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フェドゥッティ先生のルールライティング・翻訳講座(Ecrire et traduire une règle)

本記事は、hal_99さん主催の「ボードゲームに関わるエトセトラ Advent Calendar 2022」の12月7日の記事である。

同アドベントカレンダーは「2022年を振り返ってみて、最高のボードゲーム、そうでもなかったボードゲーム。積んでしまって気がかかりになってるゲーム、色々あると思います。久しぶりに行けたボードゲームカフェ、オンラインでプレイするようになったゲーム等など。今年記憶に残ったボードゲームに関する何かを1つ教えて下さい。」とのことであり、どちらかといえば、ボードゲームのプレイを前提にした企画と思っている。企画趣旨からはやや浮いた記事となってしまっているが、エトセトラという言葉に甘えて、おこがましいと思いつつ本記事をエントリーすることとした。

また、内容に関する点では、12月5日に掲載されたbtailさん記事にも後押しされた。トリックテイキングにおけるビッドという用語に関するあれこれについて述べる記事で、ビッド、ビット、ベットという紛らわしい言葉の違い(誤用)を中心としたものとなっており、その視点は大変面白かった。それとともに、ボードゲームのプレイとはやや外れた記事でも許容していただけると考えた。

本記事を翻訳した理由は、Table Games in the Worldの管理人である小野さんこのツイートと、このツイート、そして最初のツイートのリンク先の記事が頭の中で澱のように溜まっているからでもある。このツイートがされたのは2020年と約2年前である。ボードゲームにまつわる環境は劇的に変化していったが、2022年の終わりでボードゲーム翻訳にまつわる環境は同じような劇的な変化がみられたのだろうかということを考えた。本記事の内容にとどまらず、もう少し広く考えていただけたらいいなと思っている。

アドベントカレンダーの次回の記事は、12月9日に予定されているSN DUCKさんの記事となる。内容は未定のようだが、Kickstarterに関するお話しかなと思われる。

まえがき

本記事は、Bruno Faidutti氏が2022年3月26日に投稿した「Ecrire et traduire une règle(英題:Writing and translating rules)の翻訳である。

内容はタイトルそのままであり、特に付け加えるところはない。ただ、あまりにもフランス語の箇所と英語の箇所の文章の内容が違うとともに、フランス語の箇所にしかない項目もある。訳者泣かせの記事だが、割り切って英語の箇所のみを訳すことにとどめた。

邦題は若干だが遊んでいる。途中でインクルーシブ・ライティングの話題が出ているので、背景を理解したい人のために補足説明をしている。興味のない人は、適宜読み飛ばしてもらって構わない。本記事を翻訳した理由は既に述べたとおりである。

元記事は、以下のリンク先を参照されたい。ヘッダー画像はみんなのフォトギャラリー機能を利用させていただいた。

この記事は、2018年に投稿した記事を書き足してアップデートしたものである。

ウィンストン・チャーチルが自身の戦時内閣に宛てたもの

ルールを守ろう

多くのデザイナーは、自身のゲームが完成し、テストプレイを行い、出版社に売り込む準備ができて初めて、完璧なルールを書くことになる。
こいつは、私のやり方じゃない。最初のプロトタイプを作る前であったとしても、私がゲームについて考え始めて最初に行うことの1つは、完璧なルールを書くことだ。
このルールは、その後、プレイテストが行われるたびに更新されていき、ソフトウェアのバージョンみたいに数字が振られていく。今度出版される私のゲームの最終ルールは、バージョン4.3という番号が振られていたね。不当に見過ごされてしまったかわいいカードゲームである「Ménestrels」のルールはバージョン7.5だった。おそらく出版されることがないだろう「Caravanserai」のルールは、既にバージョン11.いくつかになっている。
ゲームシステムにおける小さな変更がされるたびに、私はルールの大部分を読み直し、一部を書き換えることになるとともに、極力もっと短くて明確なルールにする機会をもつことになる。この方法の難点は、改定後のルールの中に改訂前のルールのポイントを入れ込まないようにかなり慎重にならざるを得ないことだ。そういったことが起こってしまうからね。

