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本について書いていきます。プルデューとか

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最近の記事

    • 考えるのめんどくさい

       考えうる限り汚い言葉で、偏った思考で物を言ってみたい。そんなことをしたら友人は離れるだろうけど、お行儀よく人の話を聞くのが辛すぎる。主張のの終着点がはっきりしているのなら、その過程を全てショートカットして、社会性も取り除いた方が気楽でいいのではないか。論理的に見せかけるために文字数を伸ばすなんて無駄なことをせずに、ただ「タヒね」「だまれ」「ヤらせろ」とさけびながら車で突っ込む方が生産的だと思う。

      • 味覚

        ブルデューは文化資本の形成における社会資本と経済資本の重要性を無視しているわけではない。例えば、芸術の制作や楽器を演奏する能力は、「芸術や文化の世界に長く定着していることに関連している 態度だけでなく、経済的な手段や余暇も前提としている」。しかし、自分の好みに基づいて行動する能力に関係なく、ブルデューは、「回答者は、正当な文化に対する地位に起因する親近感を表明することだけが求められている」と規定している。味覚はある種の社会的志向、「自分の居場所の感覚」として機能し、与えられた

        • 階級と美的嗜好

          ブルデューは、生産的利用に供される特定の資産の合計として定義された資本の概念を導入した。ブルデューにとって、このような資産は様々な形をとり、経済的、象徴的、文化的、社会的な資本のいくつかの主要な形を常に言及していた。ロイック・ワカンは、ブルデューの思想をさらに次のように説明している。 資本には、経済的、文化的、社会的な3つの主要な種がある。第4の種である象徴的資本は、人々が資本をそのように認識していない場合の、あらゆる形態の資本の効果を示すものである。 ブルデューは、19

          ハンビョンチョル下-エヴァイルーズ-

          エヴァ・イルーズ(Eva Illouz)は『冷たい親密性――感情資本主義の成り立ち』において、資本主義の状況下でなぜ感覚はブームになっているのかという質問に、具体的な答えを出していない。その上、この本は感覚と感情において、いかなる概念的な区別もしなかったし、資本主義がその始まりの段階において感覚の問題を位置付けすることにも役立たない。《ウェーバーのプロテスタントの倫理学は根本的に経済的な活動においての感情の役割について主張している。なぜならそれは資本家や起業家の狂気の活動の中

          ハンビョンチョル下-エヴァイルーズ-

          ハンビョンチョル上

          今日、感情を刺激する話題は溢れんばかりだ。たくさんの学問は、感情について研究している。人間はいきなり、「理性的な動物」ではなくなり、その代わりに、センチメンタルな生き物になった。しかし、感情へのこの突然の興味関心はどこから来たのかを問おうとする人はほとんどいない。科学における感情の研究者たちは自身の活動においてそれを探究しようとしていないことは明らかである。したがって、彼らはこの感情の「ブーム」が何よりも経済的なプロセスから由来することを言明できずにいる。さらに最悪なことに、

          ハンビョンチョル上

          盲目と洞察(ポール・ド・マン)下

          【表象と音楽】  何故、そもそも現代思想において「表象」や「起源」といった概念が重要なテーマとなっているのだろうか?  一つ言えるのは、18世紀に活躍したルソーがコンディヤックを評価して、「森の中の自然人」という原始的なトポスにおける人間の「怖れ」の感情にこそ「言語」の「起源」があるのではないか、と考えたからである。ルソーはこの点を以下のように述べている――「生存の必要に迫られて人間は互いに避け合わざるをえなくなるが、情念が彼らを近付ける。最初の言葉は飢えや渇きによるもので

          盲目と洞察(ポール・ド・マン)下

          盲目と洞察(ポール・ド・マン)中

          【ド・マンのデリダ批判の核心】  ジャン・スタロバンスキーを読解しつつデリダは、ルソーのエクリチュールにおけるある種の「苦悩」を分析している。ルソーは自分の実人生ではけして満足できなかったことを、フィクションの世界で「回復」しようと企てていた。ルソーのみならず、作家の中のある種の者は、自分の実人生において例えば多くの色恋沙汰と華やかな恋愛遍歴を「断念」することによって(ここで一種の象徴的な死が生ずる)、自分が生み出すフィクショナルな世界の中では、断念した挫折感や憧憬を核にし

