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英語も勉強も嫌いな私が初海外でセブ島に5ヶ月留学していた話。【後編】


留学のすすめとか旅のすすめとか、そういうことをしたいわけじゃない。
ただ、すでに興味を持っている人が、経験者の話を聞けたら。
何より私自身が一つも形にしないまま忘れていくことが嫌だから。
だから、長くなりそうだしまとまるかわからないけれど、話してみよう。


前編はこちら


言語学習に順番ってあるんだね。 「聴いて」、「話して」、「読んで」、「書く」。


なんで、日本の英語教育はスピーキングをやらないんだろう。もはや、わざと日本人を海外進出させないようにしているんだろうか。


留学生活が始まってから、こんなことを思いついてしまった。しょっぱなからこんなことを書いて「自国に喧嘩を売ってんのか」と思われそう。追放されそう。それはシンプルに勘弁して欲しい。日本好きだから。


前編でも書いたように、私は

・インプット(文法を学ぶ授業)

・アウトプット(フリートークなどテキストを見ずに話す授業)

・発音

の3種類の時間をつくって授業を受けていた。

CROSSxROADの話をすると、月曜から木曜は1コマ2時間、金曜日は1コマ1時間。土日は休み。私は1日3コマのプランだったから、基本的には1日6時間の授業を受けてた。

ちなみに、最初は3コマやるのがしんどすぎて後悔していた。バッジメイトとか、最初の方に仲良くなった人は2コマの人が多かったから「バカまじめやな、頑張れ〜!笑」って笑われてた。けれど、結果としては3コマでよかった。3種類の学び方をまんべんなくできたのと、自習とかできないから、強制的に学ぶ時間が長いほうが私には合っていた。


今まで、学校の授業をなんとなくうけていたから、「本当に何も考えていなかったわ。」と思ったんだけど、

子供は、言語を学ぶとき、まず、周りにいる人の話し声をひたすら聴く。そこから聴いた音をそのまま真似する。ひとつの音から、1ワード、1文章と。

そして、英語は、超初歩的な話だけど、日本語と発音の仕方が違う。日本語は、母音は「あいうえお」の5種類だけど、英語は母音だけで15種類もある。

その微妙な音の違いを聴き取るには、自分が言えるようになる必要がある。

言えない音は、聴き取れない。

確かだと思った。

LとRの違いとか、一文字違うだけで全然違う言葉の意味になるけど、聞いても違いがわからなくて「いやわからん、どっち?笑」ってずっと言ってた。でも、自分で言えるようになると、微妙な音の違いがわかるようになってきて感動してた。


音を覚えた子供は、読めるように字を覚える。そして書く練習をする。

日本語は、発音の種類はひらがな、カタカナの数とほぼ同じだから、その二つが言えるようになれば、だいたい小学生になった頃からは、あとは読んで書いてきたと思う。

でも、思えば、かれこれ20年ほど日本語を使っているけど、未だに知らない言葉とか、読めない漢字もある。

そう考えると、短い時間で英語をマスターしようなんて無理にもほどがある。笑

けれど、言語を学ぶ順序がわかったから、より発音とか話すことに力を入れるようになった。

たった1音でも全然発音ができなくて、先生に何度「難しい!!(もはや日本語)」って言ったことか。できたつもりになってても、「違うよ〜笑」って何回も直してもらったり。たった5文ほどの短い文章を綺麗な発音で読むために、2時間くらい1人で夜練習してたし。

基本的に授業中は書くことがほとんどなかったから、とにかく、話して、音を覚えてた。それで、あとで字を覚えて、字を理解した上で今度はまた、話して使えるようになる。そのループ。

それを、ワードから、文章へとシフトしていく。

アウトプットの時間では、簡単な疑問文を答えて、今度は問いを言って。それも全部話して覚えていた。だから、聴き取る力と、問いに答える力と、話す力全部鍛えてた。すぐ眠くなるから、寝ぼけすぎてよくキレられてた(仲良いからこそね笑)あとは、フリートークに近い感じでテーマに沿ってひたすら話す。

