プルデュー社会学基礎おさらい中

【capital(資本)】


 まず、ブルデュー社会学において「資本」は以下のように大別できる。

capital économique(経済資本)

capital culturel(文化資本)

capital social(社会関係資本)

capital scolaire(学歴資本)

「資本種の交換」

 「資本種の交換」とは、「資本の特定種を他の<界>において流通している資本種に転換すること」である。
 例えば、芸術<界>内部で活躍している写真家Aを例にしよう。Aはファッション系の写真家として活動し、一定の社会的認知を受けているが、他方で彼の「社会関係資本」を覗いてみると、その人脈ネットワークにはファッションデザイナーやモデル、服飾店舗経営者などが含まれている。こうした横の繋がりを利用して、写真家として培った「文化資本」を、今度はファッション<界>に「交換」することで、新しい活躍の場が見出せるかもしれない。このような戦略のもと、写真家Aは学生時代の友人網を基盤にした人脈を利用し、新たに「ブランド」を立ち上げた場合、そこで生起しているのはまぎれもなくブルデューのいう「資本種の交換」である。資本種を交換するためには、それだけの資本量をあらかじめ潜在的に蓄積しているだけの「貴族性」が必要である。
 「資本種の交換」は、「戦略変換」ともいわれ、貴族階級がアンシャン・レジーム体制から、ブルジョワ的な株式会社運営に新しい活路を見出した時点での戦略変換と通底している。貴族は貴族階級特有の卓越化した資本種を、社会体制の変化と並んで絶えず「交換」していかなければならないのである。


【capital culturel(文化資本)】


「定義」

 文化資本とは、経済資本のように数字的に定量化できないが、金銭と同じように社会生活において一種の「資本」として機能することができる種々の文化的要素のことである。学校教育で得られた知識、書物など多様なメディアで得られた教養、育った家庭環境や周囲の友人環境を通して形成された趣味、美術館やコンサートでの芸術との接触や種々の人生経験によって培われた感性なども、文化資本の一種と考えられる。文化資本は各個人の内部に不可視の属性として同化されている場合もあれば、個人の外部に具体的な物として、あるいは社会的に人称された肩書きや資格として客体化されている場合もあって、その形態は一様ではない。

【incorporé(身体化された)文化資本=goût(趣味)】

 身体化された(ハビトゥス化)された文化資本、すなわちgoût(趣味)は、あらゆる財産と同じく、何らかの市場(学校、社交、労働市場など)において投資することが可能で、その結果として一定の「利潤」――物質的利潤だけでなく、他者の尊敬や評価といった「象徴的地純」、「認知資本」も含む――を生み出すことも期待できる。ブルデューは『ディスタンクシオンⅠ』で以下のように「趣味」を規定している。

趣味は分類し、分類する者を分類する。社会的主体は美しいものと醜いもの、上品なものと下品なもののあいだで彼らが行う区別立ての操作によって自らを卓越化するのであり、そこで客観的な分類=等級付けの中に彼らが占めている位置が表現され現れてくるのである。(『ディスタンクシオンⅠ』p11)


 趣味は、ある個人AとBの「差異」を最も強烈に際立たせる指標である。例えば、「私は英文学ではヘンリー・ジェイムズが好きです」と言うためには、翻訳のみならず原書で頻繁に作家の文章を熟読していることは勿論、ある程度のジェイムズについての研究書を読んだ経験を持っていることが望ましいし、比較対象として他の英文学の作家についても知っていることが要求されるはずである。そうした「背景」を理解することで、初めてジェイムズという一人の作家の文学を嗜む「鑑賞眼」が培われる。この意味では「趣味」や「感性」も、それらを培養する土壌の形成という「知的労働」の痕跡を留めている点で、まぎれもない「文化資本」の一種である。
 また、「趣味」は貴族的な「贅沢趣味」と庶民的な「必要趣味」に大別することができる。前者は「オペラを劇場で愉しむ」、「美術館で絵画の名品を観る」、「高級レストランで最高のディナーを味わう」などの行為に代表される。後者は「仕事上の必要性から営業スキルアップの本を義務的に読む」、「空腹を満たすためにスーパーで安上がりで大容量の食品を買う」などの行為に典型化されるような、日常生活において必要性が高い行為を指している。こうした分類から可視化するのは、「必要性」への度合いが低ければ低い行為ほど、それだけ文化的なlégitimité(正統性)が高く、行為者の実質的な文化資本を反映した「美的性向」によって選択されている可能性が高いという点である。

