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Ayane Tanizaki (谷崎文音)
2023年9月2日 00:01
『私ごとではありますが、富沢法律事務所から高崎法律事務所へ移りました。』 かつての部下・間宮からの突然の便りは心の奥に押し込めていた罪悪感を蘇らせた。 三年前、精神的に追いつめられて事務所を辞めることを決めた。その後、ろくに引き継ぎをしないまま彼女に任せたけれど丸投げしたようなものだ。 別れた夫が急に姿を現す前に掛かってきた富沢の電話によると、自分が退所したあと間宮に任せたはずの仕事は高桑が
2023年8月27日 00:04
「別所さんに会わせたい人がいます」 高崎から連絡が入ったのは、富貴子の見舞いに行った日の翌日のことだった。別所は仕事を終えて、岡田に遼子を自宅まで送り届けるよう言付けしてから高崎のもとへ向かった。 高崎の事務所は横浜にある。繁華街にほど近い雑居ビルにあった。エレベーターはなく階段で最上階である三階まで上がるしかない。これから顔を合わせる人間が誰か見当がつかないこともあり落ち着かない気持ちで一歩
2023年8月26日 00:22
「あら」 別所と揃って病室へ入るなり、ベッドで体を起こしていた富貴子がほほ笑みを向けてきた。「富貴子さん、こんにちは」「こんにちは、別所さん」 病院の廊下と病室を隔てるドアの前に立つまで別所を連れてきて良かったのか思い悩んだものだが、明るい声で挨拶を交わす二人の姿を目にし遼子は胸をなで下ろす。「何を手土産にしたらいいのか迷いましたが、富貴子さんが好きなスティックタイプの水ようかんにしまし
2023年7月23日 00:10
冬のちらし寿司、しかも新作ということで期待値が自然と上がったけれど、いざ届いた物を食べてみるといつもと変わらない気がした。が、遼子に言わせると違うらしい。「普通のちらしよりネタが小さくて食べやすいです。それに酢飯がさっぱりすぎてないからそれぞれの味が際立っていいですね」 ついさっきまでこわばっていた顔が、うまいものを食べてほころんでいく。それが嬉しくて、食べることより遼子の反応を眺めていた時
2023年7月22日 01:12
『お前は俺の妻だろう? 妻は夫をたてなきゃいけないんだよ!』 夫と妻は対等なはずだ。弁護士ならよくわかっているはず。『誰のおかげで売り上げが取れるようになったと思っているんだ!』 たしかに高桑から仕事を学んだから彼のおかげと言っていいのかもしれないが、クライアントに誠実な対応をするよう努力し続けた。その結果が売り上げに繋がっているのだと思っている。だから彼のおかげだけとは言えない。『お前が
2023年7月1日 04:12
『夫には病気のこと、黙っていてほしいの』 昨日面会した富貴子は、思い詰めたような顔でそう言った。しかし……、『でも……、別所さんはなにか気づいているようだから話して良いわよ、全部』 次の言葉を口にしたとき悲しそうにしていた。 富貴子が別所の名を挙げたのは、篠田からの突然の電話が理由だと言う。『夫から周年祝いのお礼状の書き方を聞かれたの。あの人、裏方の仕事まで手が回らないから誰かから言われ
2023年7月1日 23:24
『今日は僕が遼子先生を送るから』 そう告げたときの岡田の表情を思い返しながら別所は部屋を出る。 遼子が部屋を出たあとやって来た岡田に、篠田の妻・富貴子の病を堅く口止めした上で、入院している彼女の見舞いに二人で行くと告げたところ、戸惑っているような顔をした。 岡田が困惑するのも仕方がない。なにせ篠田のパーティー以降徹底して遼子と顔を合わせないよう彼と深雪に調整を頼んでいたのに、ここのところ予想
2023年6月25日 01:52
遼子が休みをとった翌日、別所はいつもの時間に出社して自分の席に着いた。机の上に置かれているファイルの山は「今日やるべき仕事」だ。一番上にあるものに手を伸ばそうとしたらドアをノックする音がした。「どうぞ」 声を掛けてすぐ扉が開いた。目線をそちらに向けると、ゆっくりと開いた扉の陰に遼子がいたものだから驚いた。別所は目を大きくする。「りょ、遼子先生? どうしました?」 慌てて席を立ったのは、遼
2023年6月17日 02:14
「……あの方はどなたです?」 立ち去る元夫の背中を、ぼう然としながら眺めていたら別所の声が耳に入った。我に返り別所に目をやると不安げな顔をしている。遼子は、どうしたものか立ち尽くしたまま考えた。が、「と聞きたいところですがやめときます。ところで岡田たちは? 御一緒していたはずですが」 急に話の矛先を変えられてしまい、遼子はうろたえる。「え……、あの……、先に行くよう……」 ビルから出た直
2023年6月18日 01:11
「社長、昨日は申し訳ありませんでした」 出社早々、岡田に頭を下げられて別所はきょとんとした。「三人でビルを出ようとしたらあの男が来まして、麻生先生に話しかけてきました。会社に来ていた人だと言おうとしたんですが、麻生先生の表情がこわばってて……」 昨日、自分が遼子に声を掛ける前の話だろう。 何が理由かわからないけれど「あの男」が現れたことで動揺した遼子のことが気がかりだったから、岡田は自分に
2023年6月24日 00:57
「では改めて挨拶をさせていただきます。高崎法律事務所代表、高崎憲吾と申します」 高崎は、人なつっこそうな笑みを浮かべて名刺を差し出してきた。「麻生遼子です。急に連絡を差し上げてしまい申し訳ありませんでした」 心苦しい気持ちで遼子は頭を下げる。「いえいえ、お気になさらず」 名刺を受け取ろうとしたら、高崎から満面の笑みを向けられた。「企業法務ができる方が来てくれたらいいなと思っていたので嬉
2023年6月11日 00:44
「社長、これお願いします」 出社したらコーヒーとともに小さな紙を差し出された。「これは?」 昨日の出来事の顛末を聞きたかったが、別所は岡田が差し出している紙に手を伸ばす。「昨日、麻生先生を自宅まで送り届けるために立ち寄ったたい焼き屋の領収書です」 領収書を受け取り、記載されているものに目を通す。遼子が住んでいるエリアにある店のものだった。「ということは、うまくいったんですね」 別所は
2023年6月10日 00:23
深雪とソバを食べ終え、店を出たら岡田とバッタリ鉢合わせした。つい別所がいるのではないかと目だけで辺りを見回したものの彼の姿はなく、ほっと胸をなで下ろしたと同時に決まりが悪くなった。「ぐ、偶然だな」「そ、そうね」 どこか芝居がかった会話が耳に入り岡田と深雪に目をやると偶然とは思えないような様子だった。心に広がる複雑な感情から二人に意識を向けて成り行きを見守っていたら、「そういえば、麻生先生
2023年5月28日 09:18
机の上に置いてあるスマホに目をやると、タイミングよくメールが来た。『遼子先生と一緒にビルを出ました。今日は駅前にある立ち食いソバのお店に寄ります』 深雪からの報告を読み終えてすぐ帰り支度に取りかかろうとしたら岡田の声がした。「メール来たんですね」「ええ。今日は立ち食いソバを食べに行くみたいです、二人で」 机の向こうで書類の山を整理している岡田に目線を向けると、ほっとしたような顔をしてい