          盲目と洞察(ポール・ド・マン)中

          盲目と洞察(ポール・ド・マン)上

          【「盲目性」と「誤読」の概念】  批評家、あるいは作家たちは、自らが主張しようとしたテーマとは全く別の何かを述べざるを得ない。これは文学言語の本性でもある。例えばカフカは「不条理」を描いた作家として今日、多くの読者に認知されているが、カフカ自身が果たしてそのテーマに自覚的であったか、という問題である。カフカが「不条理」を、あるいはブランショが「非人称性」といった一つの明白なスタイルを確立し得たのは、実は彼らがこれらの方法に気付かぬまま(盲目性に捕われるということ)であったから

          盲目と洞察(ポール・ド・マン)上

          プルデュー社会学基礎おさらい下

          ちょっと長くなりました 【distinction(卓越化、差別化)】  ブルデュー社会学の基礎概念であるdistinctionとは、まず何よりも「他者から自己を区別して〈際立たせる〉こと」を意味する。基本的な意味は「区別、弁別、識別」であり、AとBの差異、あるいはその差異の認識である。この言葉は元々、フランス語特有の代名動詞であるse distinguer(自分を他者と区別する)の名詞形である。distinctionには、他にも以下のような多義的な意味が存在する。また、d

          プルデュー社会学基礎おさらい下

          プルデュー社会学基礎おさらい中

          【capital(資本)】  まず、ブルデュー社会学において「資本」は以下のように大別できる。 capital économique(経済資本) capital culturel(文化資本) capital social(社会関係資本) capital scolaire(学歴資本) 「資本種の交換」  「資本種の交換」とは、「資本の特定種を他の<界>において流通している資本種に転換すること」である。  例えば、芸術<界>内部で活躍している写真家Aを例にしよう。A

          プルデュー社会学基礎おさらい中

          プルデュー社会学基礎おさらい上

          【disposition(性向)】  「性向」とは、行為者を規定している社会構造(職業、地位、身分、学歴、威信など)が内在化・身体化されて主観的な心的構造となったものであり、反復される個々の慣習行動を規定している潜在的なベクトル、ある事態を前にしてほとんど「無意識」の内に機能する諸々の基本的な志向性として、定義されるものである。「性向」は、大きく生活態度に関わる「倫理的性向」と、趣味判断に関わる「美的性向」に大別することができる。前者の集合はethos(エートス)と呼ばれ、

          プルデュー社会学基礎おさらい上

          女性のハイカルチャー志向(つづき)

          「客観化のメカニズムを再客観化する思考」の必要性  ここで注意しておきたいのは、片岡氏が「文化資本の再生産」の担い手を、徹頭徹尾「女性」に設定しているという、ある種の強いバイアスが働いた見方である。常識的に考えて、母親の文化資本が「息子」に相続されるということはよく見受けられるし(例えばマルセル・プルーストは文化資本の点で衛生医学の権威である父よりも教養豊かな母親から多大な影響を受けたことが知られている)、一家における経済資本の担い手を男性のみに定める見方は、封建社会の父権

          女性のハイカルチャー志向(つづき)

          女性のハイカルチャー志向(test)

          日本のブルデュー研究者の論稿を編集した『文化の権力』所収、片岡栄美氏の『「大衆文化社会」の文化的再生産――階層再生産、文化的再生産とジェンダー構造のリンケージ』(2003)を読解したので、その記録を残す。著者は関東学院大学文学部現代社会学科教授で、専攻は階層・移動研究、教育社会学であり、東大出版会の『社会階層のポストモダン』にも「文化資本と階層再生産」をテーマにした別の論稿が収録されている 日本は文化的に平等か?  まず、片岡氏は一般論として未だに信じられている「日本は文

          女性のハイカルチャー志向(test)