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【短編小説】徒情

「拝啓って書くのって」
「ん?」
「だから、手紙でね」
「あ、灰が落ちるよ」
 おっと、と慌てたのも束の間、彼女は灰皿の上までそっと煙草を運ぶと、丸い灰皿のふちをトントンと叩いた。太鼓の達人で言う『カッ』の部分。三回ほどカッを鳴らし、仕切り直しとでも言うように煙草を一口吸うと、口に含んだ煙を僕の顔に向けて吐き出した。とっさの煙幕に対応できずに咳き込む僕を彼女は笑いながら眺めたあと、さっきの話をもう一度切り出した。
「拝啓って元々の意味を辿れば、謹んで申し上げますっていう畏まった言葉じゃん?」
「あぁ……うん」
「でも本当に畏まりながら手紙を書き始める人なんていないじゃん。なのにバカみたいに拝啓はいけいハイケイ……って、この世で最も形骸化した挨拶だと思わない?」
「そういうものでしょ。大抵の物事なんて惰性で続けてるだけで、自分がやってることに本質的な意味を見つけたり考えたりする人はいないよ」
 木造アパートの地上二階。その一室には換気扇の音と、煙草を吹かす二人の呼吸音、時々家の前を通る原付バイクのエンジン音だけが響く。こんな無駄話をするのにうってつけの穏やかで静かな昼下がりだった。
「まー、それもそっか」
「それを言うなら」
「ん?」
 僕らだってそうじゃん、と喉まで出かかった言葉は言えなかった。言いたくなかった。
 依存しているだけだって、逃げているだけだって、口に出して認めてしまうのが怖かったから。慌てて別の言葉を探して、さっきまで見ていたYouTuberのコメント欄が思い浮かんだ。
「……草だってそうじゃん。笑いながら草って打つ奴なんていないし」
「草?」
 きょとんとした声で彼女が言う。
「草って言うでしょ、ネットとかで」
「あー、よく分かんないけどたまに見るね。あれってどういう意味なの?」
 ルーツから全てを語ると長くなるので、出来る限り要約しながら説明した。
 いや、本当のことを言えば、ネット黎明期に源流を持つ現代のネットスラングを丁寧に解説するのが気恥ずかしくて、加減したというのが正しい。あたかも、オタクが蔑称でなくアイデンティティーとして扱われ始めた2010年以降のネットのことしか知りませんよ、僕はディープなオタクではないですよ、という顔をしたくなるのは、未だに当時の迫害の歴史が色濃く脳裏に焼き付いているからだ。
 彼女は色眼鏡で人を見ないと知っているけれど、それでも怖いものは怖い。
 僕の説明を一通り聞き終えると、彼女は興味深そうに僕を覗き込んだ。
「私は君と一緒に過ごせて、草だよ?」
「……使い方間違ってる」
「あれ?」
 それから、僕らはもう一本だけ煙草を吸って解散した。厳密に言えば、彼女が帰っていったというだけで、解散なんて大げさなものじゃない。憎らしくもここに住んでいる僕は、彼女が居なくなったこの部屋で、次に彼女に会える日を待ちながら息をするだけの日々に戻った。

 * * *

 次に彼女に出会ったのは、その翌日のことだった。待ち合わせたわけでもないし、待ち伏せしたわけでもない。もちろん、待ち伏せされたわけでもない。
 本当の偶然も、どちらかが強く望んでいたのなら運命っぽさを帯びるもの。僕は思いがけず出会ったことに驚きつつも、どこか『やっぱりか』と納得していた。
 僕が彼女に出会ったのは、僕のアパートの二階の廊下。
 もっと言えば玄関のドアを開けてすぐ。目の前に、彼女は居た。
 何度かぱちくりと瞬きをして、先に声をかけたのは僕のほうだった。
「あ、えっと、昨日ぶり。今日って呼んでないよね?」
「うん偶然だね」
 やけに棒読みだ。
「偶然で部屋の前に立ってることってあり得る?」
「ん、草だね」
 ほんのりとパッション屋良を思い出してしまうイントネーションだった。
 不意に、彼女の視線が僕の顔から下に落ちる。
「どこか行くの?」
 滅多に外出しない僕がそれなりにまともな格好をして外に出たからか、しげしげと全身を眺めてくる。視線を無視してドアを閉め、地上に繋がる階段へと進む。
「駅前の本屋まで行こうかと思っただけだよ。ついでに買い出しも済ませようかなって」
「一緒だ」
 しれっと言い放ち、とてとてと駆け寄ってくる。
「そんなわけないでしょ」
「今そう思ったんだから、嘘じゃないよ」
「百歩譲ってそうだとしてもさ」
 振り向いて、階段の途中にいる彼女に言う。
「なんでウチに居たのか教えてよ」
 彼女は気まずそうに目を伏せて立ち止まる。
 言ってから気付く。きっと僕はしくじった。
「……ウチって言っても、住んでるのは君だけじゃないでしょ?」
 その一言で全てを察する。
 居たんだ。
 このアパートで、僕以外にも彼女を指名した男が。
「昨日、部屋を出てすぐにね、アパートの住人さんとばったり会って。しつこく話しかけてくるからお店の名前を教えたら指名されて。さっき終わったところ」
 ひと息に吐き出してから、だから言いたくなかったのに、と眉根を寄せる。
 僕に向かって一瞬だけ非難めいた視線を向けたあと、彼女は何もなかったように言った。
