プルデュー社会学基礎おさらい下

ちょっと長くなりました

【distinction(卓越化、差別化)】

 ブルデュー社会学の基礎概念であるdistinctionとは、まず何よりも「他者から自己を区別して〈際立たせる〉こと」を意味する。基本的な意味は「区別、弁別、識別」であり、AとBの差異、あるいはその差異の認識である。この言葉は元々、フランス語特有の代名動詞であるse distinguer(自分を他者と区別する)の名詞形である。distinctionには、他にも以下のような多義的な意味が存在する。また、distinguerの過去分詞であるdistinguéが形容詞になると、「上品な、気品ある」という意味になる。
 このように、distinctionとは、他者よりも上品で優雅、かつ卓越した存在として自己を提示する行為である。使い方として、例えば「彼女にはディスタンクシオンがある」という場合、これは「彼女には上品な物腰、趣味、教養がある」という多義的な意味を与えることになる。以上から、ブルデューが頻出させるキーワードであるdistinctionは、日本語では「卓越化、差別化」と訳されることが多いが、実質的にはこのような重層的な意味が存在している。

「distinctionの類似概念」

・différences(差異)
・différenciation(差異化)

 そして、ここからネガティブな意味にも繋がるdiscrimination(差別)という概念へも派生していくので、distinctionの持つ概念の射程圏は極めて広範囲に及んでいると言って良いだろう。

【légitimité(正統性)】

 正統性――正確には「文化的正統性」とは、「自然化された社会的差異」である。それは〈界〉内での支配の正当化、あるいは階層化の効果によって、最早恣意的なものとは意識されないほどに正当化されるに至った恣意性である。換言すれば、「自然的差異として誤認されるに至った社会的差異」、「無根拠な根拠」である。ノブレス・オブリージュの原理、あるいは界内の信念(祖国愛、イデオロギーなど)も全てlégitimitéの所産であり、これらは「正統化」された「ドクサ(臆見)」として、ブルデューは『パスカル的省察』でortho-doxie(正統ドクサ)と表現している。légitimité(正統性)、ortho-doxie(正統ドクサ)の類似概念が、illusio(イルーシオ)である。
 イルーシオとは、行為者間で共有されたそれぞれの〈界〉特有の集団的な幻想を意味する。スコラ的貴族主義は自らの支配を正当化するために制度的な認識論的フレームを行為者に与えるが、これがイルーシオそのものである。イルーシオ、あるいは臆見としてのドクサとは〈界〉内に存在し、我々の「身体」を幻想的に構成してきた類のものであり、これは〈界〉内の権力者たちによって暗黙裏に正当化されている。ドクサとは、我々の認識的な鋳型の総体であり、全ての行為者が何らかの界に属する限りで、常にドクサを無意識に受容していることになる。ドクサは往々にして界内の「敵対関係」を生み出す作用因としての機能している。敵対は往々にして二項対立的な図式を取るが、彼らはいわば「対立する相手」を持つことによって自己を界内の場に穿つのであり、このためには互いに対立し合っているという共通の視点が必要である。「正統派に属そうが異端派に属そうが、全て界にコミットしている者たちは同じドクサへの暗黙の帰依を共有している。このドクサが競争を可能にし、競争の限界を画するのである」(『パスカル的省察』p174)。
 文化的に何が正統的であるかというこの問題は、常に〈界〉内でのclassement(分類=階級付け)の操作を通して実現される。例えばクラシック音楽の中でも、リヒャルト・シュトラウスは世俗的だがバッハは正統的であるとか、英米文学でもパトリシア・ハイスミスは大衆的だが、ヘンリー・ジェイムズは厳格で純文学的である、などといった様々な「印象/効果」が存在するが、これを生み出す根源的な操作がclassementである。そして、こうした階層化/階級化の原理は、その〈界〉の「歴史」によって生成する。すなわち、ある作品が他の作品よりもいっそう「高尚」に感じられたり、評価されていたりする背景には、ハビトゥスそのもの歴史的背景が横たわっている。無論、全ての行為者はこうしたdistinguer(区別する)行為を通して、se distinguer(他者から区別される)存在でもあり、classementによって一定の「クラス/位置」に常に分類「される」分類者でもある。

