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通常学級の担任として発達障害と向き合う

インクルーシブという考え方がある。人間の多様性を尊重し、障害者が精神的および身体的な能力等を可能な最大限度まで発達させ、自由な社会に効果的に参加することを可能にするという目的の下、障害のある者と障害のない者が共に学ぶ仕組みのことである。(Wiki先生)

ここ数年で教育関係者でなくても耳にするようになった発達障害という言葉。僕自身、詳しいわけではないが、関わり方という点では試行錯誤してきた。

本や研修で説明される「このような支援が効果的です!」を毎日の場面に応じて使いこなせるほど器用な学級担任はそう多くない。そもそも、満足に対応できるほど時間がないというのが本音だ。もちろん、だから仕方ないで済ませようと思う気もない。

そこで、インクルーシブという考え方をベースに、通常級における発達障害を抱える子の居場所づくりに着目した学級の在り方を見つめ直したいと思って、記事を書くことにした。(小学校高学年をイメージしています)


インクルーシブな教室

まず、すべての子が違って当然だ。

「みんなちがって、みんないい」

この言葉に尽きる。そして、みんなが違いを理解し合って生きていく姿を目指す。全ての子の生きやすさ、生きづらさに着目し、自分に価値を感じることができる言葉があふれる場所にする。


教師が発信する学級経営

教師から発信するというと、子ども主体じゃないようなイメージをもたれるが、そこは両立できる。

そもそも、この多様化された社会で生きる子どもたちを相手に、教師が率先して発信し続けていくのは簡単なことじゃない。興味をもってもらえるように、いろんなバランスを考えたコンテンツを発信しなきゃいけない。イメージとしては、ピン芸人としてのキャラをもちながら、司会者とひな壇芸人を両方やる感じ。(わかりづらいか笑)適度にいじり、いじられる関係を築くのだ。

問いを与えて、どうしてだろう?やってみてごらん!という方が正直楽だ。

それでも、自ら発信し、子どもたちを感化させ、楽しい教室を演出しようとするのは、教師の価値観、すなわち「みんなちがって、みんないい」をまずは浸透させたいからだ。

だから、「楽しい」「面白い」をベースに学級の雰囲気を作る。率先して楽しむ子も恥ずかしくて最初は楽しめない子も、みんなオッケー!仕掛け役の担任自身が、その全てを受け入れる姿勢で仕掛けていく。だから、「先生、やらなくてもいーい?」という言葉にも、笑って「いいよ〜」と言ってあげる。


規律を守ることの価値って?

そうすると、ちがって当たり前という雰囲気が醸成されてくる。行動は強制されるものではない。そこからが、本当のスタートだ。

特に、学校文化の見えないしばりは、子どもたちを苦しめる。どうも、規律を守ることに必要以上に価値が置かれているような気がしてならない。

・大人には敬語で話す

・他の教室に入らない

・廊下は列になって移動する

・○曜日の昼休みは読書

など、誰のために?と思うきまりがたくさんある。理由があることは承知しているが、それは強制するほどのものなのだろうかとも思ってしまう。

規律は、集団生活を機能させる仕組みとしては素晴らしいが、時に人の思いを無下にしてしまうことや、従うことがよいことだ!という思考停止人間を生み出す要因にもなる。教師はもちろん、子どもにもそれはわかっておいてほしいと思っている。


子どもの考え方を理解する

子どもとは面白い生き物で、子どもを理解できるようになることなどない。それでも、その子のモノの見方・考え方を理解しようとするところに面白さがあるし、その姿勢をもち続けることに教師の責任がともなう。

また、ベストセラー著者の草薙龍瞬さんは、「人間は判断すること自体が気持ちよく、自分の考えが正しいと証明したくなる生き物だ」と著書「反応しない練習」の中で語っている。

だから、「あの子は、ああいう子だから」と判断したいし、した瞬間にそれ以外の情報を無意識に排除し始めるようになる。

発達障害に関して言うならば、LD、ADHD、アスペルガーなどと名前を付けることで、本人やご家族の生きづらさに対して解決の見通しをもたせ、納得させるものにはなるかもしれない。でも、断じてそれは教師が学級指導に生かすための口実じゃない。