「そうだ、本屋で買う本は決めてる?」
 言いながら、ナチュラルに僕の横を歩いている。
 この話はもう終わりということだろう。有無を言わせぬ圧力があった。
 それはそうと、このまま一緒に行くつもりなのだろうか。僕はと言えば、さっきの衝撃の事実にまず頭が追い付いていなかった。
 とりあえず口に無造作に言葉を詰め込んで、吐いた。
「なんにも。なんかいいのがあったら……って感じで」
「じゃあ合コンってこと?」
「はい?」
 意味が分からずに聞き返す。
「欲しい本を決めて本屋に行くのってお見合いっぽいじゃん? でも決めずに行くのって合コンみたいじゃない?」
「なるほどね。合コンに参加した経験がなさすぎて何言ってるのか分からなかった」
「草」
「使いこなすのやめて」
 彼女の気遣いのおかげで僕は少しいつもの調子を取り戻して、他愛もない会話をしながら駅の方へ向かった。
 結局本屋での合コンではお持ち帰りが叶わなかった。新作の平積みコーナーはピンと来なくて、それならと洋書をいくつか手に取って眺めていると、彼女に「かっこいい」と揶揄われたので買うのをやめた。
 シェイクスピアを本棚に戻すとき、彼女が小さく「本当なのに」と吐き捨てたように聞こえたけれど、空吹く風と聞き流した。
 勘違いしたくない。
 今日はもうすでに一度しくじっているんだ。気を付けなければ。

 本屋を出ると、すでに日は暮れかけていた。
「じゃあそろそろ買い出しを済ませようかな」
 スーパーの方へ向かおうと歩き出した瞬間、彼女に服の裾を掴まれる。
「歩き疲れた」
「じゃあ……帰る?」
「ちょっと休んでいこうよ」
「休むって言ってもさ」
「ちょっと休憩するだけだから、ね?」
 休憩と聞いて連想される光景が、いつから木陰や水筒ではなくなってしまったんだろう。休むどころか激しい運動をすることを休憩と紐づけてしまうのは、大人になってしまった証拠なんだろうか。
 ぐるぐると脳裏を回る欲望のメリーゴーランドは速度を上げ続け、摩擦で発火しそうなほどに熱い。よし休憩しようか、と鼻息荒く向き直ると、彼女は古びた平屋のお店を指差して言った。
「あの喫茶店は?」
 もちろんだ。休憩と言えば喫茶店と相場が決まってる。自分を慰めるための言い訳も虚しくメリーゴーランドは急減速し、さっきまで嘘みたいに熱かった頭はさっぱり冷え切っていた。
 そうは言っても、僕は彼女と過ごす時間を少しでも長引かせたかったから、飲むのが生唾だろうとコーヒーだろうと大差はない。本当だ。目の前に彼女がいるなら、どこだってテーマパークだ。上機嫌な彼女に連れられる形で、僕らは往来を突っ切ってお店のドアを開けた。
 傍から見れば、僕らは恋人同士に見えるのだろうか。
 通行人の視線がいつもより気になって、落ち着かない。
 分かりやすく言えば、この状況に浮かれていた。
 オフの彼女と出会ったのはこれが初めてだった。
 舞い上がっていた。
 思い上がっていた。
 見誤っていた。
 だから、聞かなければよいことまで聞いてしまったんだと思う。

 窓枠にはめ込まれたステンドグラス越しに通りを眺める。道行く人影が移動するのに合わせて、透過するガラスの色が変わっていく。右から、赤、青、黄、緑と変化して、左側へ通り過ぎていく。
 こうやって肌の色にもっとバリエーションがあれば、何かが変わるのだろうか。きっと何も変わらない。
 などと身の丈に合わないことを考えるのは現実逃避をしている証拠だと分かっていた。
 彼女は今日、ついさっきまで、僕のアパートに住む知らない男と口づけを交わした唇を引き延ばして、僕に笑いかけて何事かを喋っていた。唇を構成する細胞の一つひとつは彼女のものなのに、表面に張り付いているのは知らない男の粘液だ。
 そんなことなら、彼女の可愛い細胞ごと、一つ残らず燃やし尽くしたい。煙草に火を着けて、そのまま揺れるライターの火の向こうに目をやる。無邪気にメニューを眺める彼女を、焼きたかった。
 彼女のぷるりと潤んだ唇が、水分が蒸発する時の小さな破裂音をぱちぱちと鳴らしながら真っ黒に焦げていって、皮膚も肉もぽろぽろと零れ落ちたら、彼女の唇があったはずの場所にキスをしてあげたい。それこそが純粋な行為で、誠実さで、愛情だ。
 そう思った時、僕の口は勝手に開いた。
 もしかすると、彼女の唇を燃やさずに済ませられるように。
「あのさ」
「んー?」
 メロンクリームソーダとコーヒーゼリー風のドリンクの二択で迷いに迷いながら、彼女は曖昧な返事をした。
「名前、なんて言うの?」
 ぴくりと身体を固め、メニューで隠れていた顔をゆっくり覗かせる。
 その目を見たとき、全身から汗が噴き出すのを感じた。一瞬で正気に戻る。
 恥ずかしさに似ていた。後悔よりも、焦りよりも、恥辱。運動会で一人だけフライングをして、そのまま制止も振り切って一人で走り切ってしまったような、何もかもを逸脱したことの恥ずかしさが背中に舌を這わせてねっとりと僕を舐めまわしていく。
 僕はたった今、客としての立場を逸脱した。彼女の纏う空気が変わったことでそれがはっきりと分かった。分かってしまった。
