見出し画像

随想好日『それぞれの流儀 巴里編』

随想好日『それぞれの流儀 巴里編』

2014年8月22日の産経新聞に「パリの現実」パリの現実に衝撃を受ける中国人・涙を浮かべて「二度と戻って来ない」という記事が掲載されていた。今から10年近く前であり、すっかりと古い話しとなってしまった。

丁度時を同じくして2014年頃からフランスでは外国人旅行者の受け入れ環境改善にテコ入れ、大ナタを振るい、それまでのフランスの「姿勢」から脱却を図ろうとしていたことは観光立国推進基本法発布後、インバウンド集客に舵を切り始めていた日本にも漏れ伝わっていた。
 くだんの記事では「パリ症候群」という言葉を用い、パリの現実とこれに「罹患」した中国人の「症状」を克明に描きあらわしていたのだが、日本人にしたところでいつか来た道、辿った道ということに過ぎないことは、バブルを経験してきたご同輩諸氏においては説明を必要とはしないだろう。

 急激な経済成長を遂げ、国際消費市場の中でも存在感を高めていた中国。見果てぬ国へのロマンとイメージは憧れとして膨れ上がり、現実を置き去りにした「オマージュ」だけが募ったであろうことは想像に難くない。そのオマージュも手伝ってか、毎年多くの中国人観光客が渡仏するようになっていたようだ。
 セーヌを行くバトゥームッシュから眺めるノートルダムの尖塔とアーチの造形の美しさも火事で焼け落ちたことは記憶にも新しい。芸術家が集い、シャンソンが優しく町の空気を揺らすモンマルトル周辺。
 大きな風車と町並みが織りなす風景は、ムーランルージュという言葉を「象徴化」させたものの、一歩わき道に入ると鼻を突く異臭さえも懐かしく思い出す。
 インターネットが普及し、行かずとも「行った気になれる」現代においては、リアルとバーチャルの区別がつきにくくなり、このことがある種「妄想」をかきたてる要因になっているとも考えられる。現実には、至る処にゴミが落ち、スリや置き引きが多発し、さっきも書いたように憧れのムーランルージュは異臭が漂い、シャンソンを聞くに至っては、一生分の「运(うん)」を使い果たす覚悟さえ必要とした。ルーブルの混雑に辟易とし、手ごろなところで「芸術家による芸術」に触れるべく街をぶらつくと、およそ似顔絵と肖像画の区別がつきにくい「自分の顔」に大枚をはたくことになる。あ~ぁ私のパリはいずこへ。なにやら「お大事に」とお見舞いの言葉を掛けたくなる衝動に駆られたことを思い出す。
 それぞれの価値観。しかしどうなのだろう。とは申し上げたもののここへお運びの読者諸兄諸姉はそんな「巴里」をフランスをこよなく愛されているのではないだろうか。
 ツンと取りすまし、フフンと気取った振る舞いこそ巴里。「多言語化」のインフラ整備などどこ吹く風、来たけりゃくりゃあいいさ~ケセラセラ~「干渉」しないから好きにやりな。これが巴里っ子の流儀。しかしこちらが「尊重」の顔を見せた途端、状況は一変する。尊重すれども干渉せず。それがパリの流儀だった。

 4ツ星、5ツ星クラスのホテルのロビー。黄昏時をタキシードでも着こみ人待ち顔で立っていようものなら、放っておかれることはない。こちらから寄って行けば満面の笑みを湛え精一杯の「もてなし」を見せてくれる。これもパリの顔の一面だ。
 自分たちのホテルの格式を尊重しようとする者には実に誠実風に尊重の姿勢をみせてくれる。が、どこぞの団体観光客宜しく、ホテルのロビー内にあってすら旅行会社の旗をかかげ、これ見よがしに大声でツアー客に案内などをしようものなら、彼らの顔には「嘲笑」が浮かび、扱いは数段お安くなることを覚悟しなければならない。

 彼らのもてなしにはストーリーが存在している。そして歴史に裏打ちされた連続性が息づいている。本人たちは気付いていないかもしれない。いや気付いていないだろう。ただただ「流儀」に忠実なだけであるはずだ。自らわかってもらうことに努めるのではなく、わかろうとする姿勢が見えた時、これに最大限の敬意を払う。

 「日本式」のサービスであり、「おもてなし」の導入が様々な国で進んで久しいが、この傾向は「発展途上国」において一層顕著に観ることができるようだ。同時に国内でも、多言語化へのインフラ整備もひと段落を見たようだ。
 がどうだろう、私にとっては「パリ」の街で日本語の案内標識を見かけたとしたなら、これほど興ざめすることはなく、パリの地下鉄で「ツギハリヨンエキマエ、リヨンエキマエ」などと、機械的かつおかしなイントネーションの日本語が流れた瞬間「私」のパリは跡形もなく霧散することになるのだが。

 必要以上の環境改善は形骸化を生み、没個性を浮き立たせることになるだけではなく、旅心さえも萎えさせてしまう。ほんの小さな「冒険」すら叶わず、なんら迷うことなく歩ける街というのも、なにか面白味にかける。
 そう「贅沢」なのだろう。しかし、この自分にとっての「贅沢」を満たすことが出来るのも「Tourism」の持つ一つの側面ではないだろうか。
 自然体でのもてなしに、国民性を感じ、文化を感じ、そして距離を測る。この距離を測り、感じることが大切なのだ。相いれるもいれないも本人次第、お相手次第。形骸化したおもてなし、金太郎飴が如き何処を切っても同じ「顔」が見えるおもてなしは何やら作為的な匂いすら漂う。
集団意識から距離を置いた、それぞれの「流儀」と「価値観」をマッチングさせる「もてなし」もある種Tourismのダイナミズムと思えて仕方がないのだが。

※なお本稿は、2015年秋口から1年間、某・業界専門誌(週間)よりの連載委嘱を受けた筆者の手による連載一回目の掲載原稿の量を半分まで削り、時代の変化趨勢を今にちへと併せ、改稿を加えたものである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?