【habitus(ハビトゥス)】

 最も重要な骨格を取り出せば、habitus(ハビトゥス)とは「身体化された歴史」であり、「構造化された構造」である。habitusはラテン語habere(持つ)の派生語(英語haveの語源)であり、「所有」の観念を含有している点が重要である。ハビトゥスとは、図式的には以下の四つの子概念を包括した親概念(基礎概念)である。

・各倫理的性向の集合としての「エートス」
(例)「彼は毎朝ニュースを欠かさずチェックする」(几帳面な性格)
・各美的性向の集合としての「趣味」
(例)「彼女はミュージカルよりもオペラを愛好する」(クラシックな文化への志向性)
・各身体的性向の集合としての「身体的ヘクシス」
(例)「彼女はランチの際、背筋を自然に伸ばして上品に食べる」(家庭環境での食事マナーの身体化)
・各言語的性向の集合としての「言語的ヘクシス」
(例)「彼の日常語には自然に英語が多用される」(外国語の理解、習得)

 これら四つの概念(「エートス」、「趣味」、「身体的ヘクシス」、「言語的ヘクシス」)がひとりの行為者の「慣習行動」を生み出す要因となるわけだが、ハビトゥスとはそれらの総称である。つまり、ハビトゥスとは一言で言えば、「エートル(存在)と化したアヴォワール(所有)である」(ブルデュー)に他ならない。したがって、厳密に言えばハビトゥスは「習慣」という訳語に収まり切るような概念ではない。ハビトゥスは「habitude(習慣)を生み出す強力な〈生成母胎〉」であり、「存在」に先立つ唯一の概念である。主著の一つである『パスカル的省察』でブルデューは「ハビトゥス」を以下のように定義している。

ハビトゥスは継起的局面のデカルト的不連続性を運命付けられた瞬間的存在ではなく、ライプニッツの用語を使って言えば、lex insita(天性の法)でもあるところのvis insita(天性の力)である。すなわち法を備えた、したがって恒常的要因と恒常性を象徴とする…力である。…ハビトゥスは、持続的な連帯の場、身体化された法と絆――団体精神の法と絆――に基づくがゆえに、抑え込むことができない忠実性の場である。ル・コール・ソシアリゼ(社会化した身体)の、ル・コール・ソシアル(社会という身体)――(社会化した身体は社会という身体によって形成されたのであるし、また、それと一体をなしている)に対する抜き差しならない密着である。こうしてハビトゥスは、同じような条件と条件付けの生産物である全ての行為者の間の暗黙の共謀の基礎となる。(『パスカル的省察』p246)


 例えば、農夫の家庭に生まれた美しい少年が成長して、ある貴婦人の眼に留まり、社交界でやがて研鑽を積んで一人の「貴族の青年」に「成り上がる」ような物語を想像してみよう。彼は貴婦人から一流の「身振り」、「礼儀作法」を学ぶことはできるが、農夫の子として生まれ、幼少時に身体化された「性向」を教育によって改めていくのはけして容易なことではない。フランス語の有名な諺“Chassez le naturel, il reviendra au galop.”(本性を追い払ってみよ、すぐさま舞い戻ってくるであろう➡人の本性は容易に変えられるものではない)は、まさに「ハビトゥス」が「存在」にいかに決定的な影響を与えるかを如実に物語っている。〈生成母胎〉としてのハビトゥスの本質は、langue maternelle(母国語)とも表現されることがある。幼少時代の「母の言語」は、成長した後の個人の話し振りや言葉遣いに決定的な影響を与える。それは「隠そうにも隠し切れない階級性の指標」である。
 また、先述した物語の例は以下のような重要な示唆も与える。少年は自身の出自から「脱出」して、上流階級に参入しようと企図したわけだが、このような「越境」行為もまた「ハビトゥス」が初めから組み込んでいる原理である。すなわち、ハビトゥスには、コードからの逸脱や公式への違反も予めプログラムのモメントとして設定されているのだ。
 ハビトゥスとは何かを定義する際のアナロジーとして有効なのが、以下の図式である。