 源氏名じゃない、本当の名前を尋ねるということ。その意味は少なからず彼女にはバレているし、あとは彼女の返事を待つしかない。
 つまり、彼女が僕の逸脱を許してくれるか否かを待つだけだ。
 口角を下げ、無表情のまま僕を見つめる彼女は、怒っているようにも悲しんでいるようにも見えた。いつものように何でもない軽口を叩いてくれることを祈っていると、自分の生唾を呑み込む音がやけに大きく聞こえた。
「名前って何?」
 飛び出したのは、ある小説の有名な一節だった。
 さっきまで本屋で読んでいた洋書がフラッシュバックする。
「……きっと僕はロミオにはなれない」
「なりたいの?」
 少なくとも僕が今まで見たことのない視線だった。
 眼は光を受け取るのが仕事のはずなのに、彼女の眼はその逆で、光の銃口としての役割を担っているように見える。その目で、光で、彼女は僕を撃ち抜いた。
 即答できない自分が歯がゆくて、情けなかった。
 僕は彼女のことを何も知らない。
 勤めているお店だとか在籍歴だとか、そういう表面的なことは良く知っている。何かを喋るときに、思いついた悪戯を打ち明ける子供みたいな表情をすることや、唐突に突飛なことを口走るのは真っ当な話の始め方を知らないからだってこと、そういう本質的なことも良く知っている。
 でも、その間を繋いで彼女の骨子を構成する『人間』としての部分を、僕は何一つ知らない。
 たとえば、名前。その人の親がどんな想いで付けた名前なのかを知らないということは、その人の心の形を、愛の定義を知らないことと同じだと思った。
 彼女の問いに答えるなら、きっと、名前を知ることにも意味はある。
 そう伝えようとした瞬間、注文もせずにぶつ切りの会話を続ける僕らにしびれを切らしたのか、苛ついた様子の店員が注文を取りにやってきた。促されるままに僕はブレンドを、彼女はメロンクリームソーダを注文した。店員の無遠慮さに今回ばかりは感謝してしまう。
 さっきの言葉を伝えてしまったら、決定的な断絶に繋がる可能性があったから。
「のぞみ」
「え?」
 呆れた様子でため息を吐いて、彼女はもう一度口を開いた。
「私の名前が知りたかったんでしょ?」
「でも、それって」
 のぞみという名前は、源氏名と同じだった。
 一瞬、遠回しに拒絶されたのかと思ったけれど、彼女は「あぁ」と思いついたように呟き、顔の前で手を振った。
「私ね、本名でやってるんだよ」
「本名で? なんで?」
「気になるなら変えようか? ジュリエットでもなんでもいいよ」
「それは勘弁して」
 彼女はやっと相好を崩し、メニューを閉じた。
 そして、ずいと身を乗り出して僕を見た。
 何度も眺めた彼女の瞳。今はもう銃口は見つからない。
「ねぇ、どうして名前が知りたかったの?」
「……呼びたかったから、っていうのは、理由にならないかな」
「うん、なる。で、本当はもうその望みは叶ってた。呼んでるのに勝手に呼んでなかったって思ってたのは君のほうじゃない?」
「確かにそうだ」
 僕は何度か彼女をのぞみと呼んだことがある。源氏名として。
「一周回って、名前を呼ばせないようにしてたのも君だろ」
 たとえ本名を呼ばれたって、相手が本名だと思っていないと分かっていたなら、そこには呼ぶという行為の本質は含まれない。彼女は客の心理的な死角という一番安心できるところに自分の名前を隠していた。
「どうしてそうまでして名前を隠していたのに、打ち明けたの?」
「呼ばれたくなかったから、っていうのは理由になる?」
「もちろん」
「じゃあ、君に名前を教えた理由も分かるよね?」
「……」
「なんで照れてんの」
 照れているというより、戸惑っていた。
 フライングをして、そのまま走り去って、規定違反で無効試合になるかと思いきや一着を取ってしまった気分だ。喜んでいいのか謝ったほうがいいのか、判断できない。
「ついでだし、私のこと、ちゃんと話した方がいい?」
「話したくなったときでいいよ。無理に聞き出したいとは思わない」
「そう? 気にならないの?」
 そりゃ気になる、と返すと彼女は愉しそうに笑った。
「でも、それこそ聞く必要があるとは思えない。知ったって、知らなくたって、君の香りはそのままなんだし」
「ロミオで草」
「最悪なジュリエットだな」
 彼女はまた笑って、それから僕を真っすぐ見つめた。
「連れていってくれる?」
 彼女は演技がかった口調で言う。僕は彼女に手を差し出した。
「……喜んで」
 僕の手に彼女の指先が触れる、その瞬間。
「お待たせしました」という声に顔を上げると、ウェイターがコーヒーとクリームソーダを運んできてくれた。店員の無遠慮さに今回ばかりは舌打ちしてしまう。
 恭しく礼をして去っていく彼の後姿を見送ってから、なんとなく僕らは無言で飲み物を飲んで、お店を出た。それから、なんとなくスーパーで買い出しを済ませて、帰り道ではなんとなく手を繋いだ。なんとなく家に着いて、なんとなく一緒にご飯を作って、食べた。その後もなんとなく一緒に寝て、なんとなくセックスをして、なんとなく朝が来た。
 確かなことは、ずっとずっと、温かかったってこと。ただそれだけだった。

 翌朝、目が覚めると彼女は既に居なくなっていた。
