて、ほとんどの場合は真剣だ。

もう40年になるが、ずっとゲームに情熱を傾けてきた。そのうち20年間は、ゲームのデザインが主要な仕事だった。40年間ずっと、こんな社会的に無意味な活動に従事していたことに対して、償うように(atone)求められたり、少なくとも自分を正当化するように求められてきた。けど、文学、絵画、ダンス、音楽、料理に情熱を捧げてる人や、そういったプロでさえも、そんな言い訳をするように求められた人はいない。
文学、絵画、音楽の様式や芸術について真剣なシンポジウムの場で議論することは全くもって真っ当なことだ。まぁ、料理の分野ではそうでもないかもしれない。けど、ゲームについてとなると、エセ学者とか、自称専門家とか、野心が強すぎる社会起業家とかが、こぞって持ち出してくる唯一の真っ当な質問は、“ゲームの社会的有用性とは何なのか"ってやつだ。あたかも、ゲームにそれが必要であるかのように。

時として、私がこういった議論に参加しないことが批判の対象となることがある。矛盾を引き起こすだけじゃないかって。問題は、ゲームに関して真剣に問われている質問がこういうものにとどまる限り、そういった議論に参加してしまうと、ゲームには正当化が必要だという考えを受け入れてしまうことなんだ。少なくとも償いをすることが前提になるよね。小説家に対して、その人の小説が文法や語彙の教育に利用できるかどうかとか、歴史や社会学にさえ使えるかどうかとか議論するように求める奴は誰もいないのに。もうみんなわかると思うけど、答えが何であれ、小説家のほとんどは、そんなクソみてぇなこと気にしてないわけだ(don't give a fuck)。
うん、もちろん、私たちの日々の活動のほとんどと同じように、たまたまゲームから教えられることがあったり、何かに気づかされることがある。違うのは、それが不可欠で本質的なもの(essential)では決してないし、遊んだりデザインしたりする理由でもないわけだ。それに、良いゲームである条件ですらない。
そして何より、申し訳ないけど、私にとってもマジでどうでもいいことだ。40年間も、こういった言説に対抗してきた。それに、自分のゲームをこういった馬鹿げた(absurd)カテゴリーに含まれることに一役を買いたくなんてないわけだ。90年代には、エミュレーション、シミュレーション、そして教育的なゲームに関する長ったらしいスピーチを聞いたことがあるさ。今日でも、真剣で協力的なゲームに関して、同じスピーチを聞いている。こういった屈辱的な(humiliating)言説は、いつも新規性があって、むしろ革新的だって言うべきだなんて言い張っている。でも、40年間で変化はみられなかったね。私は変化したよ。慎重になることを覚えた。私が1人じゃないことは、Facebookで元の投稿にいいねをしてくれた、ゲームデザイナーを見ればわかる。中にはめちゃくちゃ有名な人もいるだろう。

もし、この功利主義的な考え(※要は、何らかの便益がなければいけないという考え)が議論の余地のある無害な意見でしかないのであれば、これが現実の問題になることはないだろう。問題は、だんだんと規範的なもの(prescriptive)になってきていることだ。私のようなゲームデザイナーは、今では、全ての創作物の一つひとつについて社会的有用性を提出して正当化すべき事態になった。繰り返すけど、料理人、ミュージシャン、小説家には誰も求めたりしないのに。この純粋無垢な(naive)信念(doxa, ※doxastic)からすると、協力することを教えるから協力ゲームは良いものになる。告発、窃盗、殺人を教えるから「人狼」や「操り人形」は悪いものになる。こういった分かりきった自明の論説は、たった1つの小さいことを忘れさせてくれる。ゲーマーの大多数は、そんなに馬鹿ではないし、ゲームと現実の違いをしっかりと心得ているし、それだけの理由でゲームを遊んでいるわけだ。

5年前に、「collaborators」(※翻訳済みである。)という別の記事で、この話題についてより詳細に書いている。そこで挙がっている例は少し古くなったかもしれないが、私の論理は今でもそのままだ。ただ、私も年取ったせいか、今では少し怒りっぽくなったと感じる。けど、ゲームに関する功利主義的な言説が、日に日に押し付けがましく、規範的なものになってきているように感じられるからという可能性もある。

余談になるが、私はボードゲームデザイナーであり、高校の教員として非常勤で働いてもいる。別にそんなことする必要もないんだけど、教えるのは楽しい。うーん、それに、いまだに、社会的に有益な活動に勤しむことが重要だと信じている。それと、ゲームのデザインに資格は全く必要とされないけどね。教えている時は、本当に楽しんでいるけど、ゲームを遊んでいるわけじゃない。ただ、教えてるだけさ。ゲームを遊ぶ時は、学んだり教えたりしてなくて、ゲームを遊んでいるんだ。ゲーマーでも教育者でもないような人が提案してくることが多いんだけど、ゲームと教育学(pedagogy)を混ぜることは、大抵、退屈なゲームもどきや、のろくて冗長で非効率的な教育を生み出すことになる。

とにかく、ゲーム自体には意味がないわけだ、意味がないという事実を除けばね。別にいいじゃないか(So what?)。本を読んだり、音楽を聴くのと同じように、言い訳をする必要なんかないんだ。

以上

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