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自然に帰るという思考(Retour à la nature)

本記事は、2023年1月26日、ボードゲームデザイナーであるBruno Faidutti氏が投稿した「Retour à la nature」(英題:Back to nature)の翻訳である。

この記事に関するBGG上のスレッドも話題になっていた。なぜ、ボードゲームには木や動物といった自然に関するものがこんなにも多いのだろうか。この話を読み解こうとしたのが本記事である。色々と混み行っているが、視野を広げていろんな観点・考え方に触れるのは重要なことだと思われる。

この記事は、Faidutti氏の「ポストコロニアルのカタン」の延長線上にある話ではある。かなり長いが、この記事を読んでおくと、本記事の問題意識を理解するのに資すると思われる。

なお、全体的にタイポが多い。誤りはないと思うが、タイポの読み取りが間違っている箇所がある可能性がある。

元記事は以下のリンク先を参照されたい。ヘッダー画像はみんなのフォトギャラリー機能を利用させていただいた。

20年前は、文学や歴史から借用することが、ボードゲームで最も人気のあった設定であって、私を含めた大部分のデザイナーや出版社にとって既定路線の(default)テーマとなっていた。文学からは、中世ファンタジー、サイエンス・フィクション、フーダニット系のミステリーが用いられた。歴史からは、戦争、経済発展、植民地支配が用いられた。こういった設定は消滅しなかったが、最近、ヨーロッパやアメリカで出版された正方形の箱を見ると、人ではなく、花々、木々、動物たち、それにありとあらゆるものを含む自然に触発されたテーマに置き換わってることがますます多くなった。この傾向は、少なくともここ10年くらいのことだ。多分、感染症が終わりになったせいだろうか、最近になって(※原文はlastlyだが、latelyのタイポと思われる。)勢力が強くなってきた。私は、こういった新しい設定に反対する気は毛頭ない。しかし、残念なことに、こういった新しい設定は、私にとって……あまり自然と思いつくものではない。

花々、木々、鳥たち

木を植えるとか、庭の手入れをするとか、熊、齧歯動物、鳥を保護するとか、オオカミの群れやバイソンの群れを手懐けるとかといったテーマのゲームは、ますますよく目にするようになっている。30年前は、こういった設定は、小さな子供や家族向けの単純なゲームに対してしかほとんど用いられなかった。今では、比較的複雑な大人のゲームにおいても一般的となっている。例えば、デザイナーであるElizabeth Hargraveの、とりわけ最近のヒット作である「ウイングスパン」なんかがある。彼女は、動物に関する設定を専門的に取り扱っている。

「ウイングスパン」は、それでも中量級ゲームと考えられているが、Ross ArnoldVladimir Suchýの「ウッドクラフト」は、熱心なゲーマーで、長い時間がかかる征服ゲームや経営ゲームをプレイする人たちを対象にした極めて複雑なゲームである。

2007年に出版されたUwe Rosenbergの「アグリコラ」のように何個か先例があったが、それらは例外的なものだった。当時、このゲームのことを最初に耳にした時は、ローマ帝国のイギリス征服をテーマにしたウォーゲームに違いないとすら考えたゲーマーがいた。Uwe Rosenbergは、農業に関するゲームをデザインし続けたが、農業に関するゲームが流行するよりも前は、彼がほとんど唯一の存在だった。

80年代に、自然を描いた表紙(green covers)では売れないんだという話を聞いたことを思い出す。今日では、そういった表紙はあらゆるところにある。ボードゲームにおいて、この自然主義的なトレンドに関する分析を探すためにフランス語と英語のウェブサイトを眺めてみた。そして、驚いたことに、ほとんど見つからなかった。まるで、興味のないこととか自明のこととかのように。

最もありふれた説明は、この自然に関する流行が、独自性があって、議論が少なく、より多くの同意を得られて、より世代間を超えて通用する設定を探し出した出版社が始めたというものだ。私は、完全に正しいと思っているわけではない。仮に、大人のゲームの設定として木々や動物たちが10年前には独自性があったとしても、もはや今はそうではないし、この流行はいまだに続いている。戦争、植民地主義的な征服、フーダニットが議論を起こすテーマであったとしても、ファンタジーやサイエンス・フィクションにおいては問題になるとは限らない。さらに、最後の2つの設定(※ファンタジーやサイエンス・フィクション)は、90年代には世代間を超えて通用する設定ではなかったかもしれないが、今ではそうなっていることは間違いない。ボードゲームプレイヤーの多数派は男性で、出版社の中には自然をテーマにしたボードゲームがもっと多くの女性をこの趣味の世界に引き入れるとも考えているかもしれない。けれど、私ですら、女性が男性よりも植物や動物に興味があるとする見解について懐疑的だ。猫、鳥、動物だったらどうか、多分そうかもしれない。けれど、それですら私は確信してない。