日本語も、文法のルールなんて小学生になってから、後から学んだと思う。だから、それと同じで、「こんなシチュエーションではこうやって話す」というパターンを数個、まずはそのまま覚えていた。

その構文を、インプットの授業で文法のルールなどを理解する。そしてまたアウトプットの時間で理解した上で話す。どんな文章なのか理解していたら、今度は違う言い方でも言えるようになってくる。


人と話すというのは、「聞き取って」、「内容を理解して」、「返事を考えて」、「返事を話す」という段階を踏んでいる。そのためには、「音を理解できること」、「ワードを理解できること」、「ワードが組み合わさってできた文章を理解できること」、自分の「文章を作って伝えられること」が必要。


その段階の中に必要な勉強を、まずは単純な文章を使ってトレーニングしていたという感じ。


英語嫌いによる日本での英語学習は意外と役に立っていた。


前編にも書いたけれど、今までやっていた英語のテストを赤点から逃れる方法は、ひたすら文字の暗記。

「あやはいろんな単語を知っているよ。それが話す時に使えるようになったらいいね!」

って、ある時先生に言われた。

文字を、音と画像として覚えていたんだと思う。

だから、文字を見て、読んだら「なんか聞いたことあるなー」っていう単語がたくさんあった。

苦手なことを、最低限だけれどやっていたことが役に立つということに気づいた。0じゃなかっただけ、意味を後に作れたことを褒めよう。

引き出しの中は空っぽなわけではなかった。引き出しを瞬時に開けて、使いたい言葉をパッと取り出す訓練をしていなかっただけ。

持っているものを使ってみる。それを使わないと、相手からは持っていないと認識されるのと同じ。


あれ、成長した?と思えるまで1ヶ月半くらいかかった。


初めのテストで、スピーキングで本当に何も言えなかった。「??」ってひたすらなっていた。授業が始まってからも、聴き取れないし、聴き取れても相槌も返事も言えないし、はじめ一体どうやって授業をやっていたのか覚えていない。笑

「とりあえず何か言ってみて。自信持って話してみて。間違っていても私が正しい文に直してあげるから、大丈夫だよ。できるよ。」

こんなことを、先生から何度も言われていた。

1ヶ月くらい、何も変わらない自分に焦りを感じた。

焦ったところでどうにもならないともわかっていたし、「成長を感じるには、だいたい、1ヶ月くらいかかるよ、多分1ヶ月半くらいたつと面白くなってくるよ」と言ってもらって、ただ、早くその時が来て欲しいって思ってた。

そして、「日本語だったらもっと話を広げられたのに」、とか、「このタイミングでこう伝えたかったのに」、というところでパッと伝えられないことがずっともどかしかった。

先生のことがすごい好きだったから、私の中では「この人たちともっと話したい」というのがずっとモチベーションだった。

1ヶ月半くらい経って、授業も慣れてきて、怠惰な私は飽きが始まってきた。先生ともだいぶ仲良くなって、だらけやすくなってきた。

そんな時、ワークショップと個展をやる機会をもらって、授業を休んで準備することもよくあった。けれど、そんなこともあり、前よりもフリートークをすることが増えた。

そして、声をかけてもらい、インターン生として学校のスタッフの一員になった。

生徒の時は基本的に毎回同じ先生だったのが、毎週変わるし、仕事としてもいろんな先生と話すことが増えた。

自分の思うことを英語で話すことが増えて、自分が英語を話す時間が増えて、普通に会話をすることや、仕事として英語で会話することが増えた。


ふとした時に、「あれ?なんか、話せるようになった?」と気づいた。

最初のインプットを我慢して行って引き出しに中身を詰めた後、「自分ごと」として英語を使うようになったときに、引き出しから自分で出して使えるようになった。


「コミュニケーションがとれる」ということは、「言葉や文章を知っている」ということだけではない。


話すことに対する積極性。自信。質問に合った返しが浮かぶこと。など。

言葉というのは、伝達や表現手段の一つにすぎない。その手段を、どんな時に、どのように使うか、何を選ぶかによっては、どんなにいろいろな言葉を持っていても相手には伝わらない。

