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【山梨県立文学館】特別展示「文豪の筆跡」を見に行く

はじめに

 山梨県立文学館は、館内設備工事のため2022年12月より2023年4月までの5ヵ月間休館していました。再開して最初の企画展示は、特別展示「文豪の筆跡―館蔵の名品から―」(2023.5.1~6.11)として、所蔵する作家の原稿を展示しています。

サインボード

屋外の気になるもの

 芸術の森公園内にある、屋外アート作品を主に紹介してまいりましたが、文学館建物の噴水にあるブロンズ像も作品のひとつでした。ちょうど噴水が停止していたため近くで撮影できました。

文学館のシンボル的な噴水

 アリスティード・マイヨール(1861~1944)は、ロダン、ブールデルとともに近代彫刻の三巨匠と呼ばれる一人です。元は画家でしたが視力の低下により40歳を過ぎてから彫刻を手掛けます。フローラはローマ神話の花と春の女神です。

アリスティード・マイヨール《裸のフローラ》1911

甲州こいのぼり

 文学館に入るとの吹き抜けエントランスロビーにこいのぼりが泳いでいます。5月5日の端午の節句は過ぎましたが、山梨では月遅れの6月の地域も多いのです。
 さて、こいのぼりが端午の節句の主流とになったりは明治大正と言われています。
 この甲州こいのぼりは江戸末期から受け継がれている山梨県の伝統工芸品です。布の精錬から染め付けまですべての工程を手作業で仕上げられているのが特徴です。こちらの甲州こいのぼりは、江戸時代から続いて現在は7代目となる南アルプス市の井上染物店の作です。

鮮やかな色使いが甲州こいのぼりの特徴
同じ鯉ですが見る角度で変わります
地元の園児たちの作品

特別展示「文豪の筆跡」

 特別展示「文豪の筆跡―館蔵の名品から―」(2023.5.1~6.11)は、収蔵品や寄託資料の中から、原稿や手紙など直筆の資料により、作家の筆跡とともに、それら資料にまつわる背景、エピソードを紹介しています。

文豪たちの名前が並ぶチラシ
資料の一部を紹介したチラシ
展示室入口のボード

 資料は作家やそのテーマごとに11のコーナーに分類されています。

1 森鴎外「灰燼」

 「灰燼かいじん」は森鴎外の数少ない長編小説です。1912年(大正元年)12月まで、11回にわたり雑誌「三田文学」に連載されましたが、未完に終わった作品です。原稿の一部とともに「三田文学」が展示されています。

展示資料
・森鷗外「灰燼」第1回原稿(「三田文学」第2巻第10号 1911年10月号掲載)
・「三田文学」第2巻第10号 1911年(明治44年)10月 三田文学会

森鷗外「灰燼」第1回原稿  出典 : 山梨県立文学館HP

2 室生犀星「かげろふ日記遺文」

 室生犀星の「かげろふ日記遺文」は平安時代の日記文学「蜉蝣日記」を題材にした長編小説です。原稿の一部と雑誌「婦人之友」、および単行本が展示されています。

展示資料
・室生犀星「かげろふの日記遺文」原稿 (「婦人之友」1958年7月~1959年6月連載)
・「婦人之友」第52巻第8号 1958年(昭和33年) 婦人之友社
・室生犀星『かげろふの日記遺文』1959年(昭和34年)11月 講談社

3 芥川龍之介と谷崎潤一郎の文芸論争

 1927年(昭和2年)小説の「筋のない小説」「筋の面白さ」をめぐり、芥川龍之介と谷崎潤一郎が雑誌「改造」を舞台にした論争がありました。

 話の面白さが小説に芸術性を与えるか否か、という議論でしたが、谷崎は「構造的美観」「筋の面白さ」を主張し、話の組み立てが整っている小説ほど芸術的価値が高まると考えました。そうした主張を論じた「饒舌録」の原稿と掲載された「改造」が展示されています。

展示資料
・谷崎潤一郎「饒舌録」第9回原稿(「改造」1927年(昭和2年)10月掲載)
・「改造」第9巻第10号、1927年(昭和2年)4月号、改造社

 一方の芥川は話らしい話がなくとも小説の価値は揺るがないと「文芸的な、余りに文芸的な」の中で主張しました。
 残念ながらこの論争は決着を見ずに、同年芥川の死去により終結となりました。

