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マーラー「角笛」とニールセン「四つの気質」①〜このロクでもない世の中にすら、素晴らしさはある【C.Nielsen】《私的北欧音楽館》

ニールセン (C.Nielsen) 作曲
Symfoni nr. 2 “De Fire Temperamenter”
(CNW26 /1901〜02年) 
 
交響曲 第2番「四つの気質」op.16

 2019年9月1日(日)放送の「クラシック音楽館」(NHK)、予想を超えてよい演奏で、しかも、よく練られたプログラムだったので、予定外ではありますが、感想を書き残しておきたいと思います。

N響第1915回定期公演 (2019年6月8日、NHKホール)
指揮 パーヴォ・ヤルヴィ
 
マーラー こどもの不思議な角笛
     (バリトン マティアス・ゲルネ)
 
ニールセン(ニルセン) 交響曲 第2番 ロ短調 作品16
          「四つの気質」

 

 今回、N響の演奏を聴いてみて、とにかくまず謝らないといけないことがあります。

 N響さん、内心では期待してなかったです……ごめんなさい。

 言いにくいことだけど、ずばっと言います。
 N響、演奏に力、入ってないときあります。
 とくに、マイナーな作曲家のときは、「もっと気合い入れて演奏してよ!もっといい曲のはずでしょ!」……って、テレビの前で地団駄踏むことが多いです。

 以前のニールセンの交響曲 第5番の演奏も、気持の盛り上がりがいまいちで、不発に終わった感じだったので、今回の「四つの気質」についてはあまり期待をしないようにしていました。
 だって、大好きなニールセンが、真価が十分に発揮されないまま、「ニールセン?たいしたことないじゃん」なんて下に見られたら……って、想像しただけで、落ち込む。

 だけど……実際に聴いてみたら、そんなネガティブな予想を裏切る、集中力の高い熱演。丁寧な音色。
 N響のみなさん、こんなに真摯に演奏してくれて、本当にありがとう!

  

テレビは見た、「オレ流」の重低音〜ニールセン「四つの気質」

 つぎもN響とパーヴォの指揮でニールセンを聴いてみたい、機会があるならマーラーももっと聴いてみたい、そう思える演奏会でした。

 「四つの気質」第3楽章は、特に演奏に熱がこもっていて、パーヴォもこの楽章が大好きなのだ、ということが伝わってきました。

 この憂鬱な楽章については、「川辺でたたずむ少年の映像が見える」と、番組内でパーヴォは語っていました。
 そして、ひときわ悲観的に音量の高まった場面で、少年は物思いから、ふと現実にかえるのだそうです。

 さらに、素晴らしかったのは、第2楽章。出だしから、寝起きのときのように、ぼんやりとしてすこし不機嫌な感じだった音楽が、ティンパニの一撃で、びっくり目が覚めて、「あら、私としたことが……!」みたいな感じで、あかるくかろやかな音色に変身したあざやかさは、テレビの前で拍手喝采でした。

 

 とにもかくにも。
 チューバとティンパニのニ大低音楽器の活躍が著しかった演奏でした。

 だってね……このニールセンの「四つの気質」、前回の記事でも書きましたが、本当に低音の圧がハンパないんです。

 で、その圧を、チューバが一身に代表して担っているんです。

 低音楽器といえば、

 弦楽器 ……チェロ、コントラバス
 木管楽器……ファゴット、たまーにバスクラリネット
 打楽器 ……ティンパニ、大太鼓、まれに銅鑼
 金管楽器……トロンボーン、チューバは無いときがときどきある

 になりますよね。

 NHKでクラシック音楽が放送されるとき、テレビ画面によく出てくる低音楽器は、チェロとファゴット、トロンボーンです。
 ティンパニもよく映ります。やはり、ティンパニは打楽器の華です。そして、その他の打楽器はそもそも出番がすくないんだけど、その出番自体が音楽の急所だったりするので、意外と目立ってます。
 コントラバスも「映るとき=音的に目立ってるとき」なので、回数が少なくても印象に残ります。

