女性のハイカルチャー志向(つづき)

「客観化のメカニズムを再客観化する思考」の必要性

 ここで注意しておきたいのは、片岡氏が「文化資本の再生産」の担い手を、徹頭徹尾「女性」に設定しているという、ある種の強いバイアスが働いた見方である。常識的に考えて、母親の文化資本が「息子」に相続されるということはよく見受けられるし(例えばマルセル・プルーストは文化資本の点で衛生医学の権威である父よりも教養豊かな母親から多大な影響を受けたことが知られている)、一家における経済資本の担い手を男性のみに定める見方は、封建社会の父権的構造を再踏襲しているようで、どこか説得力に欠ける点は否めない。確かに母親の持つ文化資本の役割が大きいことは間違いないが、むしろブルデューが重視していたのはエリート校で「知識」ではなく、「勉強する性向」そのものを身体化した「学校貴族」たちがその後「聖別」されたという優越的な意識を維持しつつ、文化資本を増大させカリスマ化していくという、ある種のイニシエーションの過程であった。性差は無論重要なテーマであるが、文化資本は本来性差に関与せず教育によって獲得されるものであり、家庭内の「相続文化資本」のみが決定的なファクターとなるわけではないだろう。
 文化資本の相続を女性に帰するという恣意的な意味賦与は、女性の役割を家事に押しつけ、男性は外で働くことを「自然」とみなす保守的な父権的家族集団への退行と解釈することも飛躍した批判とは言えないだろう。統計結果を重視し、そこから何か「社会的法則」を導出しようとする意図が、逆に読者に統計を再度読み返して著者の結論に疑義を呈することを促すような事態になってしまっている。文化の創出を担う芸術家たちの活動を、片岡氏の言うように「女性向きの女らしい活動」とする位置付けは、例えばサルトルの書いた小説は本質的に「女性読者」を想定しているとか、ボルヘスを愛読するのは会社員の男性ではなく専業主婦であるとか、挙げ句の果てにはフランシス・ベーコンの芸術は「芸術文化資本」と相関するものである以上、「女性」が彼女の娘にその知識を伝えていくのだ――などという極端な帰結を導いてしまいかねない。
 上記のような一方通行的な帰結に片岡氏が至ったのは、おそらく「文化的オムニボア」を日本社会の主たる構成員であると策定しているからである。あるいは、実のところ男性の学歴エリートが中心となっている大学〈界〉の中で教職者として生きることの過酷さを、論文の中で反転させ、あらかじめ用意した結論に沿った統計を事後的に配置した可能性も薄らと感じられる。つまり文化貴族は実は男性に多いという社会的現実への対抗戦略が、本論の一見客観的なデータに基づいた論理的思弁から透けて見えてくるのであり、これを一言で言えば、まさに著者自身の「男性学歴エリート=文化貴族」という、ブルデューが繰り返し述べた再生産構造のメカニズムに対する女性の文化貴族の葛藤の産物ではないか、と考えることもまた可能なのである。
 私は以前から、ブルデューを読解しそこから新たに論を成す人間には彼ないし彼女が持つ「コンプレックス」が顕著に見られるのではないか――しかも彼らはブルデュー論を展開する過程で、それをブルデュー的なキータームを用いて巧妙に正当化、理論化しつつ隠蔽するのではないか――と感じてきた。いわば、この社会学者を読む過程で感じた「苛立ち」や、「傷付けられる感覚」が、逆に論述テクストの呈を纏って「抑圧されたものの回帰」(フロイト)として再現前しているのではないか、という命題である。
 現代思想からの注目が高まっているベルギー出身の文芸批評家ポール・ド・マンがいみじくも述べたように、厳格な論文形式のテクストであれ、修辞的構造が言語の本性である以上、「叙事詩」と本質的に変わることはない。片岡氏の書いた本論を「小説」として読み直した場合、主人公のヒロインは「母親の文化資本」を神聖視し、逆にクラスメイトの優等生の男の子や父親の「芸術的素養の欠損」にある種の軽蔑を抱いている。しかしこの主人公も学歴エリートであるので、いわば興味の対象は世俗化した「会社員のお兄さん」たちにも向かっていく。彼らの文化資本が世俗化してしまっているのを知って、「文化貴族」に志向性を見出している自分はいよいよ安心するという極めて独特な心理に貫かれている。こうしたヒロインの「洞察」とは逆に、我々読者は彼女の「盲目」になっている点――すなわち彼女が何故これほど「女性こそが文化の担い手として相応しい」と再三主張しなければならなかったかを、冷静に考えてみても良いだろう。それは結局、皮肉なことに男性学歴エリートがやはり正真正銘の文化貴族になっているという現実の中(片岡氏は大学教授なので、大学〈界〉を意味する)にいるからこそ、彼らの威信を「大衆化」された社会集団を仮設することで横滑り的に「無化」し、逆に威信が弱い女性としての立場を正当化するというものである。まさに「女の子を虐めた賢い男の子を批判するために、その虐められた女の子がいかに男の子より優れているかを強調する」タイプの情動性である。あるいは、女性の文化相続に価値の比重を移転させることで、女性読者たちに対して「文化資本を高める」ようなインセンティブの向上を期待しているとも考えられる。
 このような短絡的なスコラ的性向に基づいた単線的な結論付けは、どれ程統計資料を駆使してもやはり最初から準備されているであろう歪んだ自説の補強をしているに過ぎない。つまり本論は統計調査の客観的科学性に比して著者の結論が一次元的であると同時に説得的ではなく、あくまでもある時点における、特定の社会集団を仮設した上での「幻想」(ブルデューはこれを「凡庸なホモ・アカデミクス」、あるいは「スコラ的幻想」などと『パスカル的省察』で批判する)であることが浮かび上がるのである。
 片岡氏は結局、以下のように文化資本をジェンダー化して把捉している。その結果、「文化資本」の内実が何一つ説明されないまま、いわば全ての文化の担い手、享受者は徹頭徹尾「女性」のみとなる。

このように日本では、文化資本はジェンダー化し、女らしさの象徴資本となっている。また男性にとっては、芸術に関わることは女らしいことだと理解される危険性があるので、それを避けるために大衆文化的となる。(p128)


 とはいえ、片岡氏が締めくくりで述べる以下の「ジェンダー秩序の再生産」という視座には、やはり一定の参照価値があると考えられる。

このように文化的実践がジェンダー化する背景には、文化を評価するハビトゥス(近く認識図式)がジェンダー化して理解されている事実がある。ジェンダー・ハビトゥスや女らしさの文化的理解は、我々の実践や行為を規定している。それとともに、文化資本がジェンダー化してジェンダー資本となり、女性を通じた文化的再生産メカニズムを作り出している。このように文化活動の実践レベルでのジェンダー・バイアスは、ハビトゥス・レベルでのジェンダー化に支えられているだけでなく、構造レベルでは、「階層再生産と文化的再生産のジェンダー構造」として分業化されることで維持されている。より広い観点に立てば、文化という領域を通じて、ジェンダー秩序が維持され、構築され、再生産されている。(p128~129)


 ブルデュー社会学を基礎にして、ハビトゥスの概念に「ジェンダー・ハビトゥス」という視点を導入している点はやはり依然重要である。問題なのは「女性の文化再生産の役割」と、「男性の大衆文化への親和性」を強調し過ぎるあまり、ラディカル・フェミニズムに近いヒステリックな側面が否応なく感じられてしまう点ではないだろうか。ブルデューのように、自身の立場をも批判的に客観化する所作――いわゆる「客観化のメカニズムを再客観化する思考」――は、本論には皆無である。

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