展示資料
・芥川龍之介「文芸的な、余りに文芸的な」第1回原稿 (「改造」1927(昭和2)年4月号掲載)
・「改造」第9巻第4号、1927年(昭和2年)4月号、改造社
・芥川龍之介筆「諸君は何の為に文章を作るや」書

芥川龍之介筆「諸君は何の為に文章を作るや」 出典 : 山梨県立文学館HP

4 正岡子規の書「財布賛」を巡って

 正岡子規「財布賛さいふさん」は中国禅の教本「碧厳録へきがんろく」を真似で創作した偈文げぶんのひとつです。当時、子規は脊椎カリエスが悪化しており、その苦しみを紛らわすために「財布賛」を作りました。
 8ヵ月後子規が無くなると門弟の長塚節ながつかたかしが「財布賛」を手に入れます。しかし後から門弟の新免一五坊しんめんいちごぼうが子規の生前にもらい受ける「予約」をしていたことが判明し一五坊の手に渡りました。
 一五坊は子規晩年の門弟で、当時は山梨県明見村(現在の富士吉田市)に在住し、山梨に子規の唱えた短歌・俳句革新の新風を吹き込んだと言われます。

展示資料
・正岡子規「財布賛」軸装 1902

正岡子規「財布賛」軸装 1902 出典 : 山梨県立文学館HP

・長塚節 新免一五坊宛書簡 1902(明治35)年12月6日
 「財布賛」の所有についてやりとりをした書簡

5 小説家、夏目漱石

 夏目漱石は、1905年(明治38年)から『吾輩は猫である』『坊ちゃん』などを発表し、人気作家となりますが、その頃は教職を務めていました。
 漱石は1907年(明治40年)に東京朝日新聞社へ入社し職業作家として転身しますが、同社の主筆にあった池辺三山の要請によるものです。

展示資料
・夏目漱石 白仁三郎宛書簡 1907年(明治40年)3月11日
 本名の夏目金之助の名で白仁三郎に宛てた書簡です。白仁三郎は第五高等学校(熊本県)時代の教え子で東京朝日新聞社で漱石の担当をしていました。東京朝日新聞社にて専属作家になるにあたり、様々な条件や要望をこの書簡で伝えています。
 そして書簡の15日後に池辺三山が漱石を訪ね、漱石は朝日新聞への入社の意思を伝えています。

夏目漱石 白仁三郎宛書簡 1907 出典 : 山梨県立文学館HP

・夏目漱石 志賀直哉宛書簡 1914年(大正3年)2月2日
 朝日新聞に「こころ」の連載をしていた漱石の次の連載に決まっていた志賀直哉に宛てたもの。

・志賀直哉 「臥柳自生柳」額装
 地に倒れた柳はひとりでに枝を伸ばす、杜甫の漢詩

6 雑誌の創刊「文章世界」の誕生

 雑誌「文章世界」は、1906年(明治39年)青少年に実用的な文章を習わせることを目的に刊行されました。田山花袋が編集長を務め、前田晁が助手という体制でした。

展示資料
・田山花袋「文章世界」創刊号(1906年3月)立案原稿
・「文章世界」第1巻第1号 1906年 博文館

 「文章世界」の内容は文例、評釈、技法中心の内容から、小説家を失費者に迎え自然主義文学の拠点のひとつとなっていきました。表紙の原画と、実際の雑誌「文章世界」が展示されています。

展示資料
・木村荘八「文章世界」第14巻第10号 表紙原画 1919年10月
・「文章世界」第14巻第10号 1919年10月 博文館
・鍋井克之「文章世界」第15巻第6号 表紙原画 1920年6月
・「文章世界」第15巻第6号 1920年6月 博文館
・林倭衛「文章世界」第15巻第8号 表紙原画 1920年8月
・「文章世界」第15巻第8号 1920年8月 博文館
・小出楢重画「文章世界」第15巻第11号 表紙原画 1920年11月
・「文章世界」第15巻第11号 1920年11月 博文館


