12本のバラをあなたに 第二章-6
「社長、昨日は申し訳ありませんでした」
出社早々、岡田に頭を下げられて別所はきょとんとした。
「三人でビルを出ようとしたらあの男が来まして、麻生先生に話しかけてきました。会社に来ていた人だと言おうとしたんですが、麻生先生の表情がこわばってて……」
昨日、自分が遼子に声を掛ける前の話だろう。
何が理由かわからないけれど「あの男」が現れたことで動揺した遼子のことが気がかりだったから、岡田は自分に報告のメールを送ってきたに違いない。そう思った。
「それで?」
「……先生は、俺たちに先に店に行くよう言ったんです。ただならぬものを感じてはいたんですが……」
「そう、その後僕が遼子先生に声を掛けて、君たちがいるお店に連れて行きました。遼子先生から何か聞いてますか?」
問いかけると岡田は気まずそうな顔をした。
「いえ……、聞こうとしたんですがタイミングが……」
遼子のことだから、岡田たちが質問する隙を作らなかったのだろう。実際昨晩、岡田たちが待っている店に行くまで遼子は来訪者について何も語らず、篠田のパーティーで顔を合わせた高崎のことばかり聞いてきた。
「吉永も……、不安がっていました」
思案していたら岡田の声が耳に入った。深雪だけでなく岡田も不安なのかもしれない。そんな気がした。
「本音を言えば僕も不安だよ」
遼子は自身のことを語りたがらない。彼女を紹介した篠田もそうだった。その時点で自分と顔を合わせるまでの間にいろいろなことがあったのはなんとなく察したが、大人ならば様々なことがあって当然だと思っていた。しかし、昨夜の出来事がきっかけとなり、遼子と「あの男」との関係が気になって仕方がない。
「岡田、警備室に行って、おとといの画像をプリントアウトしてきてくれないか?」
「え?」
「今日の午後、篠田の会社に行く用事があるからそれまでに用意してください」
遼子が岡田たちに言っていたクライアントなら無理だが、彼女がかつて在籍していた法律事務所の人間ならば、そこと付き合いがあった篠田は「あの男」が誰かわかるかもしれない。偶然にも今日の午後は会う約束をしていたし話してみよう。そう決めて席に着こうとしたら、
「わ、わかりました。あと、社長……」
岡田が言いにくそうに話し出した。
「麻生先生、今日は休みです。吉永から聞きました」
「そう、わかりました」
もしかしたら高崎の事務所に行ったのかもしれない。ふいにそう思った。
深雪から聞いた話では、遼子はここを辞めたあとのことは何も決めていないという。そこに高崎からのオファーが来たのだから渡りに船だ。彼女も自分と同じくそう思ったから高崎が経営している事務所について聞いてきたのだろう。
はじめは自分と一緒にいる気まずさから気持ちをそらすためかと思ったが、遼子からの質問は高崎個人のことよりも彼が経営している事務所についてのものが圧倒的に多かった。
高崎のところなら大丈夫だ。篠田から聞いた話だと遼子は企業法務のエースだったようだし、こちらでも辣腕を振るっている。新しい職場で即戦力になるのは間違いない。遼子の活躍を確信し嬉しくなった一方でさみしさを感じた。
「じゃあ、今日の仕事を始めましょうか」
ぽつぽつと大粒の雨が落ちるように心に穴が開いていく。やがてそれは大きなものとなっていった。
あと一ヶ月で遼子はいなくなる。今まで何度も現実を突きつけられるたび感じたさみしさが今はとてもつらかった。
午後になり、岡田がプリントアウトしたものを携えて篠田の会社に向かった。
今日、篠田に会うのはずっと気になっていることを確かめたかったからだ。
親友であり戦友の会社が催すパーティーに参加したら、その数日後には必ず彼の細君から礼状が届くはずなのに今回に限って来なかったのだ。周年祝いの宴に彼の妻がいなかったこともあり、何かあったとしか考えられなかった。
もしも病気ならば見舞いに行かねばならない。それに自分と同じように礼状が届かないことが気になっている人間もいるかもしれないし、まずは篠田に確かめてから何をするべきか決めようと思っていたのだった。だが、
「妻は仙台にいる娘夫婦のところに行ってるんだよ。お産が近いから」
篠田はあっけらかんとした顔で言った。なるほどそれなら仕方がないと一度は納得したけれどすっきりしない。なぜならパーティーに参加できずとも礼状は手配できるはずだからだ。
篠田から周年祝いの話を聞いたのが二ヶ月前。招待状は一ヶ月前に届いている。そのあたり遼子は篠田の妻からパーティーの話を聞いたと言っていた。その時点で、娘のお産を手伝うために仙台へ行く予定になっていたのならパーティーに出席できないと遼子に言うだろうし、礼状の手配だって済ませるはずだ。ということは、それから急に仙台へ行った可能性が非常に高い。なにがあったのか気がかりだけど、篠田の様子を見る限り自分に話したこと以外知らないようだった。
「篠田、ここに映っている男に見覚えはないか?」
気を取り直しパーティーの礼状を大急ぎで出すよう伝えたあと、持参したものを差し出した。会社の受付にいた男を指差したところ、篠田は目を大きくしたが、すぐに表情が曇ったものだから嫌な予感しかしない。不安を抱きながら篠田の口が開くのを待っていたら、彼は苦み走ったような顔で電子タバコを吸い始めた。
篠田がタバコを吸うのは、気持ちを落ち着かせるためだ。付き合いが長いからわかっている。何回篠田は長い息を吐いただろうか。待つしかできない別所は、煙がくゆるなか険しい顔で篠田を注視し続けた。
「それはいつのものだ?」
「一昨日だ」
「そのとき遼子先生は会社にいたのか?」
「え?」
突然遼子の名前が出たものだから驚いた。別所は目を大きく見開く。
「いや、もう帰ったあとだった。遼子先生を訪ねてきたんだが――」
「その男は……、遼子先生の離婚した夫だ」
話を遮られるように告げられた言葉が耳に入った直後、別所は言葉を失った。
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