・modus operandi(作り出す方法)=ハビトゥス
・opus operatum(作り出された作品)=行為者の諸特性、生活様式

 つまり、ハビトゥスが我々行為者の慣習行動を生み出す〈生成母胎〉=〈方法論〉であり、いわば我々行為者は〈ハビトゥスの作品〉という図式が成立する。いずれにしても、ハビトゥスは「自我」に統制されることなく、行為者の全ての慣習行動を決定付けていく。この点で、ハビトゥスとはまさに「主体なき実践」であり、ほとんど自動的なメカニズムである。これは即座に「人間は生まれながらに運命を決定付けられている」ことを意味していないが、「構造化する構造」として人間の運命がハビトゥスに著しく左右されることは否定の余地がない。このように、ブルデューの認識論は単なる構造主義の次元を越えた、「生成論的構造主義」の立場を採用していると言われることもある。

「一次的ハビトゥス」

 一次的ハビトゥスとは、「最古層の早い段階でのハビトゥス」を意味し、端的にこれはgoût(味覚)である。ブルデュー社会学の中でgoût(趣味)の概念が極めて重要であることは既に述べたが、この語は同時に「味覚」をも意味する。

habitus clivé/cleft habitus(分裂ハビトゥス)

 ブルデュー自身、農夫の家系からフランス最高の知的養成機関へ進学できたという「奇蹟を受けた者」としての誇り、自信を抱いていたことを『自己分析』で述懐している。こうしたエリートとしての聖別された感覚を、ブルデューはカント派に挑戦を試みたハイデッガーにおいて顕著に見出している。「エコール・ノルマルの時代から、わたしの選択の多くがある種の貴族主義によって決定されていたことを告白しなければならない」(p157)。しかし、ブルデューが身体化した貴族主義とは、「分裂ハビトゥス」に内在する「傲慢であるよりは絶望からくる貴族主義である。何故なら、学力競争にはまってしまったことを振り返って恥じる気持ちと、一時期染まってしまったbon-élèvisme(優等生主義)への反撥とに根ざす貴族主義だからである」(同)。
 ブルデューは、自分の研究スタイルに「分裂ハビトゥス」が顕著に身体化されていると解釈している。例えば、「しばしば、一見卑近な経験的対象に大きな理論的野心を投資する」(p158)。これはおそらく、『美術愛好』で展開されたような、「美術館や劇場へ行く」行為が、なぜ「映画館へ行く」行為よりも顕著に「上流階級」的な文化的パラメータの指標となるのか、といったことを徹底的に暴き出そうとするブルデューの極めて鋭敏な「慣習行動」への分析として顕在化しているだろう。

