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天下人の城と、その参謀の城

皆様こんにちは。
本田拓郎(Takuro Honda)と申します。
この記事へお越しくださいまして、ありがとうございます。

 このnoteでは、今現在観光業に就いている私が、私の目線で、「観光・旅行・歴史・文化・教育」について、知識や新たな発見の提供、その他自論を展開し、古代ギリシャでいう「アゴラ」のような場所を目指します。私が勉強していることを皆様とも一緒に学ぶというスタイルで、記事を創っていきます。

 さて、戦国時代を代表する武将と言えば、「三英傑」の、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ですよね。私はみんな好きではないんですが、今日は豊臣秀吉と、その参謀黒田孝高のお話です。私が今住んでいる街大阪と、私が生まれた街福岡を発展させた2人が築いた城郭から歴史を見ていきましょう。

拙い文章力と乏しい考察力ではありますが、
最後までお付き合い、お願いいたします。

1. 大坂城

 今年の1月末に、とあるニュースが私の目に飛び込んで来ました。豊臣期に築かれた大坂城の石垣が、限定公開されるというものでした。もう、その記事を見た瞬間、「行きたい、いや、行かねば」という意思が固まりました。

 そして、奇跡的に、倍率8倍の抽選を勝ち取り、2月20日に行って参りました。あんまり上手く撮れていませんが、写真をどうぞ。

大坂城石垣

調査が続いているので、機材がありますが、結構近くで見ることが出来てハッピーでした。

 現在の天守閣が建っている石垣は、大阪夏の陣で豊臣家を滅亡させた、徳川家康によって築かれたものです。夏の陣の後に家康は、秀吉が築いた石垣などは地中に埋めたのです。盛り土を用いて新しい大坂城を建てるためです。そのため現在は、盛り土で埋められた豊臣期の石垣等の遺構の発掘調査が進められているというわけです。

 石垣の積み方としては、「野面積み」と呼ばれる方法を用いています。自然の石を「築石」として、そのまま積み上げていくというものです。でもそうすると、絶対に隙間が生じてしまうので、それを埋めるための小さな石「間詰石」を嵌め込み、崩れないようにしていることがわかります。外敵が石垣を登りやすいという欠点がありますが、建築構造としては隙間が排水システムの役割も担うので、総じて頑丈であるという点が特徴です。

 一方で、現在大坂城で見られる石垣は、先ほども申し上げた通り、家康によって築かれたものです。見てみると、美しい四角形の石が隙間なく積み上げられています。これは「切込み接ぎ」と呼ばれる方法で、江戸時代になってから主流となった石垣の積み方で、江戸城の石垣と同じ構成です。これは野面積みと異なり、外敵が侵入しづらく、別で排水システムを施しているため、より強固な石垣となっています。

 今回の限定公開でわかったことは、城郭建築においては、徳川家康が権力を持つ前と後で大きく様式が異なるということです。厳密に言えば、1600年に起きた関ヶ原の戦い前後で、城郭建築は大きく異なるということがわかると思います。ただ、関ヶ原で天下を改めて泰平したにも関わらず、なぜ、より強固な石垣を造るようになったのでしょうか。もっと史料を読んで研究すると、江戸幕府の絶対的支配欲が見えてくるかもしれません。

 大坂城は、1585年に築かれ、1615年に焼け、1629年に再建され、なんと、44年という短い期間の中で2つの様式を構えた、日本でも珍しいお城と考えることができます。天守閣ばかりに目が行ってしまいますが、もっと広く、「城郭」として見ていくと、それが語ってくれる歴史の物語を受け取ることができるのではないでしょうか。

2. 福岡城

 次は福岡へ行きましょう!そもそも福岡城というお城があったことは皆さんご存じでしたでしょうか。NHK大河ドラマの『軍師官兵衛』をご覧になった方はご存じだと思います。

 以前投稿して、大きな反響がありました『「福岡」と「博多」~似て非なる2つの街~』でも述べた通り、「福岡」をつくったのは、豊臣秀吉の参謀で、戦国No.2の男、黒田孝高です。