7 太宰治と井伏鱒二宛書簡

 太宰治は1930年(昭和5年)東京帝国大学に入学すると敬愛していた井伏鱒二を訪ねて師事しました。
 太宰は、作家として文壇に活躍する一方で、心中未遂事件をおこしたり、1935年(昭和10年)4月には急性盲腸炎の入院中にパビナール(麻薬)の中毒にかかりました。

展示資料
・太宰治 井伏鱒二宛書簡 1936(昭和11年)9月15日
 この書簡は井伏に宛てたものですが、パビナール中毒のため入院するよう井伏からも説得されていたようです。この書簡の1ヵ月後、井伏らが直接対面し、その日のうちに入院しています。

太宰治 井伏鱒二宛書簡 1936 出典 : 山梨県立文学館HP

8 堀辰雄「晩夏」

 堀辰雄「晩夏」は、1940年(昭和15年)「野尻」の題名で執筆され雑誌「婦人公論」に掲載されました。翌年、刊行の作品集『晩夏』に収録され「晩夏」に題名を改めています。

展示資料
・堀辰雄「野尻」原稿
・「婦人公論」第25巻第9号 1940年(昭和15年)9月 中央公論社
・堀辰雄『晩夏』特装本 1941年(昭和16年) 

9 川端康成「東京の人」

 川端康成「東京の人」は新聞の連載小説で、北海道新聞、中部日本新聞、西日本新聞にて505回の連載の長編小説です。1956年(昭和11年)にし日活で映画される人気作品でした。

展示資料
・川端康成「東京の人」第474回原稿 1955年(昭和10年)9月8日掲載

10 作家たちの書

 短冊や額装された作家の書を展示しています。

展示資料
・柳田国男「松崎にまつ夜の月はくもりけり岩うつ波の音ばかりして 海に入るいそ山河のましみづのさすとはなしにものぞ悲しき」額装
・永井荷風「秋風や鮎焼く塩のこげ加減」額装
・泉鏡花「わが恋は人とる沼の花あやめ」額装
・谷崎潤一郎「奈良坂や南大門のきざはしにねむりて春の碑をくらさばや」短冊
・里美弴「元旦の朱き机を浄めけり」短冊
・柳宗悦「四国どふぼだいみちはとふくともちか道みればなみあみだ仏」書扇面
 木喰五行の詠んだ和歌を山梨市出身の郷土史家村松志孝のために墨書したものです。柳は木喰の彫った仏像に魅せられ丸畑(現身延町)を訪れています。
・井伏鱒二「山みちのかたはらに水たまりあり 手洗ふと立てば涙水に落つ」色紙

11 芥川龍之介『澄江堂遺珠』をめぐって

 芥川龍之介の死後の1927年(昭和2年)、岩波書店によって最初の芥川の全集が刊行されました。
 佐藤春夫は 1931年(昭和6年)、雑誌「古東多万ことだま」に芥川の遺稿を4回連載し発表し、芥川の遺稿詩集として『澄江堂遺珠ちょうこうどういしゅ』を1933年(昭和8年)に刊行します。
 展示は『澄江堂遺珠』のほか、芥川の生前にメモした詩や断片を書いた澄江堂遺珠ノートが展示されています。

展示資料
・芥川龍之介 澄江堂遺珠ノート1
・芥川龍之介 澄江堂遺珠ノート2
・「古東多万」1年3号 1931年(昭和6年)12月 やぽんな書房
・芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯さんしゅう『澄江堂遺珠』 1933年(昭和8年)3月 岩波書店

 芥川と交流の深かった、室生犀星は、「澄江堂遺珠を読む」の中で佐藤の苦心は認めつつも、その内容に賛成できないと心の内を発表しています。

展示資料
・室生犀星「澄江堂遺珠」原稿
 「澄江堂遺珠を読む」として『文藝林泉』に収録
・室生犀星『文藝林泉』1934年(昭和9年)5月 中央公論社

おわりに

 直筆の資料を展示し、それにまつわる背景、エピソードを示し、関連する本や雑誌など活字化された資料もあることで、身近に感じられる展示でした。
 とくに太宰治の井伏鱒二に対する書簡は大変長い巻紙で、井伏に見捨てられたくないという心情を伝えているのが印象的でした。

文学館の2階から見える美術館の建物


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