【pratique(実践、慣習行動)】

 pratiqueとは、ほとんど生活のあらゆる領域にまたがる日常的な行為の数々であり、以下のように規定される。

「性向」×「社会的状況」=「慣習行動」


 我々の「性向」は「ハビトゥス」の所産である。性向は我々の「身体」に書き込まれているのであり、そうである限り、我々は常に社会的に(再)生産されている。したがって、この「性向」それ自体が実は「歴史」的である。例えば、ある人間がオペラを愛し、実際に何度も足繁く劇場に通うまでの知的変遷それ自体に、彼の周囲を取り巻く社会的歴史の地層が横たわっている。この限りで、「性向」には「歴史」が身体化している。
 次に、「社会的状況」は諸「界」の構造が齎す現状を意味する。例えば、会社員の場合、朝八時から夕方六時までは少なくとも企業に拘束されるという状況は、彼の「趣味形成」の場としての「余暇」に大きな影響を与える。無論、こうした現状を生産しているのも社会であり、その社会空間を成り立たせている「歴史」である。この歴史は、「身体」と表現される。
 この二つの要素が一体化して、それまで「潜勢態」であった「ハビトゥス」自身が、いわば自己展開し始める。これこそが、我々の「日常行為」であり、ハビトゥスの「顕在化」である。このように、行動とは「歴史化された身体」=行為者が、社会空間において「身体」を還元していく行為であり、この継続によって身体は逆に歴史化する。行動こそが歴史を展開する限り、この図式は「世界の生成原理」として把捉することが可能となる。それは実は二重の「身体」論であり、部分としての「身体」がそれを取り巻く社会という「身体」に包摂されているという事実を提示しているのである。ブルデューはこれを『パスカル的省察』で以下のように述べている――「社会化した身体は社会という身体によって形成されたのであるし、また、それと一体をなしている」。

【象徴的権力】

 象徴的権力(あるいは象徴的暴力とも表現される)とは、端的に言えば「支配関係の構造を身体化したもの」である。ブルデューは『パスカル的省察』で以下のようにこの権力が行使される原理を規定している。「象徴的暴力は意識と意志を武器とするだけで克服できると考えるのはまったくの幻想である。象徴的暴力の有効性の条件は、性向という形で身体の中に持続的に書き込まれている。この性向が、特に親族関係の場合、またこの関係をモデルとする社会関係の場合、感情あるいは義務の論理の中で表現され体験され、それらの社会的生産条件が消滅した後も、長く生き延びるのである」(p307)。すなわち、象徴的権力とは、我々の全ての社会的行為を産出するファクターである「性向」(ハビトゥスから再生産されたものとしての)の内に書き込まれている(例えば両親の口振り、趣味、小学校時代の教育環境など)ものであり、高度にクリプト化された状態で身体化されているものである。それは、「支配されている」という事実を支配者側によって巧妙に隠蔽化するための原理であるが、ブルデューのこの概念はこうした内幕を曝け出す効力を発揮する。
 象徴的な権力は、ハビトゥスの性向の暗闇の中で発現する。この性向の内部には、行為者の認知システム、それぞれの行動や趣味を生み出す構造が書き込まれている。被支配者側の認知システムの内部に、既に支配者側による「支配の正当化」原理の図式があらかじめ書き込まれている以上、実はこうしたクリプト化された「見えない暴力」は、被支配者側と支配者側の「共犯関係」があって初めて成立すると言うことができる。換言すれば、「支配される」という状況が成立するためには、我々ひとりひとりの認識するフレームと、「国家」権力を最高形態とする、公的に「客観的構造」とみなされているフレームが一致することが必要である。第二次大戦前の日本の社会的状況を鑑みれば判然とするだろうが、強力な「支配の正当化」原理が作動している「界」内においては、プレーヤーが「支配される」という拘束的な感覚を麻痺化させてしまっている現象が見られる。こうした正当化された支配体制は、「界」外に脱出して冷静に分析してみないことには可視化され得ない。ある国家に存在する時、我々は必然的にその国家に特有のイルーシオ、あるいはドクサを身体化してしまっている。これは、例えば作家を目指して「小説を書く」という、一見極めて「自由」に見えるような行為においてすら、「文学」界という固有の場によって既に「小説」というエクリチュールのシステムが各種の「正当化された様式」に染まっているということを我々に思い起こさせる。既成秩序への暗黙裏の服従は、系統発生的な身体としての「集合的歴史」(例えば「文学史」)と、個体発生的な身体としての「個人的歴史」(例えば作家の個人的歴史)が、共通してそれぞれの身体の中に書き込んだ認識構造と、それらの構造の器の役割を果たす「界」(この場合は「文学」界)の客観的構造との間の「一致」の産物に他ならない。
 象徴的権力のメカニズムによる支配は極めて強力である。このメカニズムの本質を、ブルデューは「二重の自然化」、あるいは「二重の共犯」と呼ぶ。つまり、支配層のみならず被支配層も「支配の正当化」原理を身体化し、その内に「界」特有のイルーシオ、あるいはドクサを抱え込んでいるという事実である。換言すれば、既にそのような社会構造が存在しているのであり、これを身体化したものとして行為者の認知システムが生産されるわけだが、社会構造もまたそうした認知システムを刷り込まれた行為者の集合として生成しているという二重性である。