 実はそんな福岡城築城当時の石垣も、毎週土・日曜日のみ一般公開されているのはご存じでしたか?帰省していた時に見に行ったので、こちらも写真をどうぞ。

福岡城石垣

しっかりと読んでくださってる皆さんはもう気付いたと思いますが、こちらも「野面積み」の石垣ですね。あと、こちらも地下にあることがわかると思います。これも家康に埋められた、ってわけではなく、明治時代に福岡市に路面電車を走らせるための道路工事で埋められました。

 では、福岡城はいつ築かれたと考えられるでしょうか。野面積みなので、関ヶ原の戦いよりも前ですよね。実は後です。1601年に築城が始まり、1608年に完成しました。

 これまた不思議ですね。まぁ何事にも例外はありますが、なぜ、徳川の時代に主流でない建て方をしたのでしょうか。

 関ヶ原の戦いに詳しい方は、黒田孝高の息子である長政が、関ヶ原の戦いで東軍徳川方の先陣を切ったことはご存じだと思います。

 ん?お父さんの孝高は秀吉の参謀だったんですよね。反対しなかったのでしょうか。もちろん、反対したんですよ。長政が家康の前で東軍として戦うと宣誓したと、孝高に報告した時、「片方の手は握手をしたと思うが、なぜもう片方の手で家康を斬らなかったのか」と長政に問い詰めた逸話はあまりにも有名ですよね。でも実際、長政が東軍についてなかったら今の福岡はないんですけどね。

 それほど孝高と秀吉の信頼関係は強固だったんです。大坂城の建築においても、孝高が築城総奉行を務めていたほど。つまり、大坂城の築城指揮を執ったのは、黒田孝高です。ということは、福岡城も大坂城と同じように築城したと考えると、関ヶ原の戦いの後の時代でも、野面積みの石垣を採用したと考えることが出来るのではないでしょうか。

 朝鮮出兵時に博多の町割りを整備した(太閤町割)秀吉、秀吉亡き後に遺志を継いだかのように福岡を発展させた孝高、この2人がいたからこそ、大都市福岡の基礎が築かれ、豊かな文化と、広い繋がりを持つ都市になったと考えることができますね。

3. 興味を持つことが学ぶきっかけ

 まず、今回のような限定公開の機会を一般市民に与えてくれた大阪という街に、本当に感謝しています。

 限定公開の参加者の印象としては、やはり、「年配の方が多いなぁ」という感じでした。土日も公開日程に含まれているにも関わらず、若い方は片手で数えられるくらいしか見てないですし、子どもは1人もいませんでした。

 ネットニュースやテレビのニュースでも報じられていたわけですし、なぜ、こんなにも若い人がいないのか、正直なところちょっと残念だなと思いました。

 特に大阪なんか、歴史の宝庫なわけなんだから、住んでる街の歩みを知るということはとっても大事なことなんじゃないでしょうか。学校教育や、家族の会話で、「これについて調べてみよう」や「ここに行って見てみよう」といったことが、子どもたちや若い人たちの興味を引き出すきっかけになるんじゃないですか。

 例えば今回のケースだと、豊臣秀吉が大坂城を築いた時の石垣が発見されたわけなんですから、「豊臣秀吉って何したの?」から、「戦国時代ってどんな時代?」「なんで大阪は栄えたの?」「淀川って街の発展に関係あるの?」言ってしまえば、派生して出てくる疑問なんて無限なんですよ。そこで、1つでも、何かについて興味深く追及していく機会を与えることで、人間の中身は豊かになると思うんですよね。

 今回みたいな、めったに訪れない機会を逃すのはもったいないです。もっと色んなところにアンテナを張って、多くの学びを獲得していくべきだと思います。

1つの「なんで」がたくさんの答えを与えてくれます。

今回も最後まで読んでくださいまして、誠にありがとうございます。
また次回お会いしましょう。
Ciao...

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