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やすみじかん【短編小説】


 その人は、雨降る中、薔薇の下のベンチにいた。

 薔薇公園と呼ばれるその憩いの場は、文字通りさまざまな種類の薔薇の花が有名だった。入り口から庭園の奥へと伸びるモッコウバラのアーチを抜けると、公園と周りの住宅街を隔てるかのように、たくさんの薔薇があちこちに生い茂っていた。垣根の一つ一つごとにベンチが置いてあって、初夏から夏にかけていつも多くの人で賑わっている。
 六月、雨の日曜の夕方に薔薇公園に藍が足を踏み入れたのは、今日という休みを無為な日だったと思いたくなかったからだ。通っている通信制高校のスクーリングも、バイトもない、貴重な一日。なのに、ふと気づけばもう夕方だった。何もない一日にしたくなくて、無理やり散歩に出て雨の中を歩く。そのあてのなさに少し哀しくなりかけた時、薔薇公園が目に入ったのだった。バッグの中には、財布とペンと、書きかけの手紙。文通相手には、気づけばもう半年近くも返信を書けないままでいる。
 指先も足先も濡れて、少し冷え始めていたけれど、薔薇公園のバラたちは驚くほど美しかった。薄暗い雲の下、一輪一輪は、発光するかのように咲く。赤、白、ピンク、黄、紫、グラデーション。大輪から小花、八重の花びら。雨の中でも、甘く涼しい芳香がした。

 そんな中、その人がただ一人ベンチにいる光景は、藍に強い違和感を生じさせた。

 全身黒い服を着たその人は、大粒の雨を全く気にする様子もなく、悠然と足を組んでベンチに腰掛け、背もたれに体重をすっかり預けて、顎を少し上に突き上げていた。ウィンドブレーカーは水滴を弾いてはいたけれど、明るい色の短髪から足の先まで、全身ぐっしょりと濡れている。

 藍は、その横顔に見覚えがあった。

 通信制高校のスクーリングの日、彼の横顔はいつも窓際にあった。
 軽く上を向いて、薄く唇を開いて、程よく脱力したまま授業を聞いていた。時々かすかにいびきが聞こえることもあったけれど、先生に指名されたときには、きちんと明快に答える姿が印象的だった。
 藍はいつも教室の後方、彼が見える席に座り、授業に飽いたら斜め後ろからそっと彼の横顔を眺めた。どこかだらしないシャツの着崩しに反して、彼の造形は計算されたように端正だった。窓から差す陽光に彩られる鼻梁と長めの睫毛、頬骨の下に窪む影。オレンジに染められた短い髪は、太陽の光をよく透かした。耳の二連の金のピアスが、時折ちりりと音を立てていた。
 普段だったら、絶対に声をかけることもできなかっただろう。真面目で物静かな藍とは共通点のかけらも見いだせない。彼はそんな存在だった。

 雨の中、彼と藍の目が合った。

 ――そこから少し、時の流れが、緩んだ。

       ◇  ◇  ◇

「……こんにちは。あの、高校一緒の、」
「あー。誰だっけ」
「福本です。福本藍。あの、あなたは」

 藍は名乗ったものの、彼は名乗り返すことはなかった。その必要を感じていないのか、悠然と腰掛け直し、両腕を大きく平いて顔を少し上に向けただけだった。唇は半開きで、雨など物ともしないその様子を、藍は訝った。

「あの、……何してるの?」
「休んでるんだよ、人生を。ただ今、絶賛休憩中」
「え? 今、ここで?」
「そうだけど。一緒にどう?」

 彼が両手をだらりと開いたまま全く気負わずにそう言うので、藍も何となく彼の行為に興味が湧いて、横に腰掛けてみることにした。
 鞄の中に入れっぱなしだったエコバッグを開いて敷いて、腰掛ける。肩を並べて水色の傘を差し掛けると、彼は少し青くなった空気の中で、顔だけを藍に向けた。

「アイさん、だっけ。休むの嫌い?」
「そんなわけじゃないけど、理由もなく濡れながらの休憩は、したことないかな」
「理由ねぇ。真面目か。アイさんには理由がいるわけ?」
「理由」
「休むのにも雨に濡れるのにも、理由がいる? アイさんは」
「……そう、かもしれない」

 不意の問いかけに虚を突かれて、傘を持つ手が少し震えた。彼は前髪の先から雫をしたたらせながら、少し面白そうに笑った。

「へぇ。じゃあ、今日はどんな理由でここへ?」
「……何もない一日に、したくなかったから」
「ほんとに理由があるんだな。すげぇ。……やすむって、“憩む”とも書くって授業でセンセーが言ってたし、ま、今日は”憩み”の一時ってことで」
「いつもよく聞いてるよね、授業。いつ当てられてもちゃんと答えてるし」
「休みながら聞いてるからじゃ? ぽかんとしてたら、いろんなものが入ってくる。すぐ抜けてくけどな」

 彼は笑った。笑顔は思ったよりもずっとあどけなくて、知らず藍の目を奪った。
 そういえば、一つの傘の中にいる距離は隣の机同士よりもずっと近いことに今更気づいて、藍の心臓は不意に高く鳴った。僅かに肩と肩が揺れて触れているけれど、濡れて冷え切っているせいか、体温は全く感じない。

