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【読切短編:文字の風景⑭】ライブハウス

街の喧騒と、早春の風が夜気に冷やされ始める気配。辺りは淡い藍色に沈もうとしている。湿度の高い空気には、草の香りが混じっている。開演まであと1時間。すこし早く着きすぎた駅の改札前で、私は一人期待と高揚で頬を赤く染めていた。

辺りには、見覚えのあるTシャツやラバーバンドを付けた人がちらほらと歩いていて、見る人が見れば川のような人の流れが一目で分かる。普段通りの服装で立っている自分が少しだけ気恥ずかしく、全身をライブ色に染め、並んで歩く人たちが羨ましく見える。街の風景から浮いているのに堂々と歩く彼らを眩しく感じる。

会場前にはチケットの整理番号で人が列を為している。私の番号は、どうせ開演直前ごろまで呼ばれないだろう。そっと電柱にもたれ、携帯を開く。ぼんやりと私の顔を照らし出すTwitter画面には、今日の演者のアカウントの投稿が流れてくる。きっと斜め前のショートカットの女性も、ハーフパンツを腰履きする男性二人も、この投稿にいいね!を押しているんだろうと思いながら、私もハートマークをタップした。目まぐるしいスピードでその数は増えていく。私がタップした617番目はあっという間にかき消され、同時にスタッフが私の番号を読み上げた。

ステージまでの距離より、壁との距離の方が近い。でも、中央寄りの場所を確保する。ステージに置かれたギターやシンバルが、照明を反射して私の目を細めさせる。すし詰めの会場内には、まだまだ人が入ってくる。この照明が消えたら、なけなしの背後のスペースから更に人が押し寄せる。もみくちゃになりながら、波を為して押し寄せる音の渦に、カラーセロファンで飾られた照明の光の渦に、この時間を共有できる歓喜の渦に、巻き込まれながら私は感情と理性を淘汰する。

こんなに贅沢な2時間は、どこを探しても見つからない。まだ始まってもいないのに、私の心は鼓動を高ぶらせ、その瞬間を確信している。何故なら、隣にいる、前にいる、後ろにいる誰もが私と同じように頬を赤らめ、その瞬間を渇望していたからだ。この瞬間、この時間、この記憶、この体験、この手触り。全てをかけがえの無い、生きた証にしようとする瞳。

ゆるゆると流れていたBGMの音が止まり、沈黙と暗闇が降り注いだ。

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