植物には妖精がいる?②
そのうち、毎日、音楽の先生が、図書館を訪れるようになった。
「今日はどんな花が飾っているかと思って」
次第に、私の摘んでくる花が増えてきた。
毎日摘んで、蓄積しているのだから、無理もない。次第にコップや花瓶の数が増え、そうか、じゃあ、癒しとして、2階の学習スペースにも花を置いてみようかと思った。8つのおおきな机に花を置く。
花は自分では動けないから、毎日、水を取り替える必要がある。
また、花によって、長く持つ、持たないというのがあるから、毎日、様子を見て、切ったり捨てたり花を再構築する。しかも、そこに毎日私の摘んだ新しい花束が来る。
朝、花を摘むぐらい楽しいことはない。
毎朝、新顔が現れるし、道路に飛び出して咲いている花を摘むときには、彼らを救う気がする。しかも、この川べり、突然、草刈がやってきて、いきなり彼らが平らになっているっていうことも、何年も観てきた。
花を摘む時間が増えて、だんだん、職場に行くのが遅くなっていたが、
花の水を取り替えたり、花を活けなおしたりする時間があるから、どんどん、また出かけるのが早くなってきた。6時58分ぐらいに職場について、花に水を入れ替えたり、構成を再構築する。
朝のcafe・musicを聞きながら、毎日1時間は花を活けている。
めっちゃ、時間がかかって、前までやっていた毎日絵を取り替えるってことが、できなくなるぐらい本末転倒だ。しかし、春、五月、この花の美しさに抗える人が、誰がいるだろう。誰もが、我に五月を!と言いたくなるような気持ちよさと美しさだ。もう、自分はお花の先生のような気がする。自然流、お花の師匠で、活ける。
ふと、画家ジョージア・オキーフの言葉を思い出して、掲示もしてみた。
「誰もほんとうには花を見ようとはしない。
花はとても小さいからです。
私たちは時間は無いし、見るのには時間がかかる。
友だちを見つけるのに、時間がかかるように。」
4月から5月にかけて、桜が次々に咲く、夢のように美しい道を毎朝歩いた時に、「プージャ」という言葉が突然、頭に浮かんだ。花が散り始めて、たくさんの花びらの落ちる道を歩いていると、まるで自分はインドの聖者みたいだなと思うことがあった。普通の人なのに、こんなに、世界に祝福を受けて、道を歩く。なんとも素敵でうっとりする。不思議な気持ちだ。
プージャって、インドの聖者とか、神様に、薔薇の花びらをたくさん捧げたり、歩く道にまいたりすることをいう言葉じゃなかったかな。
インターネットで意味を調べてみる。
プージャは、伝統的な神への礼拝の一つであり、厳格に体系だった信仰の実践方法です。(日本の仏教で行う護摩炊きのような祈願・祈祷も、その源を辿ればインドのプージャがもととなっています。)プージャでは、礼拝者が宇宙の根本神の特定の側面である人格神に呼びかけ、ある特定の願いをこめて恩寵を祈ります。
プージャの究極の目的は、神との合一です。(中略)
プージャをすることにより、私たちの周りに霊的波動が生みだされます。その霊的力が、私たちの人生において暗いエネルギーを取りのぞき、明るいエネルギーで私たちを包みこみ、心の平安や物質的豊かさをもたらし、私たちが内なる神をよりはっきりと感じる助けとなります。
とあった。アマチという聖者のHPだ。でも、自分の知りたかったこととはちょっと違う内容だったような。別なHPを検索してみる。
ガネーシャ神へのプージャー
サンスクリット語で、「供養」を意味しており、その語源は、ドラヴィダ人の言葉で、「花」を表す「プー」と、「生ける」を表す「ジャー」にあります。
花を活ける!
インドではそれが語源で礼拝の儀式の意味になっている。
そうかあ、全く花を見るために始めたウォーキングで自分がここ一か月していたことは、まさに、「花を活ける」ことだけだった。
なんなんだろう?
花を活けるっていうことは?
(つづく)