見出し画像

日常を照らす表現に出会えるということ

なぜ、私たちは小説や映画に触れるのか

この間、友達と電話をしていて、小説や映画を読む理由について話していた。(その友達と話していると大体、抽象的なテーマになることが多く、お互いの価値観を深く知ることができて楽しいのだけど、会話をしていて、第三者の話(共通の友人のうわさ話とか、有名人のゴシップとか)が全く出てこないのも、我ながらすごいなあと思っている(笑))

それはさておき、その友人と話していて、私は人が小説や映画を嗜む理由は多分大きく分けて2つあるのではないかと思った。まず1つめは「ストーリーがしっかりしている作品を読んで、非日常を味わいたい。」というもの。そしてもう1つが、「描写の細やかな作品を読んで、そのシーンを日常に投影したい」。というものだ。SFやミステリー作品をよく読む友人は前者だと話していて、一方江國香織や綿矢りさなどを好んで読む私は後者かな〜と思っていた。

Twitterで見つけた、雰囲気が似ている作家さんを分類した表⇩。これを見るとわかりやすい。(私は大抵左下を手に取り、友人は左上を好んで読むらしい)


日常を照らす描写は、きらりとひかる一文とともに描かれる


今日はAmazon Primeで「めがね」という作品を観た。

この映画の舞台は、綺麗な海が広る小さな町。気の利いた観光地など一つもないその町にある小さな宿・ハマダを起点に、物語が始まる。

ある春の日、都会の生活に疲れたであろう女性、タエコがやってきた。住人たちの距離の近さや、海辺でぼうっとする癖(たそがれるのが得意な人たち と劇中では表現されている)に慣れないタエコだったが、住人たちとの暖かな交流を経て少しずつその町に馴染んでいく。

中でも特に印象的だったシーンが2つある。

「梅はその日の難逃れ。朝出かける前に梅干しを食べると、難を免れるんです。」

住人たちの馴れ馴れしい態度に中々慣れない彼女にハマダの宿の店主が送った言葉だ。
温かそうな白いご飯の上に、手作りの梅干しを乗せて、箸で口に運びながら明るく言う。

もうひとつ、なかなかたそがれることができないタエコに送られた言葉、

「春の海、ひねもすのたりのたりかな」

これは与謝蕪村が詠んだ詩で、「うららかな春の海が、一日中ゆったりと寄せては返し、寄せては返している」という意味。穏やかな春の海の情景と、そしてそれをぼんやり眺めながらまどろむ様子を読んだものだという。

この「めがね」という作品は、太いストーリーや起承転結があるわけではないけれど、私は、日常生活に戻って、朝ごはんに梅干しを食べた時や、海辺に座っているときに、このきらりとひかるセリフを思い出すんだろうなあと思っている。これはまさにシーンを日常に投影する行為だ。

小説や映画は、娯楽なんだから、そんなにもの苦しく考えずに、ただその瞬間を楽しめばいいのよ。と言うシンプルな考え方をもつ人(私の母)もいるから面白い。家にいることが増えた今だからこそ、「なぜ小説や映画を観るのか」について多方面から意見を聞いてみたいな〜。

GW中に、たくさんの本や映画に触れた。これからも作品を通して日常を照らす表現に出会いたいし、自らも誰かの日常を照らすような文章や記事を書いていけたらいいなと思った1日でした。GWも残すは2日。


この記事が参加している募集

私のイチオシ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?