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アクマのハルカ 第2話 悪かったと思うのは無欲の本音に触れた時

 真っ赤な雲が散った。そこはいつも通り香月麻莉亜(こうつき まりあ)が受け持っている3年5組の教室だったが、異なるのは生徒が叶海(かなみ)と奈津美(なつみ)しかいなかったことだ。

 麻莉亜は、この教室にいつも通り居心地の悪さを感じていた。それは心の中に雲があるかのように、モヤモヤするものだった。
 その中でいつも通りの生物の授業を始める。

 「遺伝情報はDNAからRNA、そしてタンパク質へと一方的に流れていくという考え方がありますが、この考え方をなんといいますか?」

 麻莉亜はセンター試験生物の過去問の解答を叶海に答えてもらおうとした。その時、左足の靴を履いていないことに気づく。「そうだ、私は何かと闘っていたのだ。」と思う。慌ててチョークを置いた。麻莉亜は叶海と奈津美の目を見つめる。
 しかし、二人はそっぽを向いたままでこちらを向き返さない。
……………
 麻莉亜は、「ここ最近、いつもこうだった。針のむしろというか、無視が流行というか。抜け出したかったよな、私。」と思い出した。
 しかし今回は、これまでの毎日とは違い、居心地が悪い理由を分かっている。記憶にあの子に言われた理由がハッキリと残っていたのだ。だから叶海と奈津美の2人と話すことにした。生徒と面と向かう話をすることになるのはいつぶりだろう。いや、むしろ初めてではないだろうか。

 麻莉亜は、叶海と奈津美の目を正面から見た。そして静かに口を開く。
……………
 「噂話って、面白いよね。あることないこと。先生は叶海のことをどう思ってるとか、先生は奈津美のことをどう言ってたとか。それが真実になっていくの。私が知らないうちに。」
 麻莉亜の言葉にそっぽ見ていた叶海と奈津美は横目で教壇の方を見た。

 「別にいいじゃん、真実より噂の方が面白いならそっちを信じちゃえば!」
 奈津美は右肘を付き窓の外を眺めながら、視線だけ麻莉亜に与えて言い放った。いつもの麻莉亜なら「そうだね」と解答し流すところだった。だが今回は、麻莉亜なりの考えを告げたい。そしてここから話を始めたい。

 「面白いのはね、最初だけだよ。後は偽物の世界で踊らされて、時間や友達っていう大事なものを失うよ。場合によっては命もね。」
 麻莉亜は、2人から目を離さず伝えた。
…………………
 少しばかりの沈黙の後、3人は一瞬、目を合わせ、その後、目を逸らす。お互いに「誰か何か言ってよ。」といった雰囲気の中で、沈黙の合間に話す覚悟を決め、勢いを付けたのは叶海だった。
 思いっきり息を吸ってから立ち上がる。
 「何何何何何?今更良い人ぶっちゃってさ。うちらのこと、色々言ってたじゃん!あの子に聞いたよ。」
 叶海は、唇こそひきつっていたが声は堂々と大きく笑いながら話す。

 麻莉亜は即答する。
 「何を聞いたの?私はあなた達のことを一切悪く言っていない。むしろ、あの子が叶海を悪く言ったから止めたのよ。一緒にいた時、止めたまで。
 あなた達こそ、私に悪く言われているという思い込みと、その腹いせで私の誹謗中傷をしていたわよね?」

 2人は黙る。本来ならここで形勢逆転と行くべきかもしれないが、麻莉亜はこのまま2人を責めるより、伝えたいことがあった。まずは叶海の方を向いた。そして教壇を降り、一歩一歩、叶海の方に向かう。
 「私ね、同僚の大室直矢(おおむろ なおや)先生に示談金を渡された時、『それでセクハラの証明ができたね』と叶海に言ってもらって救われたのよ。あの時はありがとう。」
 長い金色の髪の左側だけ耳にかけ、叶海の顔を少し覗いて伝えた。

