ぬいだからだ【短編小説】
Q:自分に似ていると思う動物は?
A:蛇
――普久原 紫
小学校の時の卒業文集の、クラスごとのお楽しみページ。
その部分に、「蛇」と書いた。当時はバレエをやっていて体がとても柔らかかったとか、きっと幾つかの理由があったのだろうと思う。
けれど、思い出せない。
(なんで蛇、だったんだろ)
そんなことを唐突に思い出したのは、何気なくつけた朝のテレビで、近くの町で飼育されていた大型の蛇が逃げ出した、というニュースを見たからだ。
“体長2メートルほど、草むらや物陰に潜んでいるかも知れません。こちらが敵意を向けなければ襲ってくることはありませんが……”
ニュースキャスターは注意を呼びかけている。その声を、トーストと共に口に入れ、咀嚼し、温くなったコーヒーで飲み下した。
寝間着にしている長めのTシャツを脱いで、着替える。下着姿のまま姿見の前に立って、うんと伸びをして、背中を反らす。大人になってからまともな運動などしていない。バレエも中学生に上がるタイミングでやめてしまった。かつての柔軟性を失ってすっかり硬くなった心身は、ぎぎぎ、と音がしそうな程、ぎこちなくしか曲がらない。
自分の着ている重い体を着ぐるみのようにするりと脱いで、一回り小さい、あの頃の伸びやかな体になれたら。存在しない背中のファスナーを想像して、そっと下ろす。すると小さな自分がいつもこの身の中に詰まっている。
わたしがわたしを脱ぐのを、いつでも待っている――。
そんな想像をしながらも、出勤のために黙々と服を着込み、化粧を整えて家を出る。
なんとなく今日は平たいパンプスにした。もし出勤途中に蛇に出会っても逃げ切れるように、なんて冗談半分に思いながら。
* * *
「藍へ
お元気ですか。いつもの文通も、かれこれ11年目に突入かな?
今回はだいぶ間が空いてしまってごめんね。独り暮らしを始めてから、気づけばもう1年近く。28歳独身、一人で元気にやってます(苦笑)。――今日は色んなことがあって何だか眠れなさそうなので、お手紙を書くことにしました。
突然ですが、藍は、「蛇」って、好きですか。
いや、あまり好きな人はいないかと思うけど、世の中には飼ってしまうくらいの人もいるし、蛇皮のバッグとか好んで使う人もいるし。
わたしが小学校の頃、「自分に似ている動物」という質問に、「蛇」って書いていて。どうして、わたし、自分のこと蛇だなんて思っていたんだろう、と今でもちょっと謎なのだけど。身も心も軽やかだったはずの時代に、どうして蛇なんだろうって。
そんなことを思い出したのは、実は今日――」
* * *
残業で、思ったよりずっと、帰宅が遅くなってしまった。
夕食代わりに駅前のコンビニでサラダだけを買って、帰路についた。大きくて明るい道をできるだけ通って帰る。駅から徒歩10分、路地を折れたところにあるマンション。玄関のオートロックを抜け、外廊下に面した二階の角部屋の自室へと急ぐ。
独り暮らしは気楽で良い。5年付き合った彼氏と別れて同棲を解消したすぐの頃は、一人が本当に快適だと思っていた。けれど最近はさびしいと思うことも増えたし、一人を不便に感じることも多い。以前は、早く帰る方が食事を準備するルールだったから、こんな風に遅くなる日にも、温かいご飯が食べられることを嬉しく思って帰宅していたなぁ、とか。未練があるわけではないのに、そんなことをついつい思い出してしまう。疲れに体がやたらと重い、憂鬱な蒸し暑い夜。ヒールの低いパンプスを引きずるだるい足どり。
ようやくの帰宅にため息をついて、鍵を取り出そうとしたときだった。
玄関の前で、何かがぎらりと灯かりを反射した。
「ひっ!」
ゆっくりとした動きに、思わず、声を上げて飛び退いていた。
小山のようなそれは、長い体をゆっくりとくねらせて動いていた。黒というよりは銀に近い色。 胴体は思っていたほど太くはなかったけれど、一番大きいところは手首くらいありそうだ。部屋の前でうねうねと動き続けている。
それと、目が合った。
「へ、蛇……」
口に出して、朝のニュースのことが稲妻のように脳裏にひらめいた。あの蛇なのだろうか、それとも。しかしそもそも、ここは住宅街のど真ん中。配管や壁を伝って上ってきたのだろうか。何という確率でここに。どうせ何かに当たるなら、宝くじに当たったりしたいのに。
残業帰りのくたくたの心身に絶望感が広がる。――求む、独り暮らしの女性が、たった一人で蛇と戦う方法。とにかく追い払って、早く帰宅したい。
「嘘でしょ……!?」
目の前の光景がやっぱり信じられなくて、ゆっくりと隣室の入り口まで後ずさりして距離を取る。こちらに向かってくることはない。ただ蛇は自室の前でとぐろを巻き、体を静かにうねらせ続けている。
とにかく、助けを呼ぼうと思った。目の前の隣室をノックしてチャイムを押したけれど、反応がない。その隣もダメだった。仕方なく、蛇と距離を取ったままじりじりと後ずさり、階段の手前まで戻る。蛇はただうねり続けているのを確認し、背を向けて一気に階段を駆け下りた。