 だけど、チューバは……ほんとにもう、めったに映らない。なので、チューバが「トロンボーンのついで」みたいなのでもいいから、ちらっとでも出てくると、「レアキャラ、ゲットだぜ!」っていう気持ちになっちゃう。
 ほんまに、チューバって、テレビ的な意味でも「縁の下の力持ち」な楽器です。

 

 が、今回の「四つの気質」では……第1楽章の最初から第4楽章が終わるまで、ここぞ、というときにチューバが映る、映る、映る!嵐のように鳴る、鳴る、鳴る!
 いつもより回数も多ければ、チューバが全曲通してまんべんなくテレビ画面に登場するなんて楽曲、見たことない。逆に、コントラバスやトロンボーンの映らないことといったら、かつてないほど。
 特に、かわいそうなのはチェロ。いつもならバイオリンと同じくらい頻繁に映る楽器なのに、今回にかぎってはクローズアップで映った記憶がないです。むしろビオラが目立ってて、かつ、出てくるたびに美味しいところをさらってました。……いや、以前からなんとなーく、「ニールセンって、けっこうビオラがひいきかも」と感じていましたが、なんとなくではなく、ホントにそうなのかもしれません。

 クラシック音楽について、NHKのカメラワークや画像の編集は的確で、他の追随をゆるさないレベルだと思っています。ここは聴くべき、という楽器がきっちりクローズアップされるし、耳で聴くだけでは聞きとばしてしまう音も映像でひろってくれるから、発見があるし、勉強にもなるんです。
 で、そのNHKが「チェロの出番なし」みたいな編集をしたということは、「四つの気質」は一般的なクラシック音楽とは注目すべき楽器が違っている、ということ。つまり、ニールセンがこれまでのクラシック音楽とはちがう原理で音を鳴らそうとしていた、ということを映像でもとらえている、ということになります。

 たしかに、ニールセンは、「いかにもクラシック」な重厚長大で豪華な音は鳴らしません。ベルベットのような贅沢な肌触りもありません。だけど、そこには、どこまでも青く晴れわたった空があり、快活さがあり、すこやかさがあります。その音色は、第3番「シンフォニア・エスパンシヴァ」からあらわれるのですが、すでに第2番「四つの気質」でも、従来とは違う響きを求めて実験されていたことに、驚かされます。
 だけど、「四つの気質」で試みられたのは、「オレ流の重厚長大」と言えそうです。
 最終的にニールセンは、音を軽くして、軽くして、第6番「シンフォニア・センプリーチェ」にたどりつき、クラリネット協奏曲ではわびさびくらい枯れた音楽にしてしまうのですが、なぜ「オレ流の重厚長大」から離れ、軽やかさを出す方向へ転じたのか、転機はなにだったのか、謎がひとつ増えてしまいました。

 

 でもまあとにかく。
 「四つの気質」はそれだけチューバが前に出ている曲だ、というわけです。
 あの重たく、息もたっぷり必要な楽器が、です。

 しかも、それを全曲通して自分ひとりで担っていたわけですから、チューバ奏者の心身の負担は想像するだにはかりしれません。
 もしかして、ニールセンはチューバ奏者に「酸欠で死にそうだから勘弁してくれ」と訴えられて、チューバメインの重厚長大路線をあきらめたのかもしれない……といらぬ想像もしてしまいます。

 そんなわけで、画面に映るたびに、ついつい「チューバ、がんばれー!」って、声援付き演奏会をしてしまいました……横でごろごろしていた子どもには、「この親、アホか……」みたいな目で見られましたが。
 だって、ニールセンの曲って、音楽も奏者も聴き手も、なんだか他人じゃなくなってしまうんですよね。
 たぶん、これがデンマーク人独特の気質、「ヒュッゲ」というやつなんだと思います。

  

 そして、出色の出来だったティンパニ。
 演奏後の拍手も、ティンパニ奏者が立ち上がったときは、ひときわ大きくとよめきました。

 すでにのべましたが、第2楽章の「目覚めの一撃」、しずかに抑制的に進行してきた音楽のなかに、硬く鋭く、「え、その音量で!」とびっくりして首がすくむくらいのティンパニの打撃!……これがいちばん素晴らしかった!
 また、自分が感じていた以上に、「四つの気質」はティンパニの出番が多く、そのひとつひとつを、ほんとうに表情豊かに演奏してくれていました。ティンパニ1台で大人数のオーケストラと対等に対話している、といいたくなるくらい、存在感があり雄弁なのです。