よく、「保護者に了解を得て、その子の特性について児童に説明し、『みんな理解してあげてね』みたいな指導をすればいいよ」と、先輩に言われたが、それって教師の責任放棄じゃないの?と思ってしまう。(私を思ってのアドバイスであることは承知しています。その点は感謝ですが。)

一人一人みんな違うんだから、その違いに程度はあれど、そもそも全員ちがうんだよマインドを説いていく方がよっぽどいいのではないだろうか。


二次障害

自分の特性を指摘され続けると、自尊心の低下や愛着障害などの二次障害につながってしまうことがある。

殻に閉じこもってしまう状態であり、それは関わる大人の責任だと思う。その子の人生の一瞬しか関われないのに、そんな思いをもたせたくない。

だから、その子の存在そのものを肯定し、どんな子どもも受け入れようと思う。


そんなことお母さんは知っている

「学校ではこんなことに課題があります」「集団生活に適応するために、もう少しこんな力を身に付けていきましょう」とか、教室管理者としての目線で見ればいろいろ言うことはあるけど、そんなの「集団」という括りで見た場合の話だ。

確かにそれが学校という場所なんだけれど、そもそも集団が得意じゃないのに、こちらの都合だけでそこにコミットさせることにあまり価値を感じない。そういう力は必要なんだけれど、最低限で十分だろう。その生きづらさが本人にどれほどの影響をもたらすかを熟慮した上で伝えたい。

そもそも、お母さんは我が子がどんな風に学校で過ごしてるかの予想くらいついているはず。しかも、学年が上がれば上がるほど。

個人懇談にわざわざ来てもらって、そんな分かりきったことを伝えても、お母さんは学校を信頼できるだろうか。それよりも、お母さんが知らなさそうな子どもの楽しいエピソードをいっぱい話した方が、家庭での笑顔につながって何倍もいいと思う。これは、僕の「お母さんの笑顔が子どもの成長に最も大切」という信念からだ。


最後に

発達障害があろうとなかろうと、みんなちがう。もし、同じに見えているとしたら、それは自分(教師側)が同じように見たがったているのだと戒める必要がある。

「みんなちがって、みんないい」を実現させたい。そのために、担任の価値観を進んで発信し、あれやこれやと試行錯誤を繰り返すことが大切だと思う。

こんなことを書いている僕自身、あの時のあの子に、今ならもっと寄り添えるのではないだろうか…と後悔してばっかりだ。僕が担任だったことを申し訳なく思うこともある。と同時に、人間として、教師として、成長させてもらったことに対する感謝と今後に還元することを誓って教師を続けている。

一番苦労されてるのは間違いなくお母さん。その思いをしっかり受け止める覚悟をもつ。クラスに30人以上いると、その子ピンポイントで適切な支援ができないことも多い。でも、思いを受け止めることはできる。

そして、彼、彼女は特別な一人ではなく、必ず学級に必要な一人になる。みんなが必要な一人。そう心に決めて、行動し続けること。その姿勢を見せ続ける。必ず、学級の子どもたちに伝わるタイミングがある。感覚的なものだけれど、ある気がする。それを粘り強く待つ辛抱強さをもった時に、自分なりの学級経営観が一歩前に進んだ気がした。



ここが好きだよ発達障害ランキング!第一位は?

ボンボンさんの記事にあった、発達障害のトリセツです。(勝手に紹介させていただきすみません)

同じ障害であっても人によってちがうことは大前提ですが、特性に関する具体的な話を見て、僕はまだまだ勉強不足を痛感させられます。在り方だけでは、限界があります。見識を深めていきたいと思います。

ちなみに、「ここが好きだよ!発達障害」ランキングという記事もあり、特に第一位は人としての信頼に欠かせない素敵なポイントだと思います。是非こちらから⬇️




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