ハンビョンチョル下-エヴァイルーズ-

エヴァ・イルーズ(Eva Illouz)は『冷たい親密性――感情資本主義の成り立ち』において、資本主義の状況下でなぜ感覚はブームになっているのかという質問に、具体的な答えを出していない。その上、この本は感覚と感情において、いかなる概念的な区別もしなかったし、資本主義がその始まりの段階において感覚の問題を位置付けすることにも役立たない。《ウェーバーのプロテスタントの倫理学は根本的に経済的な活動においての感情の役割について主張している。なぜならそれは資本家や起業家の狂気の活動の中心にある不思議な神性によって引き起こされた不安だからである》。感情の観点から不安を理解するのは間違いである。不安は、感覚だ。結果として引き起こされた瞬時性は、情動とは相容れないことを証明する。情動は、絶え間なくつづく状態ではない。かくして、感覚を定義づける持続性を欠けている。それは、狂気の起業家的行動を引き起こすような不安の持続的な「感覚」である。しかしウェーバーが分析しているのは、感情的な論理よりも、理性的な論理に従う蓄積の禁欲的資本主義である。そのため、この種の資本主義は、消費者の感情から利益を得るような消費型資本主義には含まれない。その上、消費型資本主義は、意味と感情の売買と消費を通じて回るのだ。これは使用価値ではなく、消費経済の中で本質的な役割を果たす感情的で崇拝的な価値である。同じようにイルーズは、資本主義が非物質的な生産に移行した時だけ感情は価値を持ち始めるということを説明できていない。感情が生産手段の一つになるのは、私たちの時代においてのみである。

イルーズはまた、デュルケームの社会学の核心である「連帯」は「感情の束」を表していると主張する。その「感情の束」は、社会的行為者を彼らが居住する社会の中心にある象徴物に縛りつける。彼女はこのように宣言する――《彼らに知られずに、現代化における正統的な社会学的説明は、感情のれっきとした理論でなくても、少なくともそれとの多くの関連を含んでいる。不安、愛、競争力、無関心、罪悪感は、現代に至る分裂における多くの歴史的で社会学的な説明のなかで現われる》。

感情のさまざまな社会学的理論へのすべての関連性は、今日の感情のブームをまったく説明できていない。これは、イルーズが、感覚、感情と情動の区別を放棄したことに責任がある。結局、「無関心」と「罪悪感」は情動でもなければ感情でもない。罪悪感は感覚としてしか意味を成しえない。

イルーズは、私たちの時代におけるこの感情のブームは根源的にネオリベラリズムに由来することを指摘できなかった。ネオリベラルな体制は、生産性と成果を高めるために、感情を資源として利用する。生産において一定のレベルから始まり、合理性は――規律社会の媒介としての合理性は――限界を迎える。以降、それは束縛となり、制御となる。突然、それが頑固で、融通の効かないものとなった。この点において、自由の感覚を伴う「感情性」が代わりに登場する。結局、自由になるというのは、感情を好きなようにさせるということだ。感情資本主義は、自由を頼りにし、とめどのない主体性の表現としての感情を歓迎する。ネオリベラリズムにおける権力の技術は、その同様の主体性を無慈悲に搾取する。

合理性は、客観性、普遍性と不変によって定義される。かくして合理性は、主体的で、状況的で、かつ移ろいやすい感情性の対極にある。状況が変われば、何よりも感情が先に浮かび上がってくる――そして認識は切り替わる。合理性は、持続性、一貫性と規則性をもたらし、安定性のある状態を好む。生産性を高めるためにますます連続性を解体し、次第に不安定を抱え始めるネオリベラリズム経済は、この先にある生産的過程の感情化を促す。加速されたコミュニケーションもその感情化に手を貸す。合理性は、感情性と比べると遅く、まるで速度を持たないようだ。そのためこの加速の圧力は、今、感情の独裁を招いている。

消費型の資本主義は、欲望と需要を煽るために感情をもとめる。感情的な設計は、消費を最大化するために、感情を練り上げ、そのパターンを形作る。前者は終焉なしには消費されないが、後者はそれが可能である。諸感情は、使用価値の範囲を超えた次元を前提とする。その際、それらの感情は、新たなる、限界を知らない消費の域を開く。

規律社会において「機能」を求められるところに、諸感情においては騒乱がそれに当てはまる。したがって、私たちがなすあらゆる努力はそれらを排除することである。規律社会における「一致協力の整形」は、輪郭のないたくさんの生地を、感覚のない機械に放り込もうとすることである。その機械は、あらゆる感情と感覚が麻痺したときに最も機能する。

今日の感情のブームは、コミュニケーションを交わすことが、今までにない重要な役割を果たす新たな非物質的な生産様式に由来する。その生産様式は、認知的な能力だけではなく、感情的な能力も必要とする。このような状況において、個人はまさにその生産過程に配置されている。ダイムラー・クライスラーはこのように公式に宣言した。従業員の「行動と社会的・感情的スキルが仕事の評価においてますます重要な役割を果たすようになるにつれ…それは…達成された目標と成果のクォリティに基づいて評価される…」。今、社会性やコミュニケーション、さらに個人的な行為さえも搾取されている。諸感情は、一体化したコミュニケーションを最適化する「そのままの素材」を提供する。ヒューレット・パッカードが述べたように――「HPという会社は、コミュニケーションの精神、相互関係性の強い精神を吐息できる場所、人々が会話できる場所、他人へ向かうことのできる場所です。これは、愛情深いつながりです」。

企業の経営層において、パラダイムシフトが起きている。感情は、ますます重要性が認められるようになっている。合理的経営は、情感的経営に取って代わられている。経営者たちは今、合理的行動の信念を捨てている。彼らはますます、モチベーションコーチに似てきた。モチベーションは、感情とつながっている。ポジティブな感情は、モチベーションを成長させる養分を提供してくれる。

この先にある確かな行動を呼び起こす限り、感情は行動的である。感情は元来、エネルギッシュで――五感的で、官能的でさえある――根拠を、行動に提供する。感情は、衝動が植え付けられている大脳辺縁系に操られ、完全な認識を逃すような行為の前反省的、半意識的、身体本能的な領域を作り上げる。ネオリベラル的な精神政治〔サイコポリティックス〕は、このような前反省的な領域において行為に影響を与えるために感情を取り入れる。感情を通じて、深く内側にあるものを切り出し、手を加える。このようにして、感情は精神政治的に人を操るための効率的な媒介として存在できるのである。

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