みんなの総意を探求することよりも、ゲームが多かれ少なかれファンタジー化された自然の世界に退避しているのは、悲惨な現代世界において安心を強く求めているせいだろう。感染症の拡大している間に、ヨーロッパで塹壕戦が再び発生し、アメリカ政治が不合理な考え方をし、ますます無視することができなくなった地球温暖化があり、みんな不安な気持ちになる理由がある。ボードゲーム市場だけが影響を受けているわけでは決してない。文学、音楽、ゲームにおいて、世界は変わってないと錯覚させてくれる古き良き古典的作品が売れ続けているが、大部分の新しいものは失敗している。私の作品である「あやつり人形」や「インカの黄金」も売れ続けているが、私の最近のゲームのほとんどは注目されることはないままだった。最も安心させてくれて、普遍的で不朽の設定であって、そうでなければ、みんなそうであってほしいと願っている、自然というのは、安心感を追い求めた別の方策でもある。ゲーマーはそう感じ、出版社は追従し、デザイナーはどちらか一方を行う。

もちろん、このことを理解するためのもっと肯定的な考え方がある。あたかも本物の木を植えているかのように、木を植えるプレイをしていると誇りに感じたり、熱中したりする可能性がある。その結果、この地球を救うのに貢献するようになるかもしれない。こういったゲームと現実の混同は、かわいらしいもので、世間知らずで無害なように見える。しかし、2つの理由から問題がある。ゲームをあまりに深刻に取り扱ってしまうと、ゲームの非常に本質的な部分である、むなしさや無意味さが取り除かれてしまうことになるので、これ(※ゲームと現実の混同)は憂慮させるものとなっている。また、ゲームが現実に影響を与えるという考えは思い込みであるから、現実の行動が必要となる際には、危険な話でもある。かわいらしくて、豪華な自然系ゲームによって、私たちがかわいらしくて豪華で自然に優しくなるわけではないのは、私のお気に入りのジャンルである意地汚いゲームをプレイすることで、私たちが意地悪になったり、楽しむことができるお馬鹿なゲームをプレイすることで、私たちが馬鹿になったりしないのと同じだ。ウォーゲームをプレイしている時に、戦争を遂行しているつもりはない。地球を救うゲームをプレイする時に地球を救っているつもりはない。

10年前、いまだに最も閲覧数が多いブログの投稿である「ポストコロニアルのカタン」(※翻訳はここ)において、「カタン」や他の開発・発展系のゲームの根底にある植民地主義的なイメージをコケにしていた。プレイヤーが、リソースを集めて蓄積させて建造物を作り、それがより多くのリソースを生み出して更なる建造物を建設し、それが続いていくゲーム(※いわゆる拡大再生産のこと)は、いまだに存在するが、今では、そういったゲームは、より自然感にあふれて、自主的な行動をとっているかのような姿を身にまとっている。教会を建築するとか、新大陸を開拓するとかといったテーマはもはや存在しない。個人の庭を整備するというテーマとなる。こういった庭が、上記の箱絵から分かるとおり、かなり異国趣味にあふれているとしてもだ。

プレイヤーが壊れてしまった(spoiled)惑星に木々を植え直して修復することに従事するとなると、より一層壮大で仰々しいものとなり得る。ちょうど、Joachim Thômeの「Tribes of the Wind」のルールを読んだところだ。そして、元々のプロトタイプの設定は異なっていたと確信するよ。出版社が、プレイヤーが奇妙な緑色の開拓地を築いていく滅亡後の世界に舞台を移し替える前は、おそらく、ドワーフやエルフの村をテーマにしていたか、多分、中世の城をテーマにしていたかもしれない。