 叶海は座り、はたと顔を上げた。唇が震えている。声は出てこない。
 麻莉亜は更に話すために、次は奈津美の方に向かう。

 「奈津美に初めて話しかけてもらったのは屋上に繋がる階段だったわよね。お昼休み、屋上に抜けようと思って登る途中に奈津美が座っていて、『麻莉亜先生、一緒に食べよ。』って来てくれたのよ。嬉しかったわ。」

 奈津美は麻莉亜から完全に目を逸らす。誹謗中傷によって懐かしい思い出を破壊し、奈津美自身が麻莉亜に提供した優しさを消し去る結果を導いてしまったことに気付いたのだ。

 奈津美は合わせる顔がないと思った。麻莉亜は2人に一言ずつ言うと、教壇に戻った。
……………
 暫し、黙る。3人共に心の中の感情を言葉に変換するための「時」が必要だったのだ。そして沈黙の封を切ったのは、やはり叶海だった。
 「あの子、ツテという脈が太くて芸能界に入ったりタレントになりたいなら切れない。」
 言った後に上目遣いで麻莉亜を見る。

 「あの子は人の管理が得意なの。麻莉亜先生とは親友だから、先生のこと何でも知ってるって言いふらしているし。あの子が言った麻莉亜先生がみんなにとっての麻莉亜先生になっていくの。
 だけど真実は違うから、麻莉亜先生と話すとあれって思ってなんか苛ついたり。予想した結果は麻莉亜先生を見下して、踏み台にすることが許されるはずだったのに、違ったから、はぁ?思い通りにならない麻莉亜先生ムカつくみたいな。」

 叶海は言ったあと、廊下に向かうドアを見る。自分の悪かった行動の存在は認めても、それが致し方なかったと保身せずにはいられない。言ったあと、誰もいない廊下を眺める以外に居場所がなくなった気がした。
………………
 叶海の言葉によって、麻莉亜の心の中にはこれまでの毎日の苦悩が湧き上がった。
 声の大きいあの子のコントロールで出来たクラス全体の誹謗中傷は、多数決で正当化され、誹謗中傷されている麻莉亜を価値の低い人間として見下すことが許される。その雰囲気が何よりも、憂悶だった。「あー、もう辞めたい。今日は休みたい。」そんな日々だった。

 あの子は麻莉亜を自分の子飼いと周りに触れ、麻莉亜を見下す発言をし、
 周りの生徒たちが自分も麻莉亜を見下して良いと思い込み見下すが、
 麻莉亜はそれを許さない。
 発言に気をつけるように注意し、注意された生徒たちは臍を曲げる。

 そんなループが白けた雰囲気を作り、麻莉亜の身体には念が籠もって、堪えていたのだ。
………………
 麻莉亜は叶海と奈津美を見つめる。叶海と奈津美も麻莉亜を見る。

 会話のキャッチボールをする準備が3人に出来た。そして、麻莉亜は話し始めた。
 「呑み込まれるのは分かるよ、あの子に嫌われたくないし、標的になりたくないから。
だけどさ、それでいいの?1番、大事なもの忘れていない?」
 麻莉亜の言葉に奈津美と叶海は目を合わせる。この2人はまだ他人に気を使うことから抜け出せないのかと麻莉亜は思った。
 しかし、叶海なら抜けられるのではないかとも思ったから、麻莉亜は叶海に話を振る。
 「叶海、貴女、あの子と違う意志を持っているわよね?その気持ちを蔑ろにしないで。1番大切なのは、叶海自身がが叶海の気持ちを大事にすることよ。」
 叶海の頬に涙が一筋伝っていた。堪えていたものが水滴になったのだ。
 「私の意志?私の気持ち?」
 叶海は麻莉亜に聞き返す。
 「そう。」
 麻莉亜は頷いた。そして話を続ける。
「叶海は開けっぴろげで失敗まで公開してしまう明るさと、楽しさを持っている子よ。その裏のない笑顔と優しさに人は魅力されるの。
あの子にしがみついている叶海は、いいところが全部殺されている。だって、あの子は自分が注目されるために人の魅惑を悪口で殺すのだから。」
 叶海の涙は止まらない。叶海なりに我慢してきたのだ。麻莉亜は教壇から叶海の顔を覗き込む。
 「もう、いいじゃん。大事にしてよ。自分の意志を。」
 叶海は嗚咽が止まらない。そして、
 「あの子、怖かった。すぐ人をバカにするから。」
 とだけ言った。
……………
 叶海の涙が奈津美の心にも浸透するものがあったのか。奈津美は、
 「私も、一緒に悪口を言わされるの、疲れた。」
 と零した。麻莉亜は返事の仕様を考えた。