Trollfest」は大型のゲームであるが、プロトタイプのルールは1枚の紙に書かれたものである。

単純で正確な言葉遣い

出版社に提供される多くのゲームのルールや、出版されたゲームの得点方法ですら、読んだり理解したりすることが困難になってしまうほど不必要に難解だ。ゲームデザイナーに対する私のアドバイスは、私が生徒に対してするアドバイスと同じとなる(※Faiduttiは高校教師である。)。文章は、できる限り、短く、単純で、すぐに核心に至るものであるべきである。もし、ある言葉が、文章に全く意味を付け加えないのであれば、その言葉を取り除くべきだ。もし、ある段落が、文章全体に全く意味を付け加えないのであれば、その段落を取り除くべきだ。1つか2つの節で構成された短い文章を書くこと。長くて複雑な言葉、受動態(※受け身)、間接的な言葉遣い、冗長となる副詞は避けるきと。
今では、英語で中性的なtheyを使って文章を書くことに慣れた一方で、上記の理由から、インクルーシブ・ライティング(inclusive writing, ※注釈が長くなったので本項末尾の★の部分を参照されたい。) として提案されている"中黒(median dot)"を使うことはない。この書き方は、文章を読みにくくするし、声に出して読むことを不可能にする。この段落の残りの部分について翻訳はしないこととする。フランス語の文法についての話であって、英語では意味を成さないからね。とにかく、こういった言葉をもてあそぶ営みは、おそらく無駄だろうし、文法よりも金、権力、名声のほうが関係している性差別の本当のメカニズムから目を逸らすだけだ。

★インクルーシブ・ライティング(inclusive writing)について。
この話題を追っているわけではないが、前提的な話や背景的な話を知らないと、何を言っているのかわからないと思われるのでやや長いが補足しておこう。
ご承知のとおり、フランス語には性別という概念がある(これは、フランス語だけでなく、インド・ヨーロッパ語族等に見受けられる。)。さて、この性別は、特に論理必然的に決まっているわけではないようにみえる。電子レンジが男性なのか女性なのか論理必然で決まるわけもない。大学で第三、第四外国語でヨーロッパの語学を選択された方は、英語と異なり、別途名詞の性別を暗記しなければならない煩わしさが記憶に残っているだろう。日本語を母語とする人からすれば、各名詞の性別を暗記することが、語学習得のハードルの1つとなっていると思われる。
さて、このような前提の下でインクルーシブ・ライティングの話になる。「多様性を意識した書き方」が直訳となるが、ここでは前述のフランス語における名詞の性(男性名詞・女性名詞)の区別をなくして別な表記を推奨する動きを指している。意味的には、gender neutralが意味的には正確かと思われる。
ここで推奨されているインクルーシブ・ライティングとは、男性名詞の表記と女性名詞の表記を重ねるというものだ。具体的な表記は、次のようなものになる。
フランス語で医師は「docteur」(男性名詞)である。主語が男性だろうが女性だろうが、男性名詞を用いる。この単語を、フランス語の文法規則に沿って無理やり女性名詞化するのであれば、「docteure」となる。インクルーシブ・ライティングは、男性名詞と女性名詞を統合した上で、その異なる部分に関して、中黒を使って「docteur・e」と表記することを推奨する。以下のリンク先の例として挙がっている例を付加すると、シェフは「chef•fe」(chefとcheffe)となり、疲れ切った消防士たちは「les pompier•e•s sont fatigué•e•s」(les pompiers sont fatiguésとles pompieres sont fatiguées)となる。この表記の問題点は、Faiduttiが指摘するように、文章が一見して読みにくくなるのと、発音と表記が一致しなくなってしまうことだ(フランス語は英語と異なり、リエゾン等があるものの表記から発音が分かる仕組みとなっている。)。
以上の理由から、フランスの国民教育省は、将来的なフランス語の文法体系が破壊される可能性が高いことを理由に、インクルーシブ・ライティングを教えることを禁止したようだ。他方で、別の表記を提案したとのこのことである。よくある「le docteur ou la docteure」等の「男又は女」という形での表記である。これが背景的な話である。
以上が補足だが、さらに余談を付加しておこう。果たして、言語的な性別が差別を生み出しているのだろうかという素朴な疑問が浮かび上がる。この話題に関しては専門家ではないが、「言語が違えば、世界も違って見えるわけ」における今井むつみ氏の解説を読むと、名詞における性差が、その言語の話者の認知に影響を与えていることが示唆される実験結果が紹介されている。ここから想像を広げて、「女性の社会的な進出が、男性名詞とされている職業において妨げられている」なんてことを考えることができるものの、実証されたわけではない。とはいえ、名詞における性が何かしらの影響を与えているというのは、今のところ否定できないように思われる。