 見慣れたシングルベッドは几帳面に一人分の空白と彼女の残り香だけを残して、がらんとしている。昨日の全ては都合の良い夢だったのかと疑いながら冷蔵庫を開けると、昨夜の残りのおかずが丁寧にラップをかけられた状態で並んでいる。
「……食べるか」
 適当に温め直して、居間と呼ぶのも憚られる空間に座って食べる。
 味覚が、嗅覚が、昨夜の温かさを真似て僕に溶け込む。全く同じ味なのに、決定的に何かが欠けている。そんな気がした。
 綺麗に食べ終えると、換気扇の下に潜り込んで煙草を吸った。一昨日より明らかに多い吸い殻。そのうちの半分は彼女のものだった。
 フィルターにリップの赤が着いていない彼女の吸い殻を見て、ようやく昨日のことが現実の出来事だったのだという実感が湧く。そして、気付く。僕は彼女に恋をしていた。客としてではなく、人間として。
「連絡先、聞いとけばよかったかな」
 女々しい独白を吸い込んだ換気扇は一段と激しく回り、僕の独り言を煙と一緒にこの街へばら撒いた。火を消して支度を済ませ、外に出る。
 今日は彼女の出待ちはなく、その代わりに、一枚の紙切れがはらりと足元に落ちた。
 大家がドアに貼っていったのだろうか。いずれにせよドアに貼り付けられる紙が良い報せを告げるわけがない。憂鬱な気持ちで紙を拾い上げると、一瞬息が止まった。
 大家からの報せだったら、どれだけ良かったか。
「なんだ、これ……」
 切り裂くほどの筆圧でルーズリーフいっぱいに書かれた罵詈雑言。
 それは風俗狂いだとか、犯罪者予備軍だとか、僕に宛てたものばかりだったが、いくつかよく分からない言葉も混じっている。
「アバズレって……男に言う言葉じゃないだろ」
 そう呟いて振り返ると、手に持っているものと同じような貼り紙がドアにびっしりと貼り付けられていた。夜のうちに誰かが張ったのだろう。
 犯人はこのアパートの住人か。彼女は巻き込まれてないか。なぜ僕に嫌がらせをしてきたのか。他に被害はないか。
 絶句しながらも考えを巡らせる。とにかくこのままにはしておけないと、全てを剥がして読んでみることにした。
 やはりどのルーズリーフも一枚目と同じように好き勝手な文句が羅列されていて、ほとんどが僕に向けたものだけれど、ところどころに僕宛てじゃない文句が散りばめられている。その一つに目が留まる。
「希望……きぼう?」
 おどろおどろしい字体に最もふさわしくない単語だった。
 その次の瞬間には、僕の中で何かが繋がった。
 これは彼女の源氏名だ。よく見ると希望を中傷する文言も散見された。
「じゃあこれは、僕と彼女に宛てたもの? だとしても、誰が」
 耳を劈くような着信音が響き、慌ててスマホを確認する。
 このアパートを管理する不動産会社からの着信だった。
 耳に当てると、何度か聞いたことのある声が聞こえた。
『おはようございます、皆川不動産の佐藤と申しますが』
「ええ、お世話になってます」
 佐藤は事務的な口調で僕に次のような内容を告げた。
 住人から激しいクレームが入っていること。内容は伏せるが公序良俗に反すると判断されていること。クレームが止むまで部屋を空けて欲しいとのこと。
 つまりは、退去勧告だった。
 貼り紙のことを伝えても、クレームを入れた人間のことは明かせないし、トラブルになる前に穏便に済ませて欲しい、の一点張りで取り付く島もない。とはいえ、急に追い出されてくれと頼まれても行く宛はない。ごねるつもりはなかったけれど、事情が全く呑み込めない。
 話し合いの末、一週間だけは待ってもらえることになったが、それ以降は一日も待てないとのことだった。
 戸惑う僕に対して思うところがあったのか、かつてこの仕事を始めた頃の初心を思い出したのか、理由は分からないが佐藤は電話を切る直前に小声で僕に言った。
『このアパートには、大家さんの親戚の方が住まわれてるんです』
 その一言で合点がいった。
 こんな横暴がまかり通るのは十中八九その親戚がクレームを入れたからで、何の因果か僕はその親戚とやらに目を付けられてしまったらしい。そして立場上、僕は泣き寝入りせざるを得ず、猶予として残された一週間で身支度を整えてこの部屋を去らなければならない。
 次に僕の脳裏をよぎったのは、希望の二文字だ。
 このアパートに大家の親戚がいることすら知らない程度にはご近所付き合いをしていなかったし、それ故にトラブルとも無縁だった。つまり、これまでの僕の生活態度を鑑みても、クレームを入れられる謂れはどこにもないはずだ。
 考えられるのは、彼女を指名したもう一人の住人というのが大家の親戚で、僕はその親戚から恨みを買った。理由は、希望にまつわる何か。
 筋は一応、通っている。となれば気になるのは希望の安否だ。
 僕はすぐに彼女のお店に電話をかけた。
「希望は今日はお休みをいただいてます」
 ボーイの雑な報告だけでは安心できない。僕は一か八か、状況を説明してみることにした。もちろん、伏せるべきところ――僕が彼女とオフで会ったこと――は上手くぼかした。
 電話越しの彼は、初めこそ相槌もまばらだったけれど、次第に事の重大さに気が付いたのか、相槌のペースを速めていった。ついに僕の説明を上回る速度で相槌を打った直後、彼はとうとう口を開いた。
