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自分を好いてくれる人が気持ち悪い

なんとも過激なタイトルをつけてしまって
冒頭から反感を買いそうだな、と思いながら
書き始めているのですが・・

今日は、個人的に感じる
「自己肯定感の低さがもたらす弊害」
についてずっと思ってきたことを書いてみようと思う。

「自己肯定感」という言葉は最近
一種ブームのようになっていて
もはや言葉に重みを感じられない状態にあるようにも思える。

「自己肯定感を高める方法」なんて本がたくさんある一方
(そんな本で高められるような簡単なものなら困っていない)、
「自己肯定感は高くなくていい」みたいな意見も出てきたりして
問題視されすぎた結果、飽和状態、みたいな。

私の感覚では
世の中的に言う「自己肯定感」は
要は「自分に自信を持てること」
みたいに解釈されていることが多いと思う。
し、別に間違いじゃない。

ただ、
私の思う「自己肯定感」はちょっとニュアンスが違っている。

私にとって自己肯定感とは
「全く取り繕わないありのままの自分でいても、
自分を愛してくれる人が必ずどこかにはいる」と
疑いもなく、信じられることだ。

「なにがちがうん?」

そう思った方、
いったん私自身で例えてみるので聞いてほしい。

私の場合、
前者的な意味合いでの「自己肯定感」は
わりかしある方だと思う。

まあまあ頭はいいほうだし
見る側に苦痛がない程度には容姿も整っているし
料理もできるし、歌もそこそこ。

「得意なことはなんですか?」と聞かれて
答えに窮するようなことはあまりない。

こんなふうに言っていると
「自己肯定感高いですね」
「自分に自信がありますね」
と言われそうなものだが、
私の中では
それとこれとはちょっと(いや、だいぶ)、話がちがう

現に私は
これだけおおっぴらに、得意なことを自慢できる図太さを持ちつつ
それでもなお
自分は自己肯定感が低い、と思っている。

じゃあお前の言う「自己肯定感が低い」はなんなんだ!
自慢ばっかじゃねーか!
と思ったみなさん

私は自分の
「性格」「人柄」「人格」という言葉で表されるような
要は『内面』に
まったくと言っていいほど肯定的な感情を抱いたことがない。

先述したような長所は
言ってしまえば、ただのスペック、外付けハードディスクのようなもので
私にとっては
「今日のファッション素敵だね」
「あなたの髪型とメイク、かわいいわね」
と言ってもらっているのと同じようなもの。

もちろん、外付けハードディスクだって
褒められたら嬉しいし
自信を持てないようなものよりは、自慢できるものであったほうが幸せなのだろうとは、思う。


ただ、「あなたのいいところはどこですか?」
と聞かれたら
私は答えが見つからない。

”いいところ”とか
”長所”っていう言葉は
どちらかというと
「スペック」的な意味よりも
「性格」的な意味合いが強い気がしていて

答えるとしたら
「人に優しいところです」
「努力家で真面目なところです」
「明るくてポジティブなところです」
といった具合に
内面のいいところを挙げるのが正解なような気がするのだが

私はその種類の質問に、うまく答えられたことがない。

理由は簡単。
「自分は性格よくない」と思っているから。

これは卑下しているとか、謙遜しているとかではまったくなくて
もちろん、
今ちょうど時期的にメンヘラになっているからとかでもない。
冷静に、そう思うのだ。

なぜそう思うかを書いたところで
ただの病んだツイートになってしまうのでここでは書かないが
たぶん私とめちゃくちゃ仲良くしてくれている友人にきいても
「好きだけど、性格良くはないね笑」と言うと思う。
(友だちでいてくれることにただただ感謝)

世の中的にも「THE いい人」と、そうじゃない人というのは
なんとなくあると思いますが
私は「そうじゃない人」の最極にいるようなタイプ。

だから
「ありのままの自分でいても愛してくれる人」なんて
この世に存在しないと思って生きてきたし
「相手に対してなんのメリットももたらさない私」と
一緒にいてくれる人などはいないと、
疑いもなく思っている。