【objectivé(客体化された)文化資本】

 これはbiens culturels(文化的財)を指している。所有している美術品や書物、家具などの質・量によってその所有者の「文化資本」の多寡を推定することができる。つまり、客体化された「物」として眼に見える形式で所有されるまでには、まず文化資本自体が個人に「身体化」されていなければならない。質の良い文化的財は、ただそこにあるだけで「全般化されたアロー効果」(ブルデュー)を発揮する。「アロー効果」とは、アメリカの計量経済学者ケネス・ジョゼフ・アローの言葉で、ブルデューはこれを以下のように解釈している。「絵画、記念物、機械、製作物などの文化的財の全体が、そして特に、生まれた家庭の環境を構成している全ての文化的財が、ただそこに存在するだけで教育的効果を及ぼすという事実」。

【institutionnalisé(制度化された)文化資本】

 これはincorporé(身体化された)文化資本と、objectivé(客体化された)文化資本の「折衷」的な形態である。代表的なのはtitre scolaire(学歴資格)である。志望校に合格した者は、受験生時代に培った文化貸本を「学歴資格」という「制度化された文化資本」にまで格上げすることが可能だが、不合格者の場合、文化資本は望まれた肩書きへの転換を遂げられることなく、まだ何の制度的承認も得られていない、ただの文化資本としての状態に放置される。これこそ、ブルデューのいう「制度化する権力のパフォーマティブ(遂行的)な魔術」である。
 逆に言えば、文化資本は常に既に何らかの「制度的な形式」への昇華を望んでいる。例えば様々な職業資格や免許証なども、「試験」によって獲得した文化資本の質・量を認証するための制度である。ただし、ヘルマン・ヘッセのように学校を辞めて文学的な活動を開始した作家の場合、この時の「挫折」の体験(制度的に認められない「不可視の領域」)は芸術的に「回収」されることになる(例えば『知と愛』、『車輪の下』)。この「形式」こそが、「文学」である。ブルデュー社会学では、これは「文化資本のméconnaissance(誤認、見過ごし)」と表現されるが、実はこの失敗のメカニズムにこそ、ブルデュー社会学が「芸術の発生」の場へと接続していく点を見出せるだろう。制度への参入の失敗、頓挫という人生上の「危機」体験は、実は逆説的にも「芸術」への偉大な道を開く。

【文化資本の獲得と相続】

 クラシックな趣味が当たり前のように浸透している文化資本の高い家庭に育った子供は、それだけ比較的容易に文化資本の「身体化」を行うようになる。獲得された文化資本は、やがて不可視の「性向」として、子供が成長した際の「趣味形成」を決定付ける。彼らは「遺産相続者」と呼ばれ、子孫へ文化資本を更に「再生産」していく。たとえ両親への反撥から、全く異なる趣味を獲得しようとしても、「性向」へと身体化している上流階級特有の認知構造まで容易に変えることなどできない。文化資本の相続とは、いわば父母から分泌される「文化的樹液」(石井洋二郎)である。生物学的遺伝ではなく、こうした家庭環境によって得られる資本をブルデュー研究者の石井氏は「環境資本」と定義する。日本では、特に親の学歴に近接した学歴を子が「再生産」する構造が顕著である。

【「文化貴族」と「文化庶民」】

 「文化貴族」は『ディスタンクシオンⅠ』で以下のように定義される。

…文化貴族の肩書きの持ち主は、ちょうど本物の貴族の称号の持ち主についてはその存在が専らある血脈、土地、人種、過去、祖国、伝統などへの忠実さによって規定され、ある行為とか技量、機能などには帰せられることがないのと同様に、ただ現に自分があるところのものでありさえすれば良い。というのも、彼ら文化貴族の慣習行動は全て、それらが達成されるための源泉となる本質を肯定し恒久化するものであるために、行為者当人が持つのと同じだけの価値をそのまま持つからである。(『ディスタンクシオンⅠ』p38)