「実を言うと私たちも困っているんです。無断欠勤してるんですよ、希望さん。こんなことは初めてで、何か心当たりはありませんか?」
 彼女の安否を確かめたかっただけなのに、逆に頼られてしまう始末だった。
 心当たりと言われても、そんなもの、一つしかない。
「いったん探してみますけど、期待しないでください」
 そう伝えて電話を切ると、すぐに踵を返して外に出た。本当は一刻も早く電話を切りたかったのだと気付く。不安で胸が潰れそうだった。
 僕のせいで、彼女にもしものことがあったら。昨夜の夢みたいな温もりを一生失うことになったら。それが怖くて、振り払うように廊下を駆ける。
 一番端の部屋の前まで来ると、ドア横の表札入れに視線を向けた。
 数年前に交わした契約書で見た、大家の名前。その苗字には確か宮だったか富だったか、そんな漢字が入っていたはずだ。微かな記憶を頼りに二階全部の表札を見て回るけれど、空振りだ。
 誰も表札なんて掲げていなかった。
 確かに、こんなご時世に名字を張り出すなんて時代錯誤も甚だしい。
 次に思いついたのは一階の郵便受け。築六十年を超えるアパートだからか、各部屋のドアには郵便受けが備え付けられていない。その代わり、一階に住人全員分の郵便受けがあった。そこを見れば、住人の名字と部屋番号が分かる。
 そう気づくや否や、階段を転げ落ちるようにして下へ降りる。郵便受けに激突しそうな勢いで飛びつくと、端から端まで目線を動かした。
『宮本』
 一階真ん中の部屋に住む人の名字だった。
 宮本。大家はそんな名前だった気がする。
 半信半疑。だが、背に腹は代えられない。
 藁にも縋る思いで宮本の部屋のチャイムを押した。安っぽい機械音が鳴り、中から物音が聞こえる。
 冷たい汗が背筋を伝った。
 がちゃり。ドアノブが回る音がする。
 真っ暗な部屋の奥から、一人の男が器用に顔だけを覗かせた。首から下は暗闇に呑まれて確認できない。
 緩慢で、あらかじめ決まった空間をなぞるような男の動きは暗い地中の巣穴から顔を出す蛇のようで、一瞬たじろぐ。
「なんですか?」
 宮本は鬱陶しそうに僕を見下ろす。身長はゆうに百八十センチを超えているはずだ。
 ひょろりとした体躯に曲がった背筋。無理やり首を伸ばして胡乱な目を向ける姿は、まさに頭をもたげた蛇そのものだった。
 上ずりそうな声を必死で押さえていることが悟られないよう、気持ち低めに声を出す。
「あの、希望って知ってますか?」
 一瞬だけ宮本の目が見開かれたのを見逃さなかった。
 こいつは何かを知っている。
 僕の中の何かが急騰して、次の瞬間には彼の胸倉を掴んでいた。
「あの子をどこにやった? ここにいるのか?」
「し、知らない! 一体何の話?」
 とぼけるな、と叫んだ僕は宮本ごと部屋に押し入る。
 僕が言えた義理ではないけれど、殺風景な部屋だった。僕の部屋と一つだけ違う点は、宮本の部屋の中に大量の衣服が散乱していたということ。
 それも、全て女性用の衣服だった。
 宮本はやけに高い声で悲鳴を上げ、必死に衣服をかき集めて隠そうとした。半狂乱になりながら、床に這いつくばる宮本を見てようやく気付く。
 宮本が今着ている衣服は、昨日、希望が着ていたものと全く同じだ。
 さっと血の気が引いたせいか、足がふらつく。
 ふくらはぎに力を入れてなんとか踏ん張り、部屋の中を見回した。
 ここに希望の姿はない。
 絶叫しながら服を抱きしめている宮本を残して風呂場を開けるも、中はもぬけの殻だった。他に部屋はない。叫び続ける宮本の髪を掴んで持ち上げた。
「希望はどこに行ったんだ」
「いや、見ないで……!」
 宮本は涙を流しながら首をぶんぶんと振り乱す。僕の話を聞ける状態ではなさそうだったけれど、もはやそれどころではない。希望の身に何かがあったのは確かだった。
「お前の趣味に興味はない。それより貼り紙をしたのは、お前か?」
「う、ううぅぅぅう」
 獣のような唸り声を上げ、僕を睨む。宮本は今にも噛みつきそうな表情で僕に吠えた。
「あなたが悪いんでしょ……ずっと、ずっと見ていたのに。横取りされるなんて、ひどすぎる!」
「横取り? 一体何の話をしてる?」
 宮本はその場に膝から崩れ落ちて、泣いた。
 そして、呆けるような言葉を口走る。
「あなたのことが……好きだった」
 一瞬訳が分からず、身体が固まる。
「は?」
 さっきまでの緊張も忘れて、素っ頓狂な声が漏れる。宮本は混乱する僕に構わず続けた。
「一目見たときから、好きだった。なのに。あの女に、あんな女に……」
 崩れ落ちた姿勢のまま、万力で握った拳で床を殴りつける。
 一発殴るたびに、建物全体が揺れるような音が響いた。宮本の拳には血が滲み、殴るほど畳に赤い染みが広がっていく。
 痛みを感じていないわけではなさそうだったが、それを理由に殴るのを止める気配もない。
 なんとか羽交い絞めにして宮本を止める。そのまましばらくは暴れていたものの、泣き疲れたのか、アドレナリンが切れて痛みが増してきたのか、宮本はぐったりとうなだれると消え入りそうな声で謝罪した。