 この曲は、チューバだけでなくティンパニも、2本の柱となって低音から支えている、ということを如実に実感できる演奏でした。ていうか、ティンパニがマズかったら、この曲はその時点で終わってしまうかもしれないくらい、ティンパニが重要だとさとらされました。
 それどころか、ニールセンはティンパニを「シンフォニーの華」として位置付けようとしていたのかもしれません。

 このティンパニから、第4番「不滅」の2台のティンパニによるバトル、小太鼓の協奏曲かと錯覚しそうになる第5番、ついには第6番「シンフォニア・センプリーチエ」の多彩で軽妙で雄弁な打楽器使いへと発展していった、もうニールセンは将来の超個性的な打楽器使用を目指して出発していたのだ……と思うとゾクゾクしてきます。

 前々から、N響のティンパニ奏者はただ者ではない……と思っていましたが、打楽器が表情豊かに、闊達に活躍するニールセンには、まさに、うってつけの奏者なのかもしれません。
 もし、この人が「不滅」のティンパニ・バトルを演奏したらどうなるのか?……いやでも期待が高まります。
 だけど、受けて立つ第2ティンパニさんは、マジで重圧ハンパないだろうな……。

 追記)
 N響のティンパニは、実は首席奏者二人体制である……ということを、この時点ではまだ知らなかったのでした……。

 

・◇・◇・◇・

 

この浮き世の人間を見よ〜マーラー「子どもの不思議な角笛」

 放送のプログラムとは前後してしまいますが、マーラー「子どもの不思議な角笛」も、今まで見たこともないような名演でした。

 なにはさておき、バリトンのマティアス・ゲルネの歌唱、いや、顔!
 歌の中の役柄にあわせて、こんなに顔が七変化するクラシック歌手ははじめてです。まるで、落語家のように性別や年齢や職業やらを、表情や身振り手振りでビジュアル化し、なりきります。
 この芸達者さ、素晴らしさはテレビでないと伝わりません!

 なかでも鳥肌だったのは、「美しいトランペットの鳴り響くところ」です。
 この歌は、戦場におもむいた婚約者を待つ女性と、夜中に突然かえってきた婚約者(実は幽霊)、語り手、という3人が登場します。物語はシューベルト「魔王」みたいに、3者のセリフで進行します。
 この3人の演じ分けが見事だったのはもちろんですが、際立っていたのは、婚約者を待つ女性の演技です。声色はもとより、顔つき、体つきまで女性化して見えたのは、まるで歌舞伎の女形のよう。もっとくだけていうと、「君の名は。」で、少年瀧のなかに少女三葉が入ったときの、神木隆之介の神演技を思い浮かべてもらえたら、と思います。
 それどころか、「彼女はたしかにここにいる」とすら感じました。

 さらに、「これはよく知っていることだ」と感じました。その瞬間に、赤紙1枚で恋人や婚約者を戦場にとられた、あの頃の女性たちの無念が見えました。そして、もうすこし想像力をはたらかせて、もし為政者たちがボタンをかけ違えたら、自衛隊員とその恋人たちも同じ運命をたどることになるのだ、と。
 この歌の歌詞の内容は、スイス人傭兵の悲しみを歌ったものです。
 事象としては「個別」ですが、歌われている嘆きは「普遍」です。だけど、その嘆きが、ゲルネのように普遍的なものにつながるところまで昇華した歌唱に、残念ながら、一度も出会ったことがありませんでした。

 N響も、ゲルネ、という俳優の主演する映画のBGMに徹していたようで、静かだけど緊張感のある演奏でした。
 「歌と伴奏」ではなく「ドラマとBGM」なのだ、というアイデアには、目からウロコです。登場人物のセリフがそのまま歌詞になっている「角笛」に、体ごと歌になり、役柄になることができるゲルネという歌手に、もっともふさわしい選択です。
 だからこそ、いままで見たことも聴いたこともない、聴き手を覚醒させるような「角笛」になったのだと思います。