恐れて自分を表現しなければ、他人から見たら、「何も考えていない」のと同じだ。持っているもので表現すること。使うこと。そこで初めて他人に認められる。


コミュニケーションをとることを恐れていたら、言語を使えても使えなくても関係ない。「コミュニケーションをとりたい」という姿勢が見えにくい人には、人は集まってこない。

本当に初歩的なところから勉強している人でも、使える言葉や文章が少ない人でも、なぜか周りに外国人が集まってくる、友達をすぐ作る、なんて人もいる。

それは、話したいという想いを行動に示しているから。学ぶきっかけや場を自分で設けているから。その場で、アウトプットとインプットをしているから。


英語を使いたい、英語で誰かとコミュニケーションを取りたいという姿勢がないのなら、英語を学ぶ必要はない。


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「始める」きっかけを、「続ける」に繋げるには、新しいきっかけを。


前編に書いた通り、留学に来たきっかけは

英語が話せるようになりたいのは、外国人と話したいから。

というシンプルな理由だった。

でも、留学に来てから、「授業をしてくれる先生ともっと話したい」というシンプルだけど具体的になって、いつも目標は目の前にあった。

そして、学校外にも日本人の友達が住んでいて、そこに遊びに行って英語を使うこともあって友達もできたから「英語を使う友達ともっと話したい」ということもモチベーションになった。

前編で書いたけれど、最初の単純でシンプルな理由が、私にはとても重要だったというのは、続ける理由にもなっていったから。

少し話せるようになって、先生ともフリートークもかなりするようになって、

最初は「単純に英語を使えるようになりたい、話したい」だったのが、

「もっと、具体的に今思うことを伝えたい」

「自分が日本語で思っている文章により近い表現で、英語を使って言いたい」

になった。

例えば、日本語だったら、敬語なんかも1つの例になる。同じ意味の文章でも、言い方や選ぶ言葉によってニュアンスが異なったり、ふさわしい対象相手が変わる。だから、英語も、もっと自分の中の引き出しを増やして、いろんな表現を使えたらなと思うようになった。

たまにスピーチをやったり、日本語の歌詞を先生に英語で訳してあげたりした。

その時、まず自分が日本語で言葉を考えたり、解釈したものを、使える英語で表現していた。

「こういうシチュエーションでどう言ったらいいの?」とか、「こういう風に言いたいんだけど、なんて言葉を使えばいいの?」ときくことも。前はそもそも質問の仕方もわからなかったけど、質問できるようになって、自分が伝えたい表現がうまくできないときはそんな感じで質問していた。