森の精霊

木々は人間よりも多くの根を張り、動物たちは人間よりも科学技術が発展してない。したがって、自然という設定では、このようなこと(※上記の箱絵にあるようなこと)はあり得ない……再び魔法の力を解き放たない限りは。そういった理由で、森、動物、泉の精霊を取り入れたゲームがかなり多くある。古き良きファンタジーのエルフが自然の仲介者となることがあるし、ドワーフやノームが洞窟を離れて園芸の才能(a green thumb)があることに気付くこともある。ほとんどの場合、単なる妖精がその役割を担う。他のケースでは、こういった精霊は、もっと異国趣味にあふれていて、多くの場合は日本的になる。自然主義は、完全にオリエンタリズムと共生することができる。ファンタジーの話に戻ってきたが、今となっては、それは、ゲームと現実を混同するリスクが全くない環境に優しい自然のファンタジーだ。もちろん、本当に要請を信じているのであれば、話は別だけどね。私の最近のお気に入りのゲームの1つである「Night Parade of a Hundred Yokais」は、たとえ、素敵な鳥居を建てる最初の精霊になるための戦闘があるとしても、この新しいジャンルに属するものだ。

中世ファンタジーとサイエンス・フィクションは、ゲームデザイナーにとってかなり好都合な点がある。ゲームシステムやメカニズムを用いてやりたいことが、多かれ少なかれ実現できるということだ。いかなる効果も、強力な魔法や奇妙なエイリアンの科学技術で正当化され得るので、ゲームデザイナーは、現実に合わせようと配慮することなく、自由に戦術やプレイヤー間のインタラクションに集中することができる。

歴史と自然

当然、賢いデザイナーであれば、自然と歴史を融合させることができる。パンダは、おそらく、最も頻繁にゲームの箱絵に描かれた野生の動物だろう。しかし、恐竜やマンモスは勝るとも劣らない。Peter Rustemeyerの「パレオ」、Stan Kordonskiyの「Endless Winter: Paleoamericans」のような最近のゲームにおいては、プレイヤーが、寒い冬や獰猛な動物といった自然に直面する人類の部族を操作する。この自然は、荒涼としていて友好的ではないが、まだ戦いに負けてはおらず、いまだに人類がどこかしら自然の一部となっている。イラストレーターはそのことを理解していて、多くの場合、牛や鹿の角を身につけた部族を描いて、自然の精霊を呼び出す用意があるドルイドやシャーマンのような見た目にしている。

比較的規模は小さいが、発見や探検をテーマにした多くのゲームにも同じことが当てはまる。探検者たちはいまでも植民地時代のヘルメットを身につけているが、彼らが吹き矢で武装した未開人に直面する機会はますます少なくなり、森の精霊や精霊たちの魔力がないとはいえ、爪や牙で武装した野生動物に出会う機会が多くなっている。自然が過去のもののように感じられる世界で生きていると、自然がいまだに私たちを圧倒するように思える世界を舞台にしたゲームをプレイすることで、逆説的ではあるが、安心感を覚える可能性がある。

ノアの動物園

多様な動物が登場するゲームというのは何も新しいものではない。デザイナーが1つのゲームの箱にできるだけ多くの、そしてできるだけ多様な動物を詰め込もうとしら、動物園を経営したり、方舟を満員にしたりして終わるのが常だ。

ノアの方舟は、ボードゲームの設定として頻繁に使われる、ただ1つとない聖書の話である。この話は、単なる宗教的教義にとどまらない子供向けの話になっているというのが理由の1つであるし、動物のつがいを作ることは既にカードゲームのようであり、限られた空間に動物たちを詰め込むというのはもはやボードゲームのようだ。こういったゲームの全てが、子供を対象にしているわけではない。メカニズム的には、動物園に動物を集めるというのとあまり違いはない。それに、動物園をテーマにしたゲームは、非常に古くから人気でもあった。Michael Schachtの「Zooloretto」は、ドイツ年間ゲーム大賞にふさわしかった。

もちろん、違いというのはあるさ。ケージの中に動物を閉じ込めるのは悪いことで、洪水から救うのは良いことだ。こういうことから、明らかに大人のゲーマーを対象とした重量級の動物園経営ゲームは、「アーク・ノヴァ 新たなる方舟」と名付けられて、かなり表面的ではあれ、ノアの方舟系のゲームに偽装している。十中八九、出版社で激しいブレインストーミングがされたのだろう。この作品名は、単に動物園の経営と、もちろんお金に関するゲームだけど、地球温暖化や海面上昇から動物を救うようなものであると示唆するものだ。同じように、ボードがアフリカの地図であるゲームもいまだにあるが、ここ約20年間は、もはやプレイヤーが動物を狩ることはなくなった。今では、もはや動物を捕まえることすらしない。単に動物を観察したいだけで、思い切って写真を撮ろうとするとも限らない。