 この説明からも判るように、「文化貴族」は生まれた時点で既に「超越的な本質」を身体化するために必要な「環境資本」に属している。換言すれば、卓越性の標識を一種の遺伝子情報として体内に宿した存在であり、その意味では「貴族」という言葉は譬喩以上の深い意味合いを持っている。彼らは生まれたときから肩書きを自動的に保証される貴族階級と同様に、自分が「貴族であること」をいちいち証明してみせる必要がない。その存在自体が「貴族としての本質」の発現だからであり、全ての振る舞いが貴族的だからである。とはいえ、ブルデューは『国家貴族』においては、「ノブレス・オブリーシュ」を実践しない貴族は「貴族でなくなる」ことを、ノルベルト・エリアスを引用しつつ述べてもいる点にも留意しておくべきだろう。いずれにしても、生まれながらの貴族は、庶民の身振りを真似ても貴族であることに変わりはないが、庶民は貴族の真似をしても、所詮スノッブな庶民にしかなり得ないことに変わりはない。
 ブルデューの「文化貴族」の概念の対立項として、石井洋二郎氏は『差異と欲望』の中で「文化庶民」という概念を提示している。その決定的な差異は、以下のように「食事の取り方」において際立つ。

「〈味覚〉のアナロジーによる文化貴族の諸特徴」

⑴量より質
⑵実質より形式
⑶材料より調理法
⑷栄養より盛りつけ
⑸重くて脂っこい食べ物より軽くてあっさりした料理
⑹気取らない無造作な食べ方より、マナーを重視する礼儀正しい食べ方

 この六つの特徴は、なにも「食事」に限定されたものではなく、例えば「読書のスタイル」や「芸術の審美眼」などにおいても共通した性向である。性向が最も顕著に特徴付けられるのが、いわば食事におけるマナー、その獲得された「味覚のセンス」なのだ。つまり、生活上の必要性から最も距離を置き、「貴族的に振る舞うこと常に意識する機会」、「ある〈界〉内において劣等感を感じる機会」、「生活費について意識する機会」が少なければ少ないほど、その行為者はより「ゆとり」があり、本質的に貴族的である(真の貴族はノブレス・オブリーシュを自然に身体化しているため、背伸びして貴族的なスノビズムを演じる必要もない)。そして、何よりもこうした文化貴族が発揮する優雅なdistinctionは、「無意識的」なものとして自然に行われるものである。あらゆる分野において「貴族特有の〈ゆとり〉」を持つことが「文化貴族」の身振りと深く結び付いている点について、ブルデューは『ディスタンクシオンⅡ』で以下のようの述べている。

生活様式のレベル、そして更には「生活の様式化」のレベルにおける最も重要な差異は、世界に対する、すなわちその物質的拘束と時間的切迫性に対する客観的・主観的距離がどれくらいものであるかによって決まってくる。世界と他者に対する距離をとった、超然たる、屈託のない性向、内面化された客観性に過ぎないがゆえに主観的とはほとんど呼ぶことのできない性向は、その一面である美的性向がそうであるように、切迫性から解放された生活条件の中でしか形成されない。(『ディスタンクシオンⅡ』p211)


 このように、「文化的階級構造」は現代日本社会においても歴然たる事実として存在している。身分の差異の構造は、「文化獲得様式の差異」の内に端的に露呈されているのだ。ブルデュー社会学がなぜ日常において最も卑近な「趣味」分析から出発するのかの理由が、まさにここにある。
 また、文化貴族としてのステータスも、親から子へとそのcapital statutaire(身分資本)を担保として再生産されていく。エリートの家庭で育った子供は、「自分にとって親しみ深いモデルの内に実現された分か」を、初めから一挙に与えられているのである。

Interventions de Pierre Bourdieu avec Jacques Derrida + Jacques Derrida à propos de Pierre Bourdieu
Interventions de Pierre Bourdieu avec Jacques Derrida + Jacques Derrida à propos de Pierre Bourdieu

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