マンションのオートロックを出て、目の前の通りへ。すぐ近くを、わたしよりも一回り小さい女性が歩いてくる。すらりと伸びた手足、未だ若そうな気配。学生だろうか。
「あの、……すみません」
声をかけると、人影がぴたりと立ち止まった。半分だけこちらを振り向いた顔は、ちょうど影になって見えない。
「わたしここに住んでいるんですが、玄関前にその、生き物がいて。……ちょっと助けてもらえませんか?」
「生き物?」
「ええ、あの。蛇なんです。もしかすると、ほら、ニュースになってたやつかも……」
その人の顔が、街灯に照らされて、見えるようになる。
――見覚えのある顔だった。
そう、その頃ちょうど、身長が急に伸びはじめる少し前だった。丸っこい鼻とぽってりした唇、自分の容姿が好きじゃなかった。変わりたい。小学六年生の頃。私立の中学校に合格して、これから新しい自分になるために古い皮を脱ぐんだと、何度も自分に、そう言い聞かせていた。
あの時のわたしが、そこに立っている。
(え……?)
額の汗がぽたりと、見開いたままの目に入る。痛みに目をぎゅっと閉じて、もう一度目を開けると。
そこに居たのは、見ず知らずの女性だった。
「蛇とか、無理です。お力になれなくてごめんなさい。警察に連絡されたらどうですか」
「……あ、えーと、そうですよね。はい、すみません」
すたすたと、その女性はわたしの前を通り過ぎて行った。
わたしは呆然と、夏の夜に取り残される。家の前の蛇のことも一瞬忘れるほど、強烈な幻覚の感触が、まだわたしを取りまいている。
「ええと、警察か……」
帰宅したい。改めてそのことを思い出し、持っていたスマートフォンで少し緊張しながら110番に連絡する。部屋の前の蛇のことと、今朝のニュースのことを伝えた。電話が切れると安堵して、全身の力がどっと抜ける。
もう一度、辺りに注意を払いながら部屋の前まで戻って、わたしは気づく。
「あ……」
家の前にまだ、それはいた。――けれどもう、動いてはいなかった。
蒸し暑い夜、わたしの部屋の前には、蛇の脱皮の後のほの白い皮だけが、こんもりと残されていた。
遠くから、サイレンの音が聞こえ始めていた。
* * *
「――その後、結局どうなったかっていうと。
パトカーで数人と、それからすぐに近くの交番から何人も警官が来てくれて、点検してくれて。中も外もあちこち全部、蛇が居ないか調べてもらって、それでようやく帰宅しました。部屋がたまたま片付いていて良かった……まさか帰宅時は警官と一緒とか考えもしなかった。人生色んなことが起きるなぁと思った夜でした。
うっすら白い蛇の抜け殻も警察官が持って帰ってくれたけど、不気味だけど見事な抜け殻で。ちょっと取っておきたくなるくらい(実際にはきっと扱いに困るだろうけどね)。
それから。
小学六年生のときの気持ち、少し思い出したというか。正確なところはわからないけれど。藍と同じ中学校に進学したとき、今までの自分と違う自分になりたいなと強く思っていたこと。――いつでも脱げる身軽さを、忘れないでいたいなと。そんなことを思ったりした、今夜の出来事でした。
手紙に書いたら、少し気持ちが落ち着いてきました(笑)。ようやく眠れそうな気がします。近況などは、また次のお手紙の時にでも。今日はこのまま、封をしてしまうことにします。おやすみなさい。また、次のお手紙の時まで、元気で。
――紫より」
* * *
翌朝、いつものように目覚めてテレビをつけると、それをトーストと温いコーヒーで流し込んで、姿見の前に立った。蛇のニュースは続いている。昨夜の白い抜け殻、まだ目の奥に焼き付いている。早く捕まれば良いなと思う。
睡眠不足気味でむくんだ顔を冷たい水で洗って、化粧を整える。自分の背中にあるかもしれないファスナーを下ろすように、寝間着を脱いだ。いつもより少し鮮やかな色の服を着る。昨夜封をした手紙をバッグに入れて、玄関へ。
今日も平たいパンプスにしようと思う。もし、蛇に出会っても、あるいは幼い日の自分に出会っても、昨日よりは慌てずに立ち向かえる気がするから。
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この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』7月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「ぬぐ」。登場人物の内面の発露や、それまで身につけていたものからの脱却が描かれた、小説6作品があつまっています。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひごらんください。
また、本小説は【連作】でもあります