一貫性

うまく書かれたルールは、文法的に正しいものでなければならない(まぁ、私は、通常、ルールを英語で書いているので、私の場合は多かれ少なかれといった感じ。)。しかし、それでは十分ではない。言葉選びや読者/プレイヤーへの語りかけ方に関して一貫性も必要となる。
ルールは、異なる構文のスタイルや表現法を用いて書かれることがある。人間味がないかもしれないし、プレイヤーに直接語りかける形かもしれない。おそらく、最良の方法はゲームのスタイルや書き手の雰囲気に左右されるけれど、一貫性がなければならない。ある段落で"プレイヤーはこれをする"として、次の段落で"あなたがそれをする"なんて書いてはいけない。
言葉選びについても同じことが言える。最初にタイルの両面を前面と後面(front and back)と言っておいて、その後で、表面と裏面(recto and verso)と言っていたタイルゲームのことを思い出すよ。これは極めて紛らわしい。各要素に対して1つといった単純で直接的な言葉を目指して、それにこだわり続ける。フランス語よりも英語のほうが、同じ言葉を何回も使うことに対して、抵抗感がないとされている(less inelegant)のは良いことだ(※フランス語は同じ言葉を繰り返し使うことが洗練されていないと考えられている。例えば、「パリ」であれば、「フランスの首都」、「光の都」、「ベル・エポックのあった都市」といちいち言い換える。言い換えができないと文化資本がないと考えられているのだろうか。)。ゲームのスタイルや複雑さ次第で、カードやトークンといった一般的な言葉選びにこだわったり、本やイベントといったカードの種類又は狼と羊といったトークンを差別化するためにテーマ性のある言葉遣いを目指したりすることができる。
とにかく、単純な言葉遣いをして、複雑で難解な単語を避ければ、読者はすぐに全てを理解してくれるに違いないね。

繰り返すことは喜ばれない

読者が重要なポイントを読み逃すことを慮って、ゲームデザイナーや出版社は、最も重要だと考えるルールのポイントを数回繰り返すことが多い。これは間違いだ。こうすることで、文章が長くなってしまい、読みにくくなってしまう。論理的にいうと、読者は、それぞれの文章が新しい情報をもたらし、単に冗長なだけの文章の中から新しい情報を探そうと考えがちになる。それよりもはるかに優れた方法は、太字、赤色、大文字、イタリックを用いて重要で見逃しやすいルールを強調することだ。
改行、色、フォント、フォントスタイル(※太字とか斜体とかのこと)、これら全てがルールをもっと明確にするのに非常に役立つ。