もちろんいくらありのままとはいえ
相手になんの気遣いも、譲歩もせずにいたら
それはただのわがままでしかないので
それもせずに愛されようなんてのは虫が良すぎる話だが
ここで言う「ありのまま」は、そういうことではない。

相手に気を遣ったり、多少相手の主義思考に合わせたりしつつも
その人の根本的な性質は変えないこと
天真爛漫に
その人そのままの性格でいることだ

私の場合は
幼い頃から父親に
「努力して、何事も上を目指すような人間でなければ価値はない」
と言われて育ってきたこともあって

そもそも
何かしらの成果を出して
相手にとってメリットのある存在でないと
愛してもらえないと思っている部分もあるし

私の素の性格を少しでも出そうものなら
絶対に嫌われると確信しているから
「この人には好かれたいな」と思った相手にほど
「好かれそうな自分」を作り上げる。

「この人はこういう人が好きそうだな」
「世間はこういうとき、こう反応する人を「いい人」と言うだろうな」
そんな先回りをしまくって
本来の性格最悪な自分を
「好かれそうな自分」の層で塗り固める。

たとえば
自分がもし子どもを産んでも本当に愛せるかどうか自信がない
と思っても
子どもかわいい〜3人はほしいな〜
って言ってみたり。

まあ、そんな社交辞令程度のことなら
誰にでもよくあることかもしれないが
私の場合は、ここでいえないようなことも含めて
割と層を、固めに固めまくっているので

ときどき彼氏なるものができても
そんな塗り固めたわたしと付き合っていて
「この人は果たして、私の何をすきなんだろう?」
と純粋に疑問に思うし

「たぶん人柄じゃなくて、スペックが好きなんだろうな、
顔とか、料理できるとか、体の相性とか。」
って、思っている。

どれだけ長く付き合っても
「素をみせたらきっと別れてしまうから」と思うので
層は、薄くはなるけれど
なくなることは、ない。

逆にいうと
自分から好かれたいと思って
言い方を選ばず言うと
「好かれるように仕向けた」相手、以外の人から
好意を向けられたとき
私はとんでもなく戸惑ってしまう。

愛嬌を振り撒いたわけでもない。
プレゼントもあげてないし、宿題もみせてあげてない。
努力家で、家庭的な、子ども好き、を演出したこともない。

だから、
そんな相手に
「あなたが好きです」
と言われると

「自分の性格を好きになる人なんかいない」

という点に確信を持っている私にとって
考えられる可能性は

・私のスペックが好き(〇〇ができる、〇〇してくれる、等)
・私の容姿が好き(顔、スタイル)
・私のことが特段好きなわけではないが、性的な欲求を感じている
・めちゃくちゃ変わった人

の4つに絞られてしまうわけだ。


実際にそうであるかは、ここでは問題ではなくて
本当の意味での「自己肯定感が低い」ことの弊害は、ここにある。

つまり

自分が好かれたいと思った結果、自分を好いてくれた人に対しては
「本当の私をみせたら、嫌われるだろうな」と思うし

自分がまったく意識していなかったのに、自分を好いてくれた人は
「見た目とスペックしか見てない人」もしくは
「性欲モンスター」、または「めちゃめちゃ変な人」
だと思ってしまうのだ。


これでは、一生幸せになれない。

もちろん
人と人の関係には、合う合わないがあるから
どんなにいい人も、合わない人というのは存在するだろうが、

「ありのままの自分でも愛してくれる人が、広い世の中、何人かはいるだろう」

と、特に根拠なんてなくたって
疑いもなく信じている人と
そう思えない、私のような人間では

「自分を好いてくれる人」への捉え方が
まったく別物になってしまうのだ。

そして、
そう思える人が
本当の意味で「自己肯定感の高い」人なのだ。


ただ単に「自分に自信がある人」と
「自己肯定感の高い人」の違いが
なんとなくわかっていただけただろうか。

これが正解の解釈です!
ってことが言いたいわけではないのだが
私のモヤっとが、少しでも伝わるといいなと思う。

愛されると信じて疑わない人の発する多幸感、
羨ましいよなあ


今日は、この辺で。

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24歳/新卒2年目の会社員/エッセイスト,コラムニスト/早稲田大学文化構想学部卒業/趣味は美少女鑑賞です