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インド文化を創出したムガル帝国の皇帝たち

皆様こんにちは。
本田拓郎(Takuro Honda)と申します。
この記事へお越しくださいまして、ありがとうございます。

 このnoteでは、今現在観光業に就いている私が、私の目線で、「観光・旅行・歴史・文化・教育」について、知識や新たな発見の提供、その他自論を展開し、古代ギリシャでいう「アゴラ」のような場所を目指します。私が勉強していることを皆様とも一緒に学ぶというスタイルで、記事を創っていきます。

 かつてインドは、イスラム系のムガル帝国という王朝が支配していました。その時代の文化は今なお強く残っており、美しいインド文化を形成しています。そんな世界に誇るべき文化を創出した、3人の皇帝が残したものを見ていきましょう。

拙い文章力と乏しい考察力ではありますが、
最後までお付き合い、お願いいたします。

1.アクバル

 そもそもムガル帝国の興りについて、1526年に、ウズベキスタン出身で、カブール周辺を支配していたバーブルが、当時インド周辺を支配していた、ロディー朝をパーニーパッドの戦いで勝利し、礎を築いたことに始まります。

 大きく発展を遂げたのは、3代皇帝アクバルの時代でした。先代のフマユーンが亡くなり、なんと、13歳で即位したアクバルは、摂政の援助もありながら、版図を拡大することに成功します。

 即位して9年経った、1565年から、アクバルはムガル帝国の首都だったアーグラに、巨大で堅固な城塞の建設を始めます。アーグラ城です。赤砂岩の城壁に囲まれていることから、「赤い城」を意味する「レッド・フォート」と呼ばれています。

 アクバルが残した功績の1つは、ムスリムとヒンデゥー教徒の融和政策です。ヒンドゥー教徒に対する課税制度である「ジズヤ」の撤廃が好例でしょう。実は建築や、都市設計においても、その政策を垣間見ることができます。

 アーグラ城内に唯一現存する、アクバル期の建物である、ジャハーンギール宮殿は、イスラム世界のペルシア建築とインドのヒンドゥー建築が混在する造りとなっています。

 また、彼が築いた都市である、ファテープル・シークリーにおいても、同様の建築が見られます。「勝利の都」を意味するこの街にある、ジャーミ・マスジドという寺院は、イスラム様式とインド様式を融合させた建築となっており、こちらもアクバルの政策の象徴的存在です。

 アクバルのこの融和政策が、ムガル帝国を世界最大のムスリム国家の形成と、美しいインド文化の開花の足がかりになったということは言うまでもないでしょう。

2.シャー・ジャハーン

 アクバル以後のムガル帝国は、政治的安定期を迎え、すさまじい繁栄を遂げることになります。そんなムガル帝国の黄金期を築いたのが、5代皇帝のシャー・ジャハーンでした。

 以前の記事でも登場したので、ご存じの方も多いと思いますが、愛妻ムムターズ・マハルのための霊廟である、タージ・マハルを建設した人物ですね。彼はそれ以外にも、美しい建築を残し、ムガル帝国の繁栄ぶりを世界に発信しました。

 その1つが、デリーにある、「レッド・フォート」です。あれ...何か聞き覚えないですか?そう、先ほどのアクバルの項で紹介した、アーグラ城の渾名と同じですね。何を隠そう、シャー・ジャハーンがデリーに建設したレッド・フォートは、アーグラ城を模して建設したので、同じ名前が付いたんですね。

 シャー・ジャハーンは、首都をアーグラからデリーに遷した際に、レッド・フォートを建設しました。構造としては、基盤に、『クルアーン』に描かれた楽園を模した宮殿があり、こちらはイスラム建築になっています。一方で、水路で繋がれた別館は、ヒンドゥー文化を取り入れており、やはり、イスラム文化とインド文化の融合が見られます。

 このレッド・フォートを建造したことで、その後に創出される新都デリーの建築群に大きな影響を与えることになりました。美しい都を創り上げることで、美しい帝国、美しい文化を歴史の残すことが出来たんでしょうね。

3.アウラングゼーブ

 最後に紹介するのは、ムガル帝国の全盛期を築き上げた、アウラングゼーブです。こいつがまたとんでもない奴なんですよね。

 父であったシャー・ジャハーンが重病に臥せたのを良いことに、兄と弟を殺害し、さらに父親をアーグラ城に幽閉し、皇帝の地位に就きました。

 ただ、国力は強大化し、帝国の最大版図を築きました。そこで得た豊かな財力をもって、アクバルが建設したアーグラ城の大幅改築に打って出ます。

 元々、城塞としての役割しか持っていなかったアーグラ城敷地内に、市場を設け、居住区を設置することで、都市機能を持った城塞として生まれ変わらせたのです。そこを拠点として、さらに強力な国力を世界に知らしめることになりました。

 しかし、アウラングゼーブは敬虔なスンナ派ムスリムだったため、シーア派ムスリムの迫害や、「ジズヤ」を復活させたことで、帝国内の宗教対立を生むことになり、また、長く続いた戦争の影響で、少しずつ財政難の跫音が聴こえ始めます。

 何とか国の富を取り戻そうと奮闘しますが、経済回復は実現せず、対戦国との講和にも失敗し、アウラングゼーブは失意のまま1707年3月3日に亡くなります。僕の誕生日と同日ですね。

 現在のインドはヒンドゥー教国家ですが、そこにイスラム文化が今でも色濃く残っているのは、アウラングゼーブの強いイスラム教信仰で、イスラム教国家としてのムガル帝国を繫栄させたことが生きているからと考えることができるのではないでしょうか。

4.帝国の滅亡から現代まで

 アウラングゼーブの死後は、あれよあれよと衰退の一途を辿ることになります。経済基盤を立て直すことができず、多方面からの侵略もあり、最終的には1857年に起きた「インド大反乱」によって、ムガル帝国の名は世界地図から消えることになります。

 その後イギリスがインド帝国を建設したことで、イギリスの直接統治下に置かれます。元々インド南部は、大航海時代に欧州列強が流入していたことで、キリスト教文化圏(まぁ、ローマカトリックですけれども)が形成されていたことで、より、多文化、多宗教国家としてのインドが築かれることになりました。

 マハトマ・ガンディーの主導で、イギリスからの独立機運が高まり、インパール戦争を経て、1947年8月15日にインドは独立を勝ち取ります。

 アーグラ城はそれまでの多くの内乱で戦禍を被りましたが、独立以降、復興修復が進み、現在では建設当初の姿を取り戻しつつあります。

 シャー・ジャハーンがデリーに築いたレッド・フォートは、インド帝国において、イギリス支配の象徴的建築となり、インパール戦争において反逆罪として捕らえられたインド兵の裁判会場となりました。

 世界史の授業において、インドの歴史に触れる時間はそんなに多くないですけど、勉強してみると、めちゃくちゃ深いです。今回紹介したことなんて一紙半銭。しかし、彼ら3人が残したものは、現代のインドを知り、これからの世界を知るためのヒントとして、これからも生きていくでしょう。

今回も最後まで読んでくださいまして、誠にありがとうございます。
また次回お会いしましょう。

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