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間接的なインタラクションが求められる背景(Indirect interaction)

本記事は、Bruno Faiduttiが2022年4月27日に投稿した「Indirect interaction」の翻訳である。

極めて短い記事だ。したがって、真面目な論考として捉えるのではなく、この記事のテーマである「間接的なインタラクション」について、Faiduttiが備忘的に書いたものとして捉えたほうが望ましいと思われる。どちらかというと、ゲームデザイン以外の記載が中心的ではあるが、インタラクションに関する何かしらの着想や見識が得られるかもしれない。

元記事は、以下のリンク先を参照されたい。ヘッダー画像は、みんなのフォトギャラリー機能を利用させていただいた。

この二、三年、ボードゲームのレビューにおいて、新しくて悲しく、漠然としていて(nebulous)、時に偽善的な概念が現れている。間接的なインタラクションというやつだ。

普段はこの表現を用いる人を全く理解できないんだけど、仮に、しっかりと理解できるとしたら、彼らはゲームを3つのカテゴリに分けていることになる。

  • インタラクションのないゲーム。大部分はレースゲームや多人数でのソリティアゲーム。

  • 直接的なインタラクションのあるゲーム。他のプレイヤーを殴ることができる。時に背後からであっても。

  • 間接的なインタラクションのあるゲーム。時として、偶然にも他のプレイヤーの邪魔となる。

後者(※間接的なインタラクションのあるゲーム)の適切な具体例として挙げられるのは、紙ペンゲームだ。全てのプレイヤーが同じダイス目を使わなければならない場合、明らかに全くインタラクションがない。一度に数個のダイスが振られて、各プレイヤーが手番に1個のダイスを取るという場合、次のプレイヤーがダイスをとることができなくなる。これが間接的なインタラクションだ。原因は、結果によってのみ定義することができる。紙ペンゲームにおいては、誰も他のプレイヤーのマス目(grids, ※紙ペンゲームなのでこのような表現となっているが、他のプレイヤーの手元くらいの意味)を見ることがないので、このいわゆるインタラクションと言われているものには、実質的にランダム性が付加されている。確かに、プレイヤーが選択できる(possible)アクションは、他のプレイヤーが何をしたかによって左右される。しかし、その他のプレイヤーは、周りの状況を考慮せずにアクションを選択することから、(※他プレイヤーのアクションにより影響を受ける)プレイヤーは、他のプレイヤーのアクションをランダムとしか認識することができない。問題は、そのランダム性が、不確定性(alea)と言い換えられる場合であっても、強烈で(violent, ※暴力的で)不公平に聞こえることだ。間接的なインタラクションが、現代的で巧妙に(subtil, ※フランス語が残ってしまっており、subtleと同義)聞こえるとしても。私は、紙ペンゲームの大ファンというわけではないが、1人のプレイヤーだけが全てのダイスから1個を利用できるシステムよりも、古き良き「High Score」や「Würfel Bingo」のような全てのプレイヤーが同じダイス(やカード)を利用するシステムの方がはるかに好む。私は、プレイヤー全員がインタラクションのない異なるゲームをプレイするよりも、プレイヤー全員がインタラクションのない同じゲームをプレイする方を好む。

多くのワーカープレイスメントゲームにおいて、1つの配置場所に1つのミープルしか置けない場合、ちゃんとしたインタラクションが存在する。私は、「Stone Age」のようなプレイヤーが対戦相手(rivals)をほとんど無視するワーカープレイスメントゲームよりも、「西フランク王国の建築家」のようなプレイヤーが積極的に対戦相手を妨害するものを好む。しかし、プレイヤー全員が同じボード上でプレイし、他のプレイヤーが何をしているかを把握することができて、積極的に彼らを邪魔する場合に、このインタラクションが本当に間接的なのかは定かではない。

それゆえ、間接的なインタラクションは、融通の効く(versatile, ※万能の)二面性のある婉曲的な表現となっている。つまり、ある時は、見せかけのインタラクションを伴う効果的なランダム性を意味し、ある時は、直接的なインタラクションを意味することとなるが、おっと、それを指摘しないほうがいいみたいだ。この表現(※間接的なインタラクション)の奇妙な広まり(success)は、非常に厄介なトレンド、つまり、実生活では多くの場合に尊重されていないけれども、私たちが従うべき道徳的なルールをゲームの中でも尊重すべきだという考えからの当然の帰結だ。あるいは、もし、尊重しないのであれば、最低限、それをごまかすために努力をしたり、長くて空虚ないくつかの言葉を使うべきだとか、ランダム性は実生活においては不公平なので、ゲームの中ではランダム性を一切もたせるべきではないとか、実世界では隣人を殴ることは悪いことなので、ゲームの中でもそうすべきではないとかといったなものだ。

この奇妙な考えは、実世界の問題に取り組まない方法とほとんど同じであり、ゲームというものに対する完全な誤解に由来している。私たちは、実世界で注意深くして避けている、イカれたランダム性に夢中になる楽しさを求めてゲームをプレイする。私たちは、親友たちを裏切る楽しさといった、現実世界で普通はすることがないようなものを求めてゲームをプレイする。この営みは(※現実世界での営みと)正反対だ。ゲームからランダム性、暴力性、悪巧みを取り除いてしまうと、ほとんど何も残らなくなってしまう。まさしく間接的なインタラクションだけになるかもしれないね。

以上

※Bruno Faiduttiの記事として、以下のものがある。

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