 

 取り上げられたのは、「角笛」のなかの以下の7曲です。

ラインの伝説
美しいトランペットの鳴り響くところ
浮世のくらし
原光
魚に説教するパドゥアの聖アントニウス
死んだ鼓手
少年鼓手

 マーラーが固執する兵隊ものが3曲はいっています(「美しいトランペットの鳴り響くところ」「死んだ鼓手」「少年鼓手」)。交響曲 第2番「復活」に用いられているので、ふだんは「角笛」に入れない「原光」が入っていることも注目です。

 また、聴いていると、全部でひとつの物語になるよう配置されているのがわかります。

 すなわち……

 故郷を離れて仕事に行った恋人が早く帰ってこないかしら、と夢見てライン川やネッカー川のほとりで草刈りして暮らしていたけど(「ラインの伝説」)、じつは恋人はもう戦死していた(「美しいトランペットの鳴り響くところ」)。
 
 彼女はそのうち子どもをもうけたものの、パンを食べさせられないほど貧しく(「浮世のくらし」)、ここよりも天国で暮らしたい、と強く願っている(「原光」)。
 だけど、この世では、たとえ素晴らしい理想を説いても、だれも実行しようとしないから、もとのもくあみ(「魚に説教するパドゥヴァの聖アントニウス」)。
 
 あいかわらず兵隊は戦死し、ゾンビになってでも恋人に会いたいと願っているし(「死んだ鼓手」)、脱走しようとして縛り首にされる少年兵だって無くならない(「少年鼓手」)。

 処刑台へと進みながら、「おやすみ、みなさん」と山々や上官や同僚の兵士たちに歌いかける「少年鼓手」は、聴くたびに、胸がぎゅっとなります。
 ましてや、ニールセンも10代は軍楽隊に所属し、起床ラッパ手を務めていたことを思うと、運が悪かったら、この歌はニールセンのことになっていたし、「あいつはいい子だったよ……音楽の才能なんか、とてつもなかったのになぁ……」なんて思い出の中の人になってたかもしれないのですから。
 マーラーとニールセン、というプログラムを組んだとき、「少年鼓手」の後にニールセンをもってきたのは、意味深です。まるで、死んで花実の咲くものか、生きていたからこの音楽も生まれたのだ、と主張しているように思えます。

 

 また、こんなことも想像しました。
 幼い日、「ススメ ススメ ヘイタイサン」とでもいうように、無邪気に純粋に、「兵隊さんは勇ましくてかっこいい!」と軍楽を口ずさみ、お得意のアコーディオンを弾いてたグスタフ・マーラー少年に、 

 「グスタフ……兵隊さんは、いさましいだけではすまないのだよ」

 と、しずかにさとした大人がいたかもしれない。
 グスタフ少年は、そのときはなんのことかわからなかったけど、大人になって、「子どもの不思議な角笛」の詩集を読んだとき、「いさましいだけではすまない」ということばの意味を、目が覚めたようにさとったのかもしれない。

 

 実際のところ、どのような思いでマーラーはスイス人傭兵の悲しみにメロディをつけたのでしょう。そのへんのことについて研究した人がいるのかどうか、私にはわかりません。
 だけど、マーラーは兵隊ものの詩には、勇ましいだけでなく、どこか哀しいメロディをちゃんとつけていることを、今回気がつかされました。それは、「角笛」だけでなく、各交響曲に出てくる軍楽調のメロディも同じです。

 そう、たしかに、「戦争」だとか「戦い」だとかいうものには、無性に胸を揺さぶるなにかがあります。だけど、勃発すれば、あまりにも甚大な被害がもたらされるのも事実です。
 その矛盾を、マーラーはちゃんとメロディで描写していたのです。