「あの、」

 衝動が先に、口をついて出ていた。もっと、この人と色んな話がしてみたい。自覚すると、雨に冷えていく体が熱を取り戻す気がした。
 けれど、そう思った矢先、バッグの中でスマホが震えた。
 予感しつつも仕方なく取り出すと、母からの通知。どこにいるの、と。帰宅がてら夕食の食材を買ってきて欲しいとの文面だった。

「……そろそろ、行かなきゃ」
「そう」
「まだここにいるの?」
「俺はもうしばらく、休み時間なんだ」

 藍が立ち上がると、彼は再び無抵抗に雨に濡れ始める。じゃあ、と彼は藍を見ないまま言い、空と頭上の薔薇を仰いだ。
 ぽたり、と頭上の葉先から大きな雫が滴って、彼の頬を涙のようにつぅと流れる。けれど彼は顔色一つ変えず、瞬き一つしない。それ以上は全く藍に注意を向けることもなく、ただ薄く唇をひらいて、再び話しかける前のような、彫像めいた横顔になった。

「あの、名前……」

 聞こうと思ったけれど、その応えさえ返らなかった。
 生け垣に咲き誇る大輪の薔薇の花のどこかをさまよう、焦点の合わない視線。さっきまであんなにしっかり話していたのに、ぽっかりと口を開けたその横顔からはすっかり生気が抜けていた。まるで意識がないようにさえ見えて、不思議だった。
 仕方なく、一人で歩を進めて公園を出る。

(休み、か。……彼も、あの花だって)

 一生懸命咲いているように見えて、休んでいるのかもしれない。あるいは、休んでいるように見えて、必死なのかもしれない。そんなことは誰にもわからない。彼にも、私にも。
 でも、――それをほんの少しだけ、わかりたく思ったのに。
 後ろ髪を引かれる思いで、角を曲がる前に薔薇の生け垣を振り返る。

「あれ……?」

 彼はもう、そこには居なかった。
 ただ、六月の薔薇たちが、柔らかな雨に打たれながら静かに咲いているだけだった。


       ◇  ◇  ◇

 翌週の高校のスクーリングの日、藍は窓際の席に座って、彼を待った。窓の外は晴れ。曇り空の向こうから、天使の梯子が地上に向かって真っすぐに差し込んでいる。
 六月の平日、梅雨の小休止。蒸し暑い教室にはほどよくクーラーがかかり、外に迫る夏の蒸された気配を遮断する。
 休むにはもってこいの涼しさなのに、彼は現れなかった。そしてそのまま、1時間目が始まり、流れていった。

 休み時間、意を決して、藍は近くに居たピンクの髪の男子学生に話しかけた。

「……あの。いつもこの席に座っていた人、今日は休みですか?」
「あー、あいつ? 多分しばらく来ねーよ」
「え?」
「あいつバイクで事故って、植物状態なんだって。俺もあんまり詳しく知らねーけど」
「え。……いつ、から」
「先週か、その前の週か? マジ怖えーよな、事故ってさ……」

 ぺらぺらとしゃべり続けるピンクの髪の生徒の、ピアスだらけの耳を茫然と見つめることしか出来なかった。嘘だ、と叫びたくても、話は右から左へと流れるばかり。
 休み時間が終わり、皆が席に着く。二時間目が始まる。
 日曜日に薔薇公園で会った彼は、あの時、確かにあそこにいた。ゆっくりと、人生を休んでいた。ーーもうしばらく休み時間なんだと、言っていた。

(まさか、そんな)

 幻だったのだろうか、それとも。きっと、考えても答えは出ないだろう。誰かに話しても、信じてもらえないだろう。ぽっかりと開いた口。うつろな瞳。魂は”憩み”を求めて、あの場所へ来たのだろうか。
 教師の声が、上の空の藍を通り過ぎてゆく。
 窓の外を見る。すぐそこに、季節を覆いつくす苛烈な夏の気配が迫っている。天使の梯子はどこかに消えて、青空が勢力を取り返しつつある。梅雨はまもなく終わり、あの公園の薔薇たちもやがて夏にやられて枯れていく。
 いてもたっても居られなくて、藍は鞄の中をまさぐった。
 余計な物などほとんど入っていない。ただ一つ、ずっと入れっぱなしだった便箋から、ほとんど衝動的にまっさらな一枚を破り取る。
 胸の中、入道雲のようにふくらむ想いを、書かずには居られなかった。
 いつも彼が座っていた窓際の席で、想いを言葉に練り上げる。考えて、考えて、そして一行だけを白い便箋したためた。

 ――お休みを終えたら、またここに戻ってきて下さい。

 連絡先も、宛先も、名前だって未だ知らない。だから藍はその祈りを書き付けた便箋で、紙飛行機を折った。
 次の休み時間、梅雨の休止の晴れ間に向かって、藍はそれをそっと空へ放った。白い紙飛行機は一瞬、高く舞い上がり、やがて青の彼方に見えなくなった。


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この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』6月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「やすむ」。時間のながれに身を預けて心がやすめられるような、そんな6作品が集まっています。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひごらんください。

また、本小説は【連作】でもあります。お気に召した方は、マガジン「紫と藍のあいだ」からも本シリーズ作が読めます。どの作品からも読めますので、よかったらぜひどうぞ。


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