ノアの方舟の話をしているけれども、ちょうど新しい大箱ゲームの「The Flood」の告知を見かけたんだ。このゲームでは……全プレイヤーが自分の方舟を建設するんだってさ! 非常に敬虔なキリスト教系出版社は、異端に近いと考えるだろうことを軽視しようとする。けれど、逆のことをして、この可笑しくてほとんどシュールレアリスム的な点を強く推し進めるべきだったのにね。私としては、今まで思いつくことができなかったのが悔やまれる。多分、全てのプレイヤーがホビットの仲間を操作して、滅びの罅裂(the cracks of Doom)の中に指輪を投げ入れる最初のホビットになろうとするゲームでも試しに遊んでみようかね。

菜食主義とかわいらしさ

私の植物に関する知識というのは、極めて限定されているので、どんな種類の木が最も多く箱絵に表現されているかを説明することができない。けど、コメントに値する何かが発見することになるとは思えない。野生の動物についてはまだマシで、その結果は興味深いものだった。百獣の王であるライオンが出てくることが多いが、それ以上に、ライオンと同じくらい誇り高いが草食性(herbivorous)である鹿(stags and deers)が出てくることが多いように思える。おっと、危うく草食性じゃなくてベジタリアンって書くところだった。表現された自然は、大抵の場合、実に平和的でほとんど現実を改竄している(bowdlerized)。ボードゲームの箱絵の真の花形は、驚くことなく、パンダさんとなる。究極のヒップスター(hipster, ※流行に敏感な人、メジャーでないものを愛する人という意味だが、褒め言葉と皮肉が入り混じった表現として使われているのだろう。)動物だ。かわいくて笹食ってるんだ。

擬人化

動物の擬人化を特色としたゲームにおいても、数匹のパンダが登場する。しかし、こういったゲームの本物の花形は、むしろ猫さんやキツネさんだ。典型的な個人主義者で競争好きな動物だが、逆にいうと、社交的な齧歯動物ということだ。

擬人化された動物は、社会的、精神的、そして時には身体的な面において人間の特徴を備えている。何世紀にもわたって、擬人化された動物は、子どもを寝かしつけるときのおとぎ話に登場し、その結果、子どものゲームの中にも現れる。彼らは、子供だけを対象としているわけではない寓話の中で必要不可欠な存在であり、数多くの神話の中での主役でもあった。この記事における私の主題の核心部分ではないけれど、この話題に関する資料は豊富にある。それでもなお、こういった人間化された動物が、大人の趣味のゲームにおいて、ますます登場する機会が増えているという事実は、分析する価値がある。

各種(specie)から動物が単体でのみ登場する場合、こういう動物は、大抵はかわいらしいぬいぐるみみたいな頭をしていて、寓話や物語の世界にプレイヤーを惹き込んだり、子供時代を思い出させたりするために存在している。ゲーマーは心が子供のままの大人にすぎないという頭の悪い(naive)考え方に対して反論するために言うべきことがたくさんあるにしてもだ。

ゲームに登場する全ての種が互いに争っている場合に、物事はもっと複雑になり得るし、時として曖昧になってしまう。ドワーフ、エルフ、オーク、ゴブリンといったファンタジーの種族も、宇宙空間からやってきた未知のエイリアンも、戦争や征服ゲームにおいて、国家、地域、人種間の競争の見せ方(the staging)を歪めて修正し、逆説的に、こういった紛争の婉曲化と本質化(essentialization)の双方を招いたことになる。最近、この点に関する意見が何個かあったけれど、今のところ、大部分は、「アドバンスト・ダンジョンズ&ドラゴンズ(AD&D)」における差別主義に関する非現実的な議論を生み出してしまっている。現実の深刻な問題は、オークやダークエルフに対する人種差別ではない。問題なのは、まさに、私たちが思い描くファンタジーの世界において、社会的な集団、国家的な集団、民族的集団が自動的に本質的なもの(※性質上、存在して当然のもの)とされていることだ。この奇妙な流行に関する真剣で歴史的な分析を待ち望んでいるところだ。

当然、この集団が動物になると、本質主義化が一層明確になる。ライオン、鷲、ビーバー、猫の特徴を持つ人間的なキャラクターは、単なるヨーロッパ人、アジア人、(古代の設定の)アフリカ人、アメリカ人、ロシア人、(現代の設定の)中国人を軽々しい形で表現しているだけのことが多い。たった1つの民族集団の表現がある時でも、猫が本当に魚を食べるのを楽しんでいると、Paul Mafayonが豪華なイラストを描いてくれた私の作品である「Miaui」は、この格好の例となる。