 話は東宝特撮映画にとびますが、「ゴジラ」の作曲家、伊福部昭は、自衛隊等、軍隊の活躍するシーンのBGMは、全面的にかっこよさを押し出すのではなく、意図して物悲しく聴こえるよう作曲したそうです。
 「シン・ゴジラ」のヤシオリ作戦で使用され、YouTubeでは「無人在来線爆弾!」だとか、やたら勇ましいコメントが付きまくる、あの「宇宙大戦争マーチ」においてもそうです。それどころか、この曲なんか滑稽にすら聴こえて、私にいわせると、痛烈な風刺です。
 もしマーラーが、「いさましいだけではすまないのだよ」という戦争の実態を引き写す意図をもって「角笛」の兵隊ものを作曲していたのなら、その意図は、遠い日本で引き継がれていたことになります。そして、鷺巣詩郎が「シン・ゴジラ」のために作ったBGMにも、伊福部昭からの流れが引き継がれているのを感じます。
 「宇宙戦艦ヤマト」や「ガンダム」といったむかしの戦闘アニメのBGMがどうだったか、よく思い出せないのですが、やはり、勇ましさ一辺倒ではなかったような気がします。
 だけど、伊福部昭以降の「ゴジラ」の軍隊のシーンのBGMを聴くと、派手やかで、カッコよくて、あこがれすら誘われて……伊福部昭に馴染んだ耳には、かえって、いたたまれない気持ちになってしまいます。
 「地球防衛軍マーチ」から「メーサーマーチ」「Gフォースマーチ」にいたるまで、戦争映画や怪獣映画に目を輝かせる子どもたちに、「兵隊さんは、いさましいだけではすまないのだよ」という戦争の実像を描写し、音楽を通して最後まで語りかけ続けた、伊福部昭のあの思想はどこへ行ったのか、と思います。

 

世の中はロクでもない、でも、それでも人間はいきいきと生きている!

 こんなふうに考えていくと、今回の演奏プログラムでパーヴォ・ヤルヴィが意図したことは、「人間とは何か?」を浮き彫りにすることだったのではないか、と思われます。そのせいか、なんだか、パーヴォから問わず語りのうちに「ありのままの生身の人間を見よ」と、語りかけられているような気になってきます。

 天国を歌う「原光」をはさむ2つの歌、「浮き世のくらし」は、お腹が空いた子どもに「いま種をまくから……」「いま脱穀するから……」と子どもの状況に即さない悠長なことをしたあげくに、子どもは飢え死にしてしまった、というブラックユーモアだし、「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」も、お魚にありがたい説教をしても無駄、という皮肉。たしかに、せっかくの理想を説いてもその通りにはならないのもまた、人間です。
 番組内で、パーヴォ「角笛」について、人間のあらゆる感情が含まれている、というようなことを語っていました。そして、7つの歌を取り上げて、この世のどうしようもなさを物語る「映画」に仕立てました。
 一方、「四つの気質」は、まさに感情をもった生き物、人間そのものを、愛をもって、ユーモラスに活写しています。

 

 つまり、この放送のプログラムは、2つつながってこう言ってます。

 「角笛」が、ひとりひとりの登場人物の感情に寄り添いながらも、かえって、

 「見ろ!人がゴミのようだ!」

 とでもいう「ラピュタ」のムスカ大佐の高笑いが聞こえてきそうな世の有様を描き出してみせたことに対し、

 「そうか、ゴミのようか。だけどひとりひとりは人間だ!」

 と、「四つの気質」で、どんな状況下でも、人間は、ひとりひとり個性を持って、こんなにもいきいきと生きていることを提示して返している。
 ましてや、マニアックな楽器であるチューバやティンパニがオーケストラの中心となりうることを示した「四つの気質」ですから。他の曲にはない説得力があります。

 

 「四つの気質」については、パーヴォは「気質を音楽で描写することは難しい。しかし、ニールセンはそれが得意だった」とし、なかでもとくに第3楽章を取り上げ、「物思いから現実にかえる少年」の姿が見えることを語っていました。
 が、それは、「現実の、生きた人間を見ることに、この少年のように気付け」との、パーヴォからのメッセージだったのかもしれません。

 

 

 次回、ニールセンとマーラーの共通点と差異について、根掘り葉掘りしてみたいと思います。


 

 

記事は毎回、こちらのマガジンにおさめています。


 

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いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。