12本のバラをあなたに 第二章-11
『お前は俺の妻だろう? 妻は夫をたてなきゃいけないんだよ!』
夫と妻は対等なはずだ。弁護士ならよくわかっているはず。
『誰のおかげで売り上げが取れるようになったと思っているんだ!』
たしかに高桑から仕事を学んだから彼のおかげと言っていいのかもしれないが、クライアントに誠実な対応をするよう努力し続けた。その結果が売り上げに繋がっているのだと思っている。だから彼のおかげだけとは言えない。
『お前が大変そうだからいくつか俺が担当してやろうと思ったことのなにが悪い』
だからと言って、自分の悪評、しかも事実ではないものをクライアントに言っていいわけではない。
『別れてほしい、だと? なら事務所を辞めろ。現在のクライアントとも手を切れ。弁護士を辞めろ』
離婚したら今の事務所を辞めなければならない理由はわかるが、どうして弁護士を廃業しなければならないのかがわからない。だが、結局その問いは言葉にできなかった。
高桑は尊敬できる指導弁護士だった。弁護士になったばかりの頃の自分に企業法務の実務を一から教えてくれて、親身になって相談にも応じてくれたから信頼が愛情に変わるまで時間はそう掛からなかった。男と女の関係になったあとも彼への尊敬と信頼は変わらなかったから人生のパートナーになることも迷わなかった。が、それからまもなくのことだ。夫だった男の言動が目に余るようになったのは。
前月の売り上げが一番になったあのとき「これを偶然にしないよう頑張れ」とそれまでトップだった高桑は激励してくれた。が、翌月また一番になって彼は変わってしまった。事務所や家ではふだん通り良きパートナーではあったけれど、自分がいないところで夫だった男はけしからぬことを画策していたようだった。
「遼子先生、着きました」
別所の声が耳に入り、遼子は現実に引き戻された。
記憶から消してしまいたい過去を振り返っているうちに別所の自宅があるマンションに着いたらしい。いまだこわばったままの身体が重く感じてならず、遼子はのろのろと車から降りた。
「お寿司は十分後に届くようです」
「そう、ですか。でも……」
高桑から自分を離すためとはいえ、別所に迷惑を掛けてしまったのだ。心苦しい気持ちに耐えきれず口を開いた直後、
「あなたが僕に申しわけない気持ちになる必要はありませんよ」
「え?」
「だって、お礼として食事に付き合っていただくんですから。さあ行きましょう」
ほほ笑まれた直後、手に温かいものが触れた。それが別所の手だと気づいたときにはもうギュッと握られていたものだから遼子はうろたえる。
思う相手に手を取られているのだ、本音を言えば嬉しかった。でも、状況が状況だけに喜べるはずがない。しかし、ともすれば過去のつらい記憶に捕らわれてしまいそうな自分を、別所の温かい手が前に前にと促しているように思えてならなかった。
リビングに入るなり、自分の手をずっと握っていたものが離れた。柔らかなぬくみが徐々に消えていくとともに一度は収まった高桑への恐れがぶり返し、遼子はその場に立ち尽くす。目線の先では、別所がコートとジャケットを脱いでいた。
「まずは……、お茶でも飲みましょう」
こちらを向いた別所と目が合った。視線が重なってすぐ別所が真面目な顔になる。
「遼子先生」
「は、はい……」
「今日のお寿司は新作のようです」
「え?」
「注文の電話をしたら、来月のランチ用のちらし寿司を作っていたからちょうど良かったと言われまして」
「え、ええ……」
「だから今日のお代はいらないとのことです。ラッキーですね、僕たち」
別所から笑顔を向けられたとき、富貴子から言われたものが脳裏をよぎった。
別所は優しい。おそらく自分をリラックスさせようとしているのだろう。ふだんの自分ならば甘えるわけにはいかないと足を踏ん張ってしまうところだが、今の自分にはその気力がない。
高桑の相次ぐ来訪のせいで、時間を掛けて心の奥底にしまい込んだはずの過去を思い出すことが増えた。そのたびにつらい記憶に捕らわれそうになるのを理性で押しとどめてきたけれど限界というものがあり、今日まさに苦しい日々の思い出に飲み込まれ掛けていた。
もしもあのとき別所が来なかったらどうなっていただろう。また昔のように何も言い返せないままだっただろう。それを考えると急に心苦しい気持ちになったが、申し訳ないと言葉にしたところで別所は喜ばない。ならば……。
「そう、ですね。ラッキーですね」
今は別所の優しさに甘えよう。そう心に決めて遼子は別所にほほ笑んだのだった。
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