英語で書くこと

今では、私は、フランスの出版社に最初にゲームを見せる場合であっても、全てのルールについて直接英語で書いている。第一の理由は、言語や国籍に関係なく、私のゲームを全ての出版社に売り込むことができるようになるからだ。しばらくの間、私は、1つはフランス語、1つは英語といったように2つのバージョンを並行してメンテナンスしようとしていた。すぐに、こんなのうまくいかないと気づいたよ。片方はアップデートするけど、もう片方はしないことが多かったからね。だから、最も有益ではないフランス語のほうを止めることにしたよ。
私の英語能力は悪いものではないが、流暢には程遠い。私の母語であるフランス語のほうが全然気楽なわけだ。逆説的になるが、英語で書くことによって、比較的単純で直接的な表現で全てを書くことを強いられるので、好都合なのかもしれない。
また、英語という言語は、より直接的な構文と、より多様で正確な語彙のおかげで、フランス語よりもルール(を書くの)とインストに適しているということがわかった。これが、フランスの技術者やパソコンオタクが、必須だが役に立たないフランス語の機械やソフトウェアの説明書に目をくれることなく、英語の説明書に直ちに飛びつく理由だ。短い英語の文章で説明することができるルールのポイントは、フランス語では1段落にもなる長い文章を必要とすることがかなり多い。その逆も起こり得るけれど、稀なことだ。
多くのゲームデザイナーは、英語でルールを書くというアイディアに恐れ慄いていることを知っている。厳密だが文学的ではないものを書くために必要な英語のレベルは比較的低いものだし、アメリカの出版社は、外国人によって書かれたルールに対してかなり理解を示してくれる。

これは、出版社が私の書いた英語のルールを採用して、英語のネイティブ・スピーカーによる校正がないままで出版された唯一のゲームであった。いくつか文法ミスがあったけれども、みんな理解してくれたよ。

ゲームをルールへ、ルールをゲームへ

ルールを書いていると、冗長さが最大の敵となる。どんなに複雑なゲームであったとしても、できる限り、短くて単純なルールにすべきだ。もし、プロトタイプのルールが過剰のように見えるのであれば、誰も出版しようと思う人はいないだろう。要は、もし、出版されたゲームのルールが過剰であれば、誰も読もうとは思わないし、誰も遊ぼうとは思わない。
実際のゲームの複雑さに対してルールが長すぎると感じ、数十ページ以上も長々と続くのであれば、そのルールは冗長に造られているか、論理立てておらず、行き当たりばったりに作られている。別の計画を試してみよう、常に数個の可能性とゲームのスタイルに応じてベストなものがある。また、そのルールは、長い文章と不必要な畳み込み(convolutions, ※ここでは副詞句がだらだらと差し込まれているような文章)によって下手に書かれているのかもしれない。その場合には、余分な部分を取り除かなければならない。
時として、その問題は、ルールの明確性にあるのではなく、デベロップの過程で余分なものがついてしまったせいで、そのルールの多さにある可能性がある。書かれたルールから余分なものを取り除く作業が不十分であったら、ゲームシステムそれ自体(※の改変)に取り組んで、10回中1回しか使われなかったり、複雑すぎて書いて説明することが困難だったりする、付加価値のあまりない要素を取り除かなければならない。ただ、このことは、単にルールに関する話にとどまらないので、別の記事で話すことにしよう。

具体例と図表

出版社に提供するルールには欠点が1つあることが多い。ルールに具体例がない。それに、出版社の主な編集作業は、いくつかの具体例を加えることだ。具体例や図表は、ルールの本質的な部分ではない。それらはイラストレーション、語源に立ち返れば、文章をわかりやすく伝えるものである。理論上は、必要不可欠なものではない。既に書かれた文章によって全て説明され尽くしている。実際には、"一般論として"物事を説明することは必ずしも簡単でないので、具体例というのは、ルールをわかりやすく伝えるのに役立つことが多い。
同じことが図表にも当てはまる。書かれたルールを説明するのに役立つが、非常に個別具体的な例を除いて、書かれたルールを図表に置き換えるべきではない。日本語では、文章と図表との間の差があまり明確でないように思える。それに、日本語のルールでは、文章と図表を混在させることが多い。そういう理由から、西洋人、少なくとも私が、日本語から翻訳されたゲームルールの理解に支障をきたすことが多い。