「取り乱して、ごめんなさい」
「……いや、こっちこそ怒鳴り込んじゃって申し訳ない。それで、さっきの話だけど」
「私については、見てのとおり」
 ショート丈のスカートの裾から伸びる逞しい足。毛は綺麗に処理されているものの、太ももやふくらはぎに付いた筋肉から察するに、紛れもない男の肉体だった。
「気持ちも、さっき話したとおり。たまたまおじさん……ここの大家に会いに来た時にあなたを見かけたの。それで頼み込んで、この部屋に住ませてもらった」
 両手を広げて、宮本は「殺風景でしょう?」と笑う。
 あなたの他には何もいらないと言いたげな部屋。今日、僕が足を踏み入れたことでこの部屋は完成したらしい。正直、居心地が悪かった。
「それで、希望は」
「彼女があなたの部屋から出てくるのをたまたま見かけたの。気になって問い詰めたらデリヘル嬢だって言うもんだから。安心半分、落胆半分って感じでね」
 そして、その翌日に希望を指名したという。
「どんなメイクや服装がいいか、相談に乗ってもらおうと思ってね。独学だったから女の意見が欲しかったってのもあるし、あなたの好みも知りたかった。でもまぁ、結果はこのザマ。好かれるどころか胸倉を掴まれるんだから」
 そう言いながら宮本は服の裾を摘まんで見せた。
「悪かったよ。でも、相談って、そんなことのためにデリヘル呼ぶか?」
「その言葉、そっくりそのまま返してあげる」
「……」
「とにかく彼女と会ったのはそれっきりだから、今どこで何をしているのかは本当に分からないの」
「じゃあ質問を変える」真っすぐ宮本の目を見た「僕の部屋に貼り紙をしたのは、あんたなのか?」
「それは……本当にごめんなさい」
 どうして、と聞くより先に宮本は口を開いた。
「この部屋、あなたの部屋の真下でね。分かると思うけど壁も床も薄いから聞こえてきちゃって。ねぇ、考えたことある?」
 宮本は耳を押さえるようにして、頭を抱えた。
「夜中に好きな人の声がしたと思ったら、その人は別の異性の名前を呼んでいて、夢中で盛ってるの。軋む音だけじゃない、声だって、聞きたくもない水音だって聞こえてくる。耳を塞いでも、指の隙間から入り込んでくる。響いてくる。そんな地獄って味わったことある?」
「……いや。無いに決まってる」
 でしょうね、と嘲笑交じりに言い放ってから宮本は続けた。
「分かっていても、気が付いたら気持ちを抑えられなくなっちゃって。夜中、あなたたちが盛ってる間に貼りつけて、おじさんにクレームを入れたの」
「おかげで僕はここを出ていくことになったんだな」
 宮本は口角を上げて言った。
「それはしょうがないじゃない。私は大家の親戚だもん」
「めちゃくちゃだな」
 勝手に引っ越してきて逆恨みをして、それで出ていけだなんて、横暴過ぎる。
「その割に、あんまり残念がってないじゃない」
「別にここを追い出されることは構わない。もともと愛着があるわけでもないし。気になってたのは希望のことだけなんだ」
「妬いちゃうわ」と宮本はため息を零し、一枚の封筒を差し出した。
「なんだ、これ」
「昨日来た時に希望が置いていったの。あなたに渡してくれって」
「……は?」
 どうして?
 直接渡せばいいのに、宮本なんかに預けたんだろう。
 疑念が晴れずに受け取るか迷っていると、宮本は無理やり封筒を握らせた。
「ほら、もうこれで話は終わり。これ持って出てって」
「いやその前に、希望の居場所に本当に心当たりは」
「ないから。そんなに気になるならその封筒を開けて、目ん玉かっぽじってよぉく見てみれば」
「ちょっ……」
 嘘みたいに強い力で押し出され、そのままドアの外に放り出される。
 鍵の閉まる音を聞いて、とりあえずは自室へ戻ろうと階段を上った。

  * * *

「あれで、良かったの?」
 衣服が散乱した部屋に男の声が響く。立て付けの悪い襖をがたがたとこじ開けて、一人の女が這い出てくる。その女は、奇しくも男と同じ服を着ていた。
「はい。お世話になりました、宮本さん」
「本当にね」
 女は嬉しそうに笑った。
「結果的には憎まれ役まで買ってもらっちゃって、ありがとうございます」
「やっぱりあんたムカつくわぁ」
 男は大きく目を見開き、女を指差して言う。
「いい? 憎まれ役を買ったんじゃなくて、憎まれることをしたの。自分の意思でね。そこにお礼は不要なの」
「そうですね。でもお礼を言うのは私の勝手ですし。ありがとうございます」
 ふん、と鼻を鳴らして男は顔を逸らす。
 女はその姿を見て、また笑った。
「さて、私もそろそろ行かなきゃですね」
 よいしょ、と立ち上がろうとした女を男が呼び止めた。
「その前に教えて。なんで急にこの街を出ていくなんて言い出したのか」
「えー、言わなきゃ駄目ですか?」
「駄目よ。憎まれ役買ったんだからそれくらい教えなさい」
「さっきと言ってること違うじゃん」
「当たり前じゃない。性別も二つ混ざってるようなもんなんだから、主張も混ざって当然」
「めちゃくちゃで草」
「うっさいわ」
 女は神妙な面持ちで座り直すと、ゆっくりと口を開く。
