盲目と洞察(ポール・ド・マン)上

【「盲目性」と「誤読」の概念】
 批評家、あるいは作家たちは、自らが主張しようとしたテーマとは全く別の何かを述べざるを得ない。これは文学言語の本性でもある。例えばカフカは「不条理」を描いた作家として今日、多くの読者に認知されているが、カフカ自身が果たしてそのテーマに自覚的であったか、という問題である。カフカが「不条理」を、あるいはブランショが「非人称性」といった一つの明白なスタイルを確立し得たのは、実は彼らがこれらの方法に気付かぬまま(盲目性に捕われるということ)であったからだ。したがって、作品に対する「洞察」はあくまでも読者にとってのみ存在する。ド・マンは更に、書き手の「盲目性」は、エクリチュールそのものと分ち難く結合しているのではないか、という問いを提起している。書き手が自ら設定したテーマに関して最も盲目になり得る瞬間があるとすれば、それは彼らが自分自身が書いたものについて最高の洞察に達していると自認した瞬間である。
 トドロフは、同じ一冊の本を読む行為は、読むたびにそのつど差異化するものであると解釈している。レクチュールの中で、我々は「ある受動的なタイプのエクリチュールをなぞって」おり、読んでいるテクストから意図的に不要だと判断した箇所を省略したり、あるいは解釈を補強するために付け加えたりしながら読解している。換言すれば、レクチュールは既に常に「誤読」の地平へと差し向けられているのであり、それはエクリチュールの本質と限りなく類縁的だということである。読むこともまた、書くことと同様に頭の中で「表象する内容」を取捨選別しているというわけだ。トドロフは、「批判的な読解」とは、「エクリチュールの顕在的ないし潜勢的な形態」であり、読む行為によってテクスト自体がいわば変容するという考えを表明している。このように、レクチュールは実はエクリチュールの様態として解釈可能である。そしてド・マンは、読解したテクストと、読解されたテクストが往々にして抗争関係に至る可能性があることを示唆している。ここで言う抗争関係とは、元のテクストに対して、それを読んだ記録としてのテクストが何らかの「齟齬」を不可避的に犯しているということである。つまり、レクチュールとは本質的に「誤読」であり、書き手も読み手も共に「盲目性」に取り憑かれているということに他ならない。ド・マンはこのように、レクチュールは本質的に内在的な行為(現象学的直観に基づく「虚構」を媒介にするということ)であり、そうであるがゆえに「齟齬」こそが読みの本質であると結論付けている。作家に対する批評家の言説も、こうして本質的に「言明の盲目性」に捕われるのである。
 ド・マンの思想における「誤読」の概念で重要な前提となる考え方は、「テクストは誤読される必然性を前提としている」というものである。そして、テクストとは本質においてアレゴリー様式(メタファーを慣用するスタイル)としてしか成立できず、それは自らが文字通りに受け取られることで「誤解」されるだろうということを知っている、とド・マンは考えている。以下のテクストは、彼の「誤読」概念を知る上で最良のエッセンスとして機能している。

テクストはそれ自身の様式の「修辞性」を説明しつつ、それ自身が〈誤読〉される必然性をも前提としている。それは自らが誤解されるであろうことを知っており、かつそう主張しているのである。それが語るのは、自らが誤解される物語、その誤解のアレゴリーである。すなわち、旋律がハーモニーへと、言語が絵画へと、情念の言語が必要の言語へと、メタファーが文字通りの意味へと必然的に堕落してゆく物語である。テクストは、それ自身の言語に一致してしまうことで、こうした物語をフィクションとしてしか語り得ないのだが、フィクションが事実と取り違えられ、事実がフィクションと取り違えられてしまうということを十分知っている。そうしたことが、文学言語の必然的にアンビヴァレントな本性なのである。(p232)


 このド・マンのテクストは、我々が何か一冊の本を読む時に往々にして作者の意図に反した「誤読」を行うことがあり得る、という素朴な事実を再認識させる程度のものではない。そうではなく、ここでド・マンが真に告知している定式は、テクストそれ自体が本質において「誤読」されるということである。読む、とは、常に既に「誤読」である。これが文学の本性である。ここで言う文学とは、あらゆるレトリック、詩的な含蓄を含み得る全てのテクスト――すなわち我々が今日「小説」や「詩」、「戯曲」、「エセー」、「評論」として書棚に並んでいるのを確認できる全ての文学作品――のことである。
 重要な点は、「誤読」と「盲目性」の概念が、同じ一つの概念を巡る異表現であるということである。読者は作家のテクストを読む時に必然的に「誤読」を犯すが、作家も同じくあるテーマを前景化させようという戦略に自覚的になることで、パラドキシカルにもそのテーマとは異質なテーマを輪郭化させるに至る。それは作家自身の「盲目性」であると言うことができる。本章の最後で、ド・マンは以下のようにこれらの概念を一つの要点となるテクストへとまとめあげている。以下のテクストは、彼の規定する「文学史の基盤」そのものとして定義されている。

解釈とは誤謬の可能性に他ならない以上、一定の〈盲目性〉がすべての文学の種別性をなすのだと主張することによって、我々がまた再確認することになるのは、解釈がテクストに、テクストが解釈に、絶対的に相互依存しているということなのである。(p241)


 では、「誤読」が特に前景化するのはどのような場合だろうか? 例えばそれは、作家の元のテクストが批評的でありつつも詩的なレトリックを多用したりして、高度にアンビヴァレントである場合である。批評とは常にこうした齟齬を払拭し、できるだけ実証的で合理的なアプローチを採用するものであるが、現代思想において再評価されいるルソーのテクストの場合、齟齬は不可避的に多く生じているようだ。つまりルソーは、その演劇的な身振り、文学性において論述にアレゴリーを導入しているのであり、これがテクストにアンビヴァレントな、多くの解釈の間で「齟齬」を生じさせる原因となっているのである。だが、これは果たしてルソーの思想家としての欠陥を意味するのだろうか? 

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