ハンビョンチョル上

今日、感情を刺激する話題は溢れんばかりだ。たくさんの学問は、感情について研究している。人間はいきなり、「理性的な動物」ではなくなり、その代わりに、センチメンタルな生き物になった。しかし、感情へのこの突然の興味関心はどこから来たのかを問おうとする人はほとんどいない。科学における感情の研究者たちは自身の活動においてそれを探究しようとしていないことは明らかである。したがって、彼らはこの感情の「ブーム」が何よりも経済的なプロセスから由来することを言明できずにいる。さらに最悪なことに、さまざまな概念が混同されている。いろんな研究者にとって、「感情〔emotion〕」、「感覚〔feeling〕」と「情動〔affect〕」は互換できるものなっているようだ。

しかし感覚と感情は同じものではない。たとえば、私たちが言語に関する感覚、運動に関する感覚、他人に対する感覚を口にする時に――「言語感覚〔Sprachgefühl〕」、「ボールに対するバランス感覚〔Ballgefühl〕」、「共感〔Mitgefühl〕」などの言葉を使う。人は「言語に対する感覚」や「他人に対する感覚」を持つことがありえても、「言語に対する感情」や「共−感情」を経験することはないだろう。「言語的情動」や「共−情動」なども存在しない。悲痛も、感覚の一つである。私たちは「悲痛の情動」や「悲痛の感情」などを言わない。情動〔affect〕と感情〔emotion〕は厳密には主観的なものを意味するが、感覚〔feeling〕は客観的なものを指す。

感覚は、詳しく描写することができる。なぜなら感覚は、語りの幅と奥行きを持っているからだ。しかし情動と感情は、どれも論理を認めない。現代の劇場で見られる感覚の危機は、「論理的説明」の危機を表している。今日、感覚の語りの劇場は、騒がしい「情動の劇場」と化している。なぜなら、語りは不在となり、情動の塊がステージに上がっている。感覚と対照的に、情動は奥行きをもたない。情動はみずからを吐き出すために、みずからを下ろすために、直線的道を進む。デジタルメディアも、情動のメディアである。デジタルにおけるコミュニケーションは、情動の「瞬時」の吐き出しをうながす――カタルシスである。その瞬時性にもとづき、デジタルコミュニケーションは感覚を伝達するよりも情動を伝播する。炎上は、情動の流れであり、デジタルコミュニケーションの典型的な現象だ。

感覚は、陳述的なものである。たとえば、「私は〜に関する感覚を持っている」と言えるのだが、反対に「私は〜に関する情動(もしくは感情)を持っている」とは言えない。感情は、陳述的なものではなく、行動的なものである。それが、活動や行動につながる。その上、感情は意図と目的を持っている。一方で感覚は、意図的な構造はない。「不安」という感覚はしばしば具体的な対象物を持たない。それこそが意図的な構造を持つ「恐怖」と区別されるところである。また、言語への感覚も、意図的なものではない。その無意図性は、「言語的表現」と見分けるところだ。なぜならそれは「表現(ex-press)=外へと押し出す」ことであり、「感情を訴える(e-motive)=外へと動かす」ことである。宇宙の調和の感覚――世界における包括的な感覚――つまり、具体的な何かもしくは誰かを意識しないことは、可能なことである。その特徴的な感覚の次元に、感情も情動もたどり着けない。感情と情動は、主体性の表現である。

感覚はさらに、感情とは異なった瞬時性を持っている。感覚は、持続を認める。感情は明らかに感覚よりもさらに瞬時的で短命なのである。同様に、情動もまた一つの瞬間に限られている。感覚と対照的に、感情は一つの状態を表さない。感情は立ち止まったりしない。「穏やかの感情」は存在しない。「穏やかな感覚」なら理解できる。反対に、「感情の状態」という表現は矛盾の輪にはまっている。感情は活動的で、状況的で、そして行動的である。感情資本主義はまさにこれらの性質を搾取する。それと比べ、感覚が容易には搾取されないのは、それが行動性を持たないからである。そして最後に、情動は噴出するほど行動的なものではない。情動は、行動的な方向性を欠けているのだ。

雰囲気――もしくはムード――感覚とも感情とも異なるもの。それらは、感覚よりもさらに多くの客観性を持っている。一つの空間があれば、作られた雰囲気を客観的にとどめることができる。雰囲気とムードは、それ自身がそういうものであることを表現する。それと比べて、感情はそれ自身がそういうものであることからの逸脱に由来する。たとえば、ある場所が友好的な雰囲気を醸し出しているとする。そのような雰囲気は完全に客観的なものであるが、友好的な感情や友好的な情動は存在しない。雰囲気・ムードは意図的なものでも行動的なものでもない。それは自分を探し出すためのものである。それは、存在の状態、もしくは精神の状態である。雰囲気は静止的なもので、位置的なものである――一方で感情は活動的で行動的なものなのだ。このような性質が状態を区別する。対照的に、「どこへ」――一つの方向性は――感情を定義する。逆に感覚は、「なぜ」のものである。

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