そうやって、英語を自分のコミュニケーション手段、自分の言葉にしようとしていた。一つの言語しか使えなかった自分からすると、今までにない体験。

その根底にあるものは、変わらず、「言語が異なる外国人と話したい、コミュニケーションを取りたい」という理由だ。


「始める」きっかけから、「続ける」きっかけへ。変わってもいい。単純でもいい。その時、確実なものとしてあればいい。


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言語が通じないって、都合が良い。


英語で外国人とコミュニケーションが取れることの楽しさを知った。

それと同時に、わからない言語で話している人たちが周りにいることも日常になった。

英語もそうだけど、フィリピン人たちには母国語があるから、その言語も日常的に聞いていた。

気づかないうちに、不思議な感覚が磨かれていた。

何話しているかはわからないけど、なんとなく、感情や状況がわかる。多分、バカにしてるなあとか、悪口言ってんなとか。しょうもないこと言ってるよなとか。

でも、それは、詳しいことも真実もわからない。

慣れた旅人が、なんとなく「この人怪しいな」と感じられるようになるのはこういう感覚なのだろうか、なんて思う。

外国人とコミュニケーションが取れるようになると、外国人の嫌なところも見えやすくなる。

時には、コミュニケーションを少しとれる私には直接伝わることもある。

「言語が通じないって、都合いいな。」

見えなくてもいいこと、聞こえなくてもいいこと。知らなくてもいいこと。

世界を広げるということが、必ずしもいいこととは言えないのは、こういうことだと思う。

もちろん、国民性や、一人間として、自分以外の全人類は自分ではないから、考え方や人生が全く同じなわけではない。

時にはこんなことを感じられたのも、きっと外国で暮らしていたおかげ。

私が生きる世界は、全て、自分事であり、他人事。


嫌にならないように、簡単なことから少しずつ。


そういえば、大学で「スモールステップ法」というのを学んだことがある。

自分にとって難しいこと、簡単なことを見極めて、簡単なことからやっていくこと。自信を持つ、とかモチベーションを保つ、とかそんなことに繋がる。


日本で、初っ端から英語というものに向き合うことに挫折し、嫌いになっていた私も、留学に行って、マイペースに向き合う時間を作ることができた。

逃げたいときや挫折しそうになったときは、先生に励ましてもらったり、喝を入れてもらったり。

「できない、わからない」は「やりたくない」へ。
「できる、わかる」は「もっとやりたい」へ。

簡単なことから、少しずつ、「できる、わかる」という感覚を磨いていく。

そして、また、「できない」という壁にぶつかる。その乗り越え方を、自分で知っておくこと。助けが必要なときは、助けも使うこと。それも、乗り越え方の一つ。


日本で、たまに数回、外国人と会うことがあった。

そのときは、自分は話せないから話しかけないでくれというオーラを出すか、自分しかいないときは翻訳ツールを使って、どうにかコミュニケーションをとって、話せない自分に悔しくなっていた。


話すということを「恐れていた」私が、留学に来てから、「もっと話したい、話せるようになりたい」という私に進化した。


恐れていることに対して「思い切ってやってしまえ!」と何でもかんでも頭ごなしには言いたくない。やってみたい気持ちが確実にあるのなら、簡単に、少しずつできる方法を探して使ってもいい。挫折だけが成功の要素になるわけではないから。でも、始めるときは、思い切りも必要かもしれない。


今、好きなことと嫌いなことを合わせてみる。嫌いを好きに呑み込ませみる。


モチベーションはどうにかあったし、日々なんとなく成長してる感はあって、もっとできるようになりたい

とは言っても、私が勉強をするのが嫌いなのは相変わらずだし、怠惰なのも相変わらず。いつ飽きてやめるかもわからないし、なんなら日本に帰ったらすぐかもしれない。


「英語に強制的に触れる時間を増やす」

これが私の何よりの課題だった。

生徒さんは日本人だし、授業や日中、先生と話す以外は日本語を使っていた。もちろんスタッフとしてのタスクもあったので、生徒さんよりかは自分の時間をとるのが難しかった。


英語を学ぶということに向き合っていて気づいたのが

「好きなことに繋げて学んでいる時なら割と頑張れる」

ということだった。

自分のことについて話す時間、何かについて議論する時間、映画や動画を見る時間、音楽を聴く時間とか。

だから、積極的に先生やハウスキーパーたちに話しかけたり(ちょっかい出したり)、フリートークしたり、スピーチ作ってみたり、TED(スピーチの動画)を見たり、洋画をみたり、日本語の歌詞を英訳したり。いろいろやってみてた。


さらに、英語を学んでみていいなと気づいたことがあった。

それは、

英語という言語自体だけでなく、「日本語だけ探していたら得られない情報」が得られたり、「経験によって言語の壁を超えた新しい自分の感性や感覚を磨くことができること」

というものだった。

時には仕事として話をきいたり、それを伝えないといけないことがあった。そんな時、日本語になっている情報を待っていても遅い時がある。

外国の情報を集める、外国人とコミュニケーションを取る、外国人と仲良くなる、深い話をする。そんな時に言語の壁に負けない強さというものを持とうとしている。


話すのが好き。コミュニケーションを取るのが好き。アートや表現、暮らしを通して人や誰かの人生を知るのが好き。
その行為を行う手段を増やすために、嫌いな英語を克服してみる。
それが、自分にとって新しい「楽しい」「面白い」を発見できるきっかけになった。