【制度化された視点】

 ブルデューは『美術愛好』で「眼は文化的産物である」という定式を提示しているが、これは「視点が対象を創造する」というソシュールのテクストを敷衍したものである。同様の見解は、ヴェルフリンが『美術史の基礎概念』で展開した認識論的な枠組みとも相関している。ヴェルフリンはその結論部で、以下のようにブルデュー社会学の基礎に存在する認識論を共有していた。

全ての芸術的直観はある種の装飾的図式に拘束されている。あるいは――同じ言い回しを繰り返すが――可視的なものは<眼>のためにある種の形式のもとで結晶する。しかし、全ての新しい結晶形式の中で、世界内容の新しい側面も現れ出るであろう。(ハインリヒ・ヴェルフリン『美術史の基礎概念』p336)

「全ての芸術的直観はある種の装飾的図式に拘束されている」とは、換言すれば「あらゆる芸術作品は例外なく様式の枠内にある」ということである。

【文化的再生産(cultural reproduction)】

『ディスタンクシオン』で提示された、行為者を社会空間において差異化させる二大差異化原理――すなわち「文化資本」と「経済資本」である。この二つの資本種は、『国家貴族』で理論化された「再生産原理」である「同族型再生産」と「学歴型再生産」によって、親から子へと受け継がれる。

【champ(界)】

 例えば文学という〈界〉ひとつ取り出しても、そこには直木賞寄りの「大衆文学」と芥川賞寄りの「純文学」でそれぞれの〈界〉があり、〈界〉内で更に細かく階層化が起きている。全ての行為者は社会空間上で、あるいは「趣味」の分布図において何らかの〈界〉のプレイヤーとして存在している。

【agent(行為者)】

ブルデュ―社会学における「行為者」とは、pratique(実践、慣習行動)に伴って形成される「過程的な〈わたし〉」である。ブルデューは、このようにデカルト的な伝統的「主体」(sujet)を意味するキーワードを周到に回避し、あえてagentを「主体」の意味で使用する。

【Ancien régime(アンシャン・レジーム)】

 ジョルジュ・ルフェーヴルによれば、Ancien régimeとは、フランス革命以前の16世紀から18世紀において制度化されていた政治体制である。ブルボン王朝の絶対王政はこれに当たる。アンシャン・レジーム下のフランスでは、「聖職者」、「貴族」以外は全て「第三身分」として扱われ、この三つの身分しか存在しないと考えられていた。ブルデューの社会学では、往々にして「支配の正当化原理」を行使する権力装置のメタファーとして登場する。

【aristocrate(アリストクラート)】

 aristocrate(アリストクラート)とは、「貴族」+「高位聖職者」によって構成された社会的階層である。語の使い方としては、aristocratic(アリストクラティック)、制度としての意味で用いるならaristocratie(アリストクラシー)である。アントニムは「デモクラート」であり、この限りでアリストクラートはデモクラートに対立する政治的・社会的な概念である。アリストクラートは自分たちの利権を守るための「支配原理」に貫かれており、かつこの原理を正当化しようとする点で共通する。ブルデューは彼らを「凡庸なホモ・アカデミクズ」や「〈界〉内のスコラ的貴族主義」のメタファーとして用いる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?