数日前、Bruno Cathalaと私は、「Mission Red Planet」の新版の可能性について議論した。プロトタイプには存在しなかったスチームパンクの設定を取り除くことに合意した。私たちは、当初、ロシア、アメリカ、ヨーロッパ、中国といった列強間で敵対する冷戦的な世界を考えていたが、真剣にこれを取り上げたくはなかった。そして、このテーマを本当に軽々しくするのは困難だった。今では、Jeff BezosElon Muskといった巨大企業という設定を考えている。猫と犬だったら、より一層軽々しい形で目的を達することができるんだろうけどね。

擬人化された動物は、常に、個々人や社会的な集団のかわいくて怠惰な代用品になるとは限らない。肯定的で、自覚的で、ユーモアがあって、それ自体から距離を置いた文脈で用いられ得る。この最高の例は、Cole Wehrleの「ルート ~はるけき森のどうぶつ戦記~」で、現代の地政学的な問題に着想を得た複雑で野心的なゲームだ。動物を用いることで、現実の地政学的な設定では維持することが困難であっただろう政治的な言説を、和らげて控えめなものにさえできている。こうすることで、人の政治的な信条(allegiances)に左右されるようなあれやこれやのポイントへの批判も困難なものとしている。

当然だけど、サイエンス・フィクションやファンタジーと擬人化という双方の世界の良いところを取り入れるができる。客体化された2つの層を重ね合わせるためだとか、単にもっと楽しくなるからだとか、単にアーティストが大きな猫を描きたいからだとかね。私ですら、最近、Manny Vegaの「フレイムクラフト」という擬人化されたドラゴンが出てくるゲームを買ったよ。

リメイク

BoardGameGeek上にある、新版になって人類が擬人化された動物に取って代わったゲームを探して遊びまわってしまったよ。いくつか面白い作品を見つけたが、私は他の作品が気になっている。もっと知っているのであれば、私にEメールを送ってください。非常に現実的な第二次世界大戦のに関するアートのカードゲームである「Air, Land and Sea」は、ルールを1個も変えることなく、随分と軽い見た目の「Air, Land & Sea: Critters at War」になった。「Hibachi」は、「Safranito」のリメイクである。料理人はインドから日本に移り、猫、キツネ、猿になった。新しくなった「Libertalia: Winds of Galecrest」では、海賊はライオン、馬、キツネ、猿になったが、なんでそうなったか誰も知らない。「サイズ -大釜戦役-」の新しいバージョンである「マイ・リトル・サイズ」では、物事はもっと微妙で自覚的なものだ。戦闘の舞台は、世界滅亡後のヨーロッパから漫画的な世界に移った。りんごが勝利点である星に取って代わったが、このゲームは、元々のゲームよりもわずかに単純になっただけで、この子どもっぽい見た目を表面どおりに捉えてはいけない。どのようにして、ローマの元老院への言及を完全には取り除くことなく、「Quo Vadis?」を「Zoo Vadis」にさせたかについて、BoardGameGeek上の非常に興味深いダイアリー(※翻訳はここ)の中で、出版社が正当化して説明してくれている。

※左がリメイク前、右がリメイク後のアートワーク

こういったことは、「Splits」が「それはオレの牧場だ!」になったように、アブストラクトゲームですら起こっている。公平のためにいうと、動物の設定のアブストラクトゲームは、何ら新しいものではない。「Hive」は20年以上前のゲームだ。「The Jungle Game」(※詳細不明だが、これのことか?)は100年以上前だ。「Bagh Chal」と「Fox and Geese」は1000年以上昔だ(※「Fox and Geese」は1400年頃とされているようでやや不正確である。)。

その逆になると例外的となり、私はたった1つだけその存在を見たことがある。「キティズ」のかわいい猫ちゃんたちが、フランス版や、おそらくアメリカ版において、ありふれたギャングになっている。このゲームの魅力の大部分を奪ってしまっていて、残念な話だ。

じゃあ、こういった緑の、スピリチュアルで、自然的なあらゆる動物系ゲームについて何を考えるべきだろうか。私は、まだ古き良きファンタジー、歴史、サイエンス・フィクションに飽きたわけじゃないが、より現実的なものを求める出版社やデザイナーのことは理解する。個人的には犬も猫も好きだ。私は森の精霊に歯向かうつもりもないが、ドワーフやドラゴンよりもユーモアがなくて、自分自身を嘲笑するのを大幅にしなくてもいい傾向にあるのが残念だね。

木々を破壊していくゲームを見つけるのは困難だったが、こいつは良いね。

以上

※本記事のほかに、Bruno Faidutti氏の記事として、以下のものがある。

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