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外国を知って、また、自国を好きになる


英語を学んでいて思ったのは、「日本語って面白いな、素敵だな」ということ。

まだ、英語を学び始めたばかりだから、まだまだ全然言葉を知らないけれど、

日本語は遠回しな表現を使ったり、見えている言葉だけでなくその裏にある言葉さえも見える。


「アートのように、相手に、解釈を委ねていることがよくある」、と思う。

短歌とか、俳句とか、短い言葉に深い意味があったり、

ひらがな、カタカナ、漢字、これを使い分けることでもなんとなく、深い意味合いが変わったり。

「月が綺麗ですね」が「愛しています」という意味なんて、なんてロマンチックなんですか。(実際言われたら多分冷静に困るけど)


とはいえ、英語にそう言った表現がないわけではない。ただ、私がまだまだ英語の表現を知らないだけ。きっとたくさんある。


日本語の柔らかい感じ、凛とした感じ、言い方や書き方次第かもしれないけど、でも、日本語を使って話すのも好き。

英語が話せるようになってみて、英語を話している自分が好きなことにも気づいた。できなかったことができているから楽しいだけかもしれない。

これからもっと話せるようになった時には変わるかもしれない。


けれど、今、この感覚を得られたことが、何よりの収穫。

外国人と話すの楽しい。英語が使えるって楽しい。留学楽しかった。


そして、5ヶ月海外で暮らしてみるというのも面白かった。

毎日騒がしい。止まないクラクションの音。痛いくらいの紫外線。フィリピン人は歌と踊りが好きで、仕事中も歌っていたり。朝から大音量で外から音楽が聞こえてくるのも暗黙の了解。怠惰なところもあって雑だったり笑っちゃうくらい適当。貯金できなくてすぐお金使っちゃったり。人見知りをあんまりしなくて、タクシーとかよく話しかけてくれたり。家族や友達をとにかく大事にしてるところとか本当に素敵。毎日のように、小さいことでも褒めてくれて人に自信を与えてくれる。だからこそなのかもしれないけど、自分に自信があるように見えるし、目の前の幸せに貪欲で、HAPPYな人たち。

貧富の差が激しいし、別にどこもかしこもボロボロの場所とか汚いわけでは無いけど、ボロボロの場所もたくさんある。

でも、人生が、シンプルだけど「豊か」そうだった。

市場にはみたことの無いいろんな種類の果物が食べられたり肉も魚もでかい塊でおいてあったり。BBQ大好きで肉ばっかり食べてたり。

ボロボロのトライシクルに乗るのが大好きだった。

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逆に、日本の四季って素敵だなって思った。寒いのは嫌いだけど、寒くて寂しい冬を越えた後の春、桜に喜ぶのとか感動するって四季があるからかもなとか思ったり。

私には、正直日本の「おもてなし精神」が息苦しく感じる時もあるけど、それができるのもすごいことだなとか。あとは衛生的で綺麗なのって最高。笑


初めて、外に出て、内の良いところを再確認する。そして、外の良さも知る。


日本も、セブも、好きだよ。

暮らしてみるって、面白かった。またセブに帰りたいけど、次は、他の国でも暮らしたい。


他にも、細かく話したらいろんなことがあったけど、これくらいで。


これが、英語も勉強も嫌いな私が初海外でセブ島に5ヶ月留学していた話。


嫌いなものも、好きになることができて、嫌いなままでも、好きと一緒にやることができる。
何と、いつ、どう向き合きあってみるか。

それは、いつだって、自分の自由だよ。




Aya.

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