fっふぇえindex

『掌』

当時、僕は小学三年生だった。軽度の知能障害はあったけれど、みんなと同じ教室で学び、同じ給食を食べ、同じグラウンドを駆け回って遊んだ。

ある日の授業中、鼻をほじっているところを先生に見とがめられ、「煙突掃除はやめなさい」と注意された。僕のいけない癖だった。鼻の穴がむず痒くなると電車の中だろうとどこだろうと構わずにほじってしまう。

いじめが始まったのはその日からだ。帰り際に外履きを隠されたり、「近寄るな“ユ菌”」と悪口を言われたり――僕の名前はユキオだったのでユキオのばい菌で「ユ菌」だ――みんなでフォークダンスを踊るときも僕だけ仲間外れにされ、触られないようにして避けられた。

率先していじめてくる人間はいつも決まっていて、藤本君とその手下たちのグループだった。その日の放課後も僕は藤本君たちにつかまった。「おめえ臭えんだよ、こっちくんじゃねえよユ菌」と藤本君が言えば、その手下たちが「そうだそうだ!」とテレビドラマに出てくる児童劇団の子たちのように加勢し、一斉にはやし立てる。それ以外の人たちは見て見ぬふりをして無視を決め込んでいた。

何をされてもへらへら笑ってごまかそうとした。時間と空間が張り詰めないように。笑ってさえいれば冗談みたいやりすごしてもらえると思った。傷なんかついてないって。平気だって。これは新しい遊びなんだって。笑ってさえいれば、自分もそう信じこめる気がした。いや、信じこもうとした。みんなにこれ以上嫌われたくなかった。

……笑えなかった。頑張って笑おうとした。けれど、笑おうとすればするほど左の頬がひくひくと引き攣り、ぜんぜん笑えない。だって本当はちっともおかしくなかったから。情けなくて、みじめで、悲しくて、悔しかった。誰に対する怒りなのかもわからない怒りで体が震え、どうすることもできなかった。ただ、こらえていたものが溢れるようにポロポロとこぼれていく。

「いい加減にしろよ藤本! 帰るぞ、ユキオ」

ふいにぎゅっと手をつかまれ、教室から連れ出された。彼――同じクラスの青木君は校門を出てからもしばらくは怒ったような顔をしていた。早歩きでずんずん進み、だいぶたってから「ああいうときは怒れよ、ユキオ」と真顔でいった。

「うん……」

そんなに簡単にできそうにないなとは思ったけれど、青木君が連れ出してくれたことが嬉しくて嬉しくて、僕はついそう答えていた。そこからはゲームの話とか流行りのアニメの話をして笑いながら帰った。ただ家の前に来るまで青木君は繋いだ手を放そうとはしなかった。別れてからしばらくたっても僕の手はずっと痺れていた。僕だけは知っている。青木君の手がどれだけ震えていたのかを。 

【了】


水もしたたる真っ白い豆腐がひどく焦った様子で煙草屋の角を曲がっていくのが見えた。醤油か猫にでも追いかけられているのだろう。今日はいい日になりそうだ。 ありがとうございます。貴方のサポートでなけなしの脳が新たな世界を紡いでくれることでしょう。恩に着ます。より刺激的な日々を貴方に。