テーマと設定

私は、テーマがルールの説明を容易にしてくれる工夫に過ぎないとか、メカニズムのみがゲームの本質的な構成要素や核心であるとかと考えるゲームデザイナーには反対する。テーマや設定は、これにとどまらないし、説明を容易にするためでしか使われないわけでもない。
私が最近出版したゲームである「Dragons」をデザインしている時、15年前に「Dragon's Gold」で既に出会っていた問題に直面することとなった。これらのゲームは非常に単純なルールだが、得点獲得システムは"ポイントサラダ"にして、プレイヤーが適切なカードやトークンの価値を割り当てることができないように、意図的に複雑なシステムにしていた。あらゆる小さな得点ルールに関して、しゃれやもじりを使って説明できたので、今回はもっと上手くできたと思う。ルールにおけるテーマ的な言及(references)は、ルール的には単なる楽しむためだけという可能性もあるが、特定のルールの意味を理解することに役立つのかもしれない。それに、冗談とルール説明の両方をいっぺんに達成できた時はいつも誇りに思うよ。まさに、「Dragons」でやったように、一つの指輪(the one ring)とバランスの取れた羊と牛の食習慣という3つの点を模倣したとかね。

校正

ゲームデザイナーとしては、常にテストプレイをしてくれる人の中で最も文芸に通じた人に校正を依頼すべきだ。出版社としては、常にプロの校正者、なるべくであればゲームについて少しはわかる人を雇うべきだ。けれど、英語のルールであったならば、フランス語のルールよりかはその必要性は低くなるかもしれない。

ルールをテストプレイする

ルールが不明確であったり完璧ではなかったりするプロトタイプを受け取った出版社は、おそらくすぐにそのプロトタイプを捨てるだろうし、そうでなければ、誤ったルールでプレイしてポイントを見逃してしまうだろう。ちょっとした曖昧なところがあった場合、出版社は、Bruno CathalaRichard Garfieldといったデザイナー、ひょっとしたらBruno Faiduttiレベルになりさえすれば、デザイナーにメールや電話をするかもしれない。けれど、知られていないデザイナー志望の人に対して、わざわざそんなことをしないだろう。
私は、時々、ルールが意味をなしてないゲームを買ったり受け取ったりする。こういったゲームは、大抵の場合は自費出版のゲームで、楽しそうに見えるからという理由でKickstarterで出資を募ったものが多い。私はプロ(※のデザイナー)である。もし、私がルールの理解に困難を来しているのであれば、カジュアルゲーマーは完全に途方に暮れることになるだろう。そのゲームは出版されることとなったが、たとえどんなに良いゲームであったとしても、遊ばれることはないので、はなから失敗だった(stillborn)というわけだ。
出版社に売り込む前に、ゲームをテストプレイするだけでなく、ルールもテストプレイすべきだ。私は、テストプレイの場に一日中参加しているのが普通なので、これをすることができない。上述したように、私はルールを書くのが得意であるので、個人的には大きな問題となっていない。他方で、私は、全てのデザイナー志望の人(と出版社)に対して、ルールのブラインドテストを行なって批判に耳を傾けることを推奨するよ。明確で完璧なルールの書き方を学ぶのにより良い方法だからね。

