プルデュー社会学基礎おさらい上

【disposition(性向)】


 「性向」とは、行為者を規定している社会構造(職業、地位、身分、学歴、威信など)が内在化・身体化されて主観的な心的構造となったものであり、反復される個々の慣習行動を規定している潜在的なベクトル、ある事態を前にしてほとんど「無意識」の内に機能する諸々の基本的な志向性として、定義されるものである。「性向」は、大きく生活態度に関わる「倫理的性向」と、趣味判断に関わる「美的性向」に大別することができる。前者の集合はethos(エートス)と呼ばれ、後者の集合はgoût(趣味)と呼ばれる。

「美的性向」の集合=goût(趣味)


 「美的性向」によって選択される文化的慣習行動は全て、それが「差し迫った必要性から遠く隔たっている」という事実によって序列化/階層化される。必要性への距離が大きければ大きいほど、つまり「脱利害的」であればあるほど、その慣習行動のlégitimité(正統性)は大きくなる。逆に、日常的に必要不可欠で止むを得ず取られた慣習行動ほど、文化的な次元での正統性は小さいものになる。ブルデューが『国家貴族』で述べたように、真の教育は「社会で何の役にも立たない」ことにこそ最大のdistinctionを与えるのである。例えば、「オペラを劇場で鑑賞する」、「美術館で絵画の実物を観る」行為は社会的には何の実益性もない単なる「趣味」だとみなされるかもしれないが、実はこうした分野においてこそ「文化貴族」は最大の時間的/経済的投資を行うものである。

「倫理的性向」の集合=ethos(エートス)

 一つ一つの性向は、行為者の中で全体としてひとつのシステムを構成して緊密に「連携」し合い、相互補完的な関係にある。「美的性向」は全体として「趣味」判断を構成し、「倫理的性向」は集合としての「エートス」を形成する。また、様々な身のこなし、身振りの性向の全体は特にhexis corporelle(身体的ヘクシス)とも表現される。ある作家が愛用するレトリックとか、頻繁に採用されるテマティックなどは、言語的性向の集合として「言語的ヘクシス」と呼ばれる。

hexis corporelle(身体的ヘクシス)

無意識的、慣習的に行う身のこなし。例えば、ジムに行ったりサイクリングしたりするのは、身体的ヘクシスの洗練のため、すなわち体力・スタイル・身のこなし、そして何よりそれらを向上させる「モチベーション」を維持させる意味合いも含まれている。

disposition rétive(反骨性向)

 ブルデューは『自己分析』の中で、自らのハビトゥスを「土着のハビトゥス」と規定した上で、以下のようにその生まれもった「性向」を分析している。「私は少しずつ、特に他者の眼差しを通して、自分のハビトゥスの諸特性を発見した。男の誇りと見栄にこだわる傾向、いつも半分は御芝居だが明らかな喧嘩好き、些細なことで憤慨する傾向、今考えると、これらは私の出身地方の文化的特性に結び付いているように思われる。そのことによりよく気がつき理解するようになったのは、例えばアイルランド人のような、文化的あるいは言語的少数集団の気質について書かれたものとのアナロジーによってである」(p141)。本論でブルデューが自分の持つ「気質」として何度か用いている言葉が、disposition rétive(反骨性向)であるのも、こうした些細なことですぐに怒ってしまう喧嘩好きな村人気質――「土着のハビトゥス」から説明されている。この概念は『自己分析』で展開されるhabitus clivé/cleft habitus(分裂ハビトゥス)の概念とも深く相関している。

「スコラ的性向」

 どのような〈界〉にもスコラ的な貴族主義を身体化した行為者が存在し、「支配の正当化原理」によって暗黙裏に支配している。彼らは揶揄的にセザロパピスム(皇帝教皇主義)などとも呼ばれる。ブルデューの「ハビトゥス」の概念は〈界〉内を巣食うスコラ的性向ないしスコラ的エスノセントリズムの魔を暴き出すために構想されたものである。
 スコラ的性向は行為者の認知構造の無意識にまで浸透し、彼、彼女の行為を全て根源的に支配しているものであり、この枠組みから逸脱したり違反すると排除、追放する仕組みが〈界〉内には存在する。しかし、逸脱もスコラ的性向はその理論によって吸収するものであり、厳密な意味でこの〈界〉の外に出ることは不可能である。ブルデューのいう「身体」はこの〈界〉から生成する。換言すれば、我々のものの考え、行動、趣味、感情の諸様態も含めて全ては〈界〉内の構造的原理の所産であり、この限りで構造を身体化した存在としての行為者の概念が浮上する。

スコラ的性向――これは、全てのスコラ的世界が要求する入〈界〉金であり、そこで卓越するためにうってつけのオクシモロン(同着語法)で、私が「エピステーメー的ドクサ」と呼ぶものを構成している。ドクサとは、明示的・意識的なドグマの形で現表される必要さえない根本的な信念の集合だが、パラドクサルなことに、ドクサほどドグマ的なものはない。スコレーが育む「自由」かつ「純粋」な性向は(能動的あるいは受動的な)無知を伴っている。(『パスカル的省察』p32)


 スコラ的見方を身体化し、権威的に振る舞う主知主義的な知識人という姿がここで浮かび上がってくる。それは隠された形で行使される無意識に対する権力であり、界に存在する行為者はそれに自覚的であることすらできない。それは既に制度として、ルールとして、界内特有の規則として出現しており、その現前している法の中に反映されているからである。

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