 2人と話せたのは嬉しいが、自分の味方につけて、あの子の敵にすることは鬼退治に行って鬼になる気がしたのだ。
 各々が自分の意志で生きていけたら良いのにと思った。だから、共感を求める発言は避けながら奈津美の意志を大事にして欲しいと伝えることにした。

 「嫌な悪口に混ざらないくらいの強さは持ってよ、毅然とした奈津美は、かっこよくて人が付いてくるって思うわよ、私。」
 麻莉亜は抽象的に回答し、後は自分自身の意志によって行動してもらいたいと思った。
 「1人にならない?」
 奈津美は「ならない」との解答を期待して聞いた。
 麻莉亜は先はわからないから期待には応えられないと思ったが、それでも自分の思いをここで手放すのは辞めてもらいたかった。だから、
 「私は他者に追随するのではなく自分の意志を持って行動する女性には一目置くわ。でもみんなが私と同じとは限らない。
 結局、声の大きな人に呑み込まれても、毅然と振る舞っても、1人になるかならないかは、分からない。それでも奈津美と叶海にはそれぞれの意志を大切にしてほしいと思っている。」

 としか言えなかった。
 「そうだよな、あの子との関係が崩れても誰も助けてはくれない」と奈津美は思った。そして奈津美も叶海も黙っている。だから麻莉亜は続ける。
……………
 麻莉亜は、教壇に寄りかかり髪を耳にかけて、叶海と奈津美を見る。

 「自分の意志に沿って生きていくことは大切なことだと私は思うの。
 例えば、ワクチンにしろ、薬にしろ、みんなが良いと言っても、良くないことがある。その時、みんなが言ったからと言って飲み込まれても誰もリスクを背負ってくれない。例え命にかかわる後遺症が発生しても。
 だからいつも、どんな時も、自分の心の声をよく聞いて、自分の意志で生きていけるようにするの。

 悪口も同じ。言われた方は殆どの場合、奈津美の元には帰らない。もしかすると奈津美の毎日を豊かにしてくれるかけがえのない存在かもしれないのに。

 健康にしろ、人間関係にしろ沢山の善意があっても、1つの悪意や間違えが致命的となって消えてしまうこともあるのかもね。」

 そう言って麻莉亜は教壇に戻った。麻莉亜は自分の味方になるように説得したくて話したのではなく、ただ自分の思いがあの子の言う麻莉亜と違うことを伝えたかっただけだから十分だったのだ。
……………
 「授業の続きを始めます。」
 麻莉亜は、無視は無視すれば良いと思って左手にチョークを握る。その時だった。叶海が声を上げる。
 「麻莉亜先生、私もあの子と話したい。先生と今話しをしたみたいに。」

 叶海の発言に麻莉亜は振り返る。名案だと思った。だが、あの子とは一体誰だったか、思い出せない。麻莉亜は思わず
 「あの子って?」
 と聞いた。麻莉亜の声に奈津美が、
 「ハルカちゃん?確か、アクマの、ハルカ。」
…………………
 その言葉とともに教室は雲で覆われ、麻莉亜は2人と引き離された。

 そして真っ赤な雲が目の前を封じ、消えたかと思うと、教壇に立っていた。その目の前には再びハルカがいた。

(アクマのハルカ 第2話 悪かったと思うのは無欲の本音に触れた時 了)

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