ルールを翻訳する

ゲームの英語版には、フランス語版より、技術的にも文法的にもはるかに優れたルールが備えられているのが通常だ。英語のルールは、より短く、より簡潔で、より一貫性があって、より見事に書かれている。これは、あらゆるアメリカのゲームだけでなく、ほとんどのドイツやフランスのゲームにも当てはまる。こういった理由で、多少、高くなったとしても(それにBrexitでさらに事態は悪化している)、新作のゲーム、とりわけ複雑なものについては、英語版を買うようにしている。
この主な理由は既に説明したとおりで、正確な語彙と単純な構文を持つ英語がルールを書くのにより適しているからだ。別の理由として、フランス語、ドイツ語、その他の言語から翻訳しようとしているアメリカの出版社は、プロの翻訳者を雇うのが普通だからだ。
ルールは技術的な文章であり、ルールを翻訳することは技術的な翻訳となる。残念だけど、フランス語を専門とする翻訳者はほとんどいないし、校正者となるとさらに少なくなる。フランスの出版社の中には自社で翻訳の仕事を行おうとするところもあれば、ゲームについて何も知らないし、大抵、そのゲームを遊ぼうとすらしないプロの翻訳者を雇うところもあるし、ゲーマーに翻訳を依頼してそのゲームの数個を報酬として支払うところもある。多くの場合、一言一句変わらないでとは言わないまでも、文章ごとに対応した形でオリジナルのルールを翻訳したものとなり、良くて洗練されてないなというものから、悪くて理解不能なものとなる。
私はプロの翻訳者ではないし、プロの構成者でもない。時々、出版社や他のデザイナーから、英語からフランス語へのルールの翻訳や校正をするように頼まれることがある。私が本当に好きになった非常にシンプルなゲームを除けば、大抵、その依頼を断るようにしている。私は、自分自身のゲームのルールを書くことについては非常に得意だが、他のデザイナーのゲームのルールを書くのは得意ではないと思っている。

誰がフランス語のルールを書いたのかわからないけど、マジで意味不明だった。

自分のルールを翻訳する

他方で、私のゲームの1つについて、英語からフランス語に翻訳する必要がある場合には、大抵、自分でその仕事をやるのが好ましいと思っている。私は、出版社がそのこと(※デザイナーが自分で翻訳すること)を考えてすらいなくて、自発的に他の誰かを雇う場合には、常にショックを受ける。その結果は、常に悪いとは限らないけど、時として悪いものとなる。
私のゲームのうち三、四作品は、文法的に修正されてはいるものの、基本的には私が作成した英語のルールが付いて出版されている。そして、フランス語の作品では、そういったことはない(※私が作成したルールが使われていない)。これは、少しばかばかしいと感じるよ。こういったフランス語のルールで誤った書き方がされていたり、ひどい書き方がされていたら、恥すら感じてしまうよ。それに、プレイヤーは、これが私の書き方だと推測してしまうはずだ。最近、再びこういったことが起こったんだ。出版社は、自社で作った翻訳を使うことは契約上の権利であると主張する。まぁ、そうかもしれないんだけど、ばかばかしさが減るわけではない。私のアメリカの友人は、最初にフランスかドイツで出版されたゲームの英語版について全く同じような不愉快で屈辱的な経験をした。そのルールは、英語からフランス語に翻訳されて、その後、フランス語から英語に翻訳された。そして、そのことに気づいたのは、印刷をかける時だったってわけだ。
私は契約の細かい部分について議論をするような人間ではないので、このことをいつも忘れてしまうんだが、今後は、あらゆる出版契約において、私がルールを書いたゲームがフランス語に翻訳されるのであれば、まず最初に私に翻訳を依頼すべきであることを明記すべきだと考えている。そして、何らかの理由で私がその申し出を断ったとしても、なお、ルールの最終版については私に正式な同意権を持たせるようにすべきだろう。

私のゲームのいくつかはフランスで出版されたことはなかった。「Venture Angels」は英語、韓国語、ペルシア語で入手可能である。そして、私は、(※このゲームを出版する)フランスの出版社を探しているよ。

自分の文章を振り返ってみると(Mise en abyme)

私のウェブサイト上に投稿する前にこの記事を読んだら、時々、冗長なところがあるって気づいたよ。これは、私自身が自分のアドバイスに従ってないことになるね。とにかく、この文章はゲームのルールってわけじゃないから、そんなに問題にはならないはずだ。

以上

※本記事と関連する記事として、以下のものがある。

※Bruno Faidutti氏の記事として、ほかに以下のものがある。

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