「私はもともと、親の借金が理由でこの仕事を始めたんです。地元じゃ田舎すぎて稼げないってことで、出稼ぎでこっちに来てて、本当だったらもっと早くこの街を去るはずだったんです。だけど、この業界で働く人間として、絶対にやっちゃいけないことをしました」
「情が移った?」
「ええ。もっと有り体に言えば、ただのお客さんだった彼のことを好きになっちゃって。これまで温かさなんて感じたことのない人生だったから、離れられなくなったんですかね」
「ふぅん。それで?」
「お客さんっていう一線だけは越えないようにしてたんですけど、とうとう初めてオフで出会っちゃったんですよ。宮本さんのせいで」
「人のせいにすんじゃない」
「でも半分は本当でしょ。あ、そういえば私、その前日に彼から草って言葉の意味を教えてもらったんですけど」
「は? 大麻ってこと?」
「大麻? 急に何言ってるんですか?」
「あんたこそ何言ってんの」
「もう話戻しますよ?」
「こっちがおかしいみたいになってるの、腑に落ちないわ」
「とにかく。その日に彼の言葉を聞いて、お客としても人間としても、こんな依存した状態はもうやめようって決めたんです」
「なんて言われたの?」
「大抵の物事なんて惰性で続けてるだけ。自分がやってることに本質的な意味を見つけたり考えたりする人はいない、って」
「それが図星だったからやめたくなったってことね」
「でも、やっぱり寂しくなって。宮本さんが私を指名してくれて、相談に乗った後に、ほんのちょっとだけ家の前を見ていこうって思ったら……」
「ばったり出会っちゃった、と」
「ただの偶然なのに、頭で分かってても運命だって錯覚しちゃうんですよね。喜んでるのがバレちゃいけないって、隠すのに必死でしたよ」
「ねぇ、あんたそれ嫌味? 嫌味よね?」
 そんなまさか、と女は笑うが、男は全く笑っていなかった。気にせず女は続けた。
「だから昨日は、最後の夢だって思って甘えてしまいましたね、正直。あぁ、あったけーって思って。このままずるずる一緒に過ごせたらどれだけいいかって。それでも何とか誘惑を振り切って扉を開けたわけです」
「で、そこには私が貼った大量の貼り紙が……ってね」
「怖かったですよ。でもお話したことがあったから、すぐに犯人が宮本さんだって分かりました。あと、貼り紙を見る限りめっちゃ怒ってたし、ちゃんと私は居なくなるから心配しないでって伝えなきゃって」
「その常時上から目線なのは直せないワケ?」
「ええ、無理ですね。あぁでも宮本さんに上から目線なんじゃなくて、基本的に人類に対して平等に上から目線なんです」
「そう。ならいいわ」
「まぁでも、そのまま宮本さんとお話してたら、さっき彼が怒鳴り込んできたわけですから、びっくりしました」
「……妬いちゃうわぁ」
「妬かれたって困りますよ」
 女は消え入るような声で、ぼそりと呟いた。
「もう、叶わないんですから」
 男は無表情で女をしばらく見つめた。そして何事かを口にする。
「ほんと、ムカつくわ。あんた」
「え?」
 ぱん、と乾いた音が鳴る。女が自分の頬を打たれた音だと気付いたのは、少し経って頬が痛み始めた頃だった。大きな目をぱちくりさせながら男を見る。男の唇は寒さで震えるように小刻みに揺れていた。
「共依存? 本質的な意味? 体のいい言い訳並べて逃げてるだけの臆病者が、カッコつけてんじゃないわよ。鬱屈した現実が気に食わないのは結構だけどね、一回でも本気で戦ってみた?」
「知ったようなことを、言わないで」
「でも言うのは勝手なんでしょ?」
「……ムカつく人」
「お互い様」
 女は黙って男を見つめる。
「私はね、遠慮なんてしない。腹が立てば腹いせをするし、特権を使って追い出す。窮屈すぎるこの身体に私を押し込めた神は何があっても許さないし、勝手な色眼鏡を押し付けるバカな人間のことも滅ぼしたい」
「そんなの、ただの逆恨みじゃん」
「恨みたくなかったし、今でも恨まずに済むなら恨みたくない。だけどそれ以上に、私は私の気持ちを押しとどめてまで他の連中に足並みを揃えるなんてまっぴらごめんなの。整ってるやつは整ってるやつ同士で仲良くやればいい。でもハナっから弾き出されてる人間には、こうして反旗を翻してでも好きに生きるくらいしかやることがないじゃない」
「……話にならない。それじゃあ周囲の人間に迷惑をかけるだけじゃない」
「別にいいのよ。私みたいなのはそうやって学んでいくしかない。むしろ初めから臆病になって、迷惑のかけ方を学べないまま年を食っていく人間のほうが恐ろしくて仕方ないわ。世界はそんなに狭量じゃないのよ」
「あのさ。結局、宮本さんは何が言いたいの?」
「あんたみたいに、人間ってのをちゃんと学べなかった人間こそ、わがままを言って、迷惑をかけるべきだってこと。そうやって学んで、初めて人として生きる資格を得られるんじゃないの?」
「そんなことして本当に弾かれたら、もう本当に終わりじゃん」
「それこそ、元居た場所に戻るだけでしょ。だから元々真っ当な人間でしたみたいな面で偉そうなことを言うのはやめて、まずはあんたなりのズレた人間ってのを始めてみなさいよ」
 女は何も言わずに俯いていた。
 男はその姿を見て、母親のような笑顔を浮かべるとそっと頭を撫でた。
「それが叶うと思ったから、好きになったんでしょ?」
「……うん」
 部屋に一人分のすすり泣く音が聞こえ始めると、それを追いかけるようにもう一つのすすり泣く音がこだました。二つの音はしばらく止まず、狭い部屋の中で鳴り続けた。

 * * *

 やけに広く感じる自室に足を踏み入れると、僕宛の悪口が大量に書き殴られているルーズリーフの山が目に付いた。これを宮本が書いたと思うと、居た堪れない気持ちになる。
 僕は彼の気持ちに応えられない。
 宮本に手渡された封筒を丁寧に開ける。中には一枚の便箋が折り畳んだ状態で入っていて、指でそっと押し広げるように開く。
 丸く、平べったい、少し潰れた文字の羅列が目に入る。
 それは紛れもなく希望が書いたものだった。手紙の前半には僕への想いの吐露が、後半には自責と謝罪が、最後にはこの街を出ていくつもりだと記されていた。
 なんとなく、そんなことだろうと思ってはいた。だって、僕にとって都合が良すぎる。いずれどこかへ行ってしまう人。それでなくとも、僕はお客で、彼女はデリヘル嬢だ。
 初めから間違っていた。
 それをさらに間違えたのは他ならぬ僕で、彼女も少しだけ間違えてくれたから実現した、一夜だけの恋だった。
 奇跡と呼ぶには淡すぎて、偶然と呼ぶには濃すぎる時間。
 徒情と呼ぶにふさわしい関係だった。
 こんなに丁寧な手紙を置き土産にくれたんだ。
 十分過ぎるくらいだ。
 余分に貰いすぎたから、溢れた気持ちが堰を切ったように目から流れていくんだ。
「欲張りすぎたんだよなぁ」
 もし次があるのなら、決して溢れさせないようにしよう。
 欲張らずに生きていれば苦しまずに済む。
 こんな思いをせずに済む。僕の気持ちと彼女の気持ちを、涙に変えて捨てずに済む。
 感情もSDGsの時代だ。持続可能な人生を生きよう。
 そうしよう。
 そうしたかった、のに。
 築六十年越えのアパートの床板はよく軋む。
 それこそ、僕より華奢な希望の体重をかけただけで簡単に音が鳴る。
 ちょうど、いま聞こえているような、軋んだ音が。
「なんで、いるんだよ……」
「読んでくれた? 私の手紙」
 僕に負けず劣らずの掠れ声を震わせて、彼女はどうしてかそこに居た。
 ふっと部屋の温度が上がったような気がした。
「どこで、何してたんだよ。心配でお店にも電話しちゃったよ」
「お茶してたんだ」一瞬空いた間を縫うように付け加える。「友達と」
「無断欠勤してまで?」
「社会より大切なことを教わったから」
「なんだよ、それ」
 次の瞬間、ふわりと好きな香りが漂った。次いで温かな感触が僕の身体を包む。
 目の前にいたはずの希望が、今は僕の腕の中に居た。
 手放したくない、零したくない。それだけを考えていたはずなのに、気付けば彼女の背中に腕を回していた。潰れてしまうくらい強く、その身体を抱きしめる。もう僕らの間には言葉も答え合わせも必要ない。
 しばらくそうやって抱きしめ合っていると、さっきよりもずいぶん落ち着いた様子の希望がくぐもった声を上げた。一瞬、苦しいのかと思って焦ったけれど、次第にその音は言葉としての意味を持ち始める。
「希望って、名前がね」
「うん」
「ずっとしっくりこなくてさ。無責任に押し付けられた呪いだって思ってた」
「呪い」
「だから、希望を抱けない自分が、たまらなく嫌だった」
 僕の胸元に顔を押し付けて、彼女は泣いていた。鼻声のまま続ける。
「汚されたくて、何も感じないくらい麻痺させたくて、源氏名に使った」
「うん」
「けど、出会ってしまった。ただ名前を呼んで欲しいって思える声に」
「うん」
 僕も、泣いていた。
「もう何も手放したくないし、失いたくない。怖いけど、怖いからって逃げたくない。自分の名前からも、気持ちからも」
「ねぇ、希望」
「うん?」
「名前って何?」
 彼女は少し黙って俯くと、不意に顔を上げた。
「願いかな」
 人が持ちうる最良の財宝の名を冠した彼女は、その名にふさわしい温度で、笑った。その顔を見て、もう彼女は大丈夫なんだと直感的に分かった。
 安心したからか、ふと、彼女に言わなければならないことを思い出す。
 おもむろに希望の肩を掴んで身体を離すと、不思議そうな表情で僕を見上げる彼女と目が合った。
「一つだけ言わせて」
「……なに?」
「あれだけ形骸化だとか言ってたのにさ。拝啓、使ってるじゃん」
「あ……ほんと」
「しかも、書き忘れてる」
 トントン、と便箋の下の部分を指で叩くと、希望が覗き込んで顔をしかめた。
「あぁ……。ペンある?」
「あるよ、はい」
 手近なところにあったボールペンを手渡すと、彼女はそれを受け取ってから僕にゆっくりと一礼しながら口を開く。
「これからよろしくお願いします」
 つられて僕も深々と頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「これで形骸化は免れたね」
 そう言って彼女は笑った。そのままいそいそと便箋の最後の行に次の二文字を書き足した。
『敬具』

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