盲目と洞察(ポール・ド・マン)下

【表象と音楽】

 何故、そもそも現代思想において「表象」や「起源」といった概念が重要なテーマとなっているのだろうか?
 一つ言えるのは、18世紀に活躍したルソーがコンディヤックを評価して、「森の中の自然人」という原始的なトポスにおける人間の「怖れ」の感情にこそ「言語」の「起源」があるのではないか、と考えたからである。ルソーはこの点を以下のように述べている――「生存の必要に迫られて人間は互いに避け合わざるをえなくなるが、情念が彼らを近付ける。最初の言葉は飢えや渇きによるものではなく、愛や憎しみ、憐れみや怒りから生じたのである」(p230)。また、18世紀はグランド・ツアーやイギリスの風景式庭園の成立などに代表されるように、自然主義的な場に美学的な「崇高」が見出された時代でもあった。ルソーも自然生活を評価しており、ここに「起源」を巡る一連の問いの一つの思想史的背景の一端を読み取ることができる。また、18世紀はとりわけ、バロック時代に誕生したオペラ、それに続く大衆演劇の興隆といった文化的背景も相俟って、表象〔representation(再現=上演)〕の概念が注目される要素は出揃っていた。
 ド・マンはデリダのルソー論を読解しつつ、「表象」の概念についての考察を展開している。表象とは、模倣(ミメーシス)されたものの存在論的身分が不問に付されているということであり、それは現前させられるものの「不在」を含意している。18世紀の美学理論における定義に従えば、表象は、「たまたまその時そこには存在しないが、別の場所で、別の時に、ないしは別の意識様式で揺るぎなく存在するという何ものかが呼び戻される」(p215)という、記憶術のための記号のような機能である。表象観念のモデルは絵画であり、「あたかも視られた対象が現前するかのように当の対象を復元し、その現前の継続を確証する」(p215)というものである。判り易く言えば、表象とはいわば「記号」を媒介としたミメーシスであり、それは例えば音楽の演奏を例にとっても説明可能である。作曲家の楽譜をオリジナルな原典としてみなした場合、それが様々な楽団の手によって複数回演奏される行為は、機能的な意味で「ミメーシス」であって、まさにrepresentation(再現=上演)、すなわち「表象」である。この時、作曲家の楽譜は「記号」であり、画家がリンゴの絵を描く場合でも、実在する対象はタブローの上でミメーシスを経て、記号として再生産されている。このように、ド・マンは表象概念を、「模倣可能性を、現前性の普遍的証明として確認する条件」(p217)として定義している。
 更に、ド・マンは「記号」について、その感覚的実質が欠けているのは、意味それ自体が空虚だからであると述べている。「記号は、それが意味する空虚の代替物としてそれ自身の感覚的豊かさを与えるべきものなのではない」(p220)。そしてデリダの解釈とは反対に、ド・マンはルソーが「空虚としての意味」に向かっていたと述べている。ここから、彼はルソーにおける音楽論について以下のように解釈している。

音楽がたんなる構造となるのは、その核心が空虚だからであり、それがあらゆる現前の否定を「意味する」からである。したがって、音楽の構造が従う原理は「充溢した」記号に基づく構造のそれとはまったく異なった原理なのであり、そこでは記号が感覚を指示しようと意識の状態を指示しようと変わりはない。音楽的記号はいかなる実質をも根拠としないため、けっして実在の保証を持ち得ない。(p222)


 ルソーは、「音楽の領域は時間であり、絵画の領域は空間である」とした。音楽は、常に「一瞬」の連続として存在しているが、そうであるが故に「意味」に向かう志向の絶えざる挫折であることを余儀なくされる。音楽は「一瞬」ではなく時間的な幅を持ったメロディーであり、連続性である。「音楽とは、瞬間のなかの非同時性のパターンが通時的なかたちをとったものである」(p224)。ルソーは音楽と絵画の差異について以下のように述べていた。

画家が眼に見えない事物を表すことはできないのに対して、音楽家の主な特権のひとつは、聞こえないものを描き出すことができるということである。音楽という動きによってのみ働く芸術は、休止そのもののイメージを伝達するという驚くべき業を成し遂げることができる。眠りや夜の静寂、孤独、そして沈黙さえも、音楽の描き出す絵の中に入って来るのである。(p224)


 ここでルソーは、音楽は「沈黙」を指示し得るという印象的な言葉を残している。この根底的にパラドキシカルな定式は、ルソーの他のテクスト、「絵画はあらゆる光と色の不在を指示する」や「言語は意味の不在を指示する」にも適用されている、と・マンは読解する。このようなルソー特有の、ある面で非常にブランショのナラティブに近接した文体は『新エロイーズ』の以下のテクストにも見出せるという。「自力でいます御存在(神)は別としまして、存在しないもの以外に美しいものは何一つありません、それ程までに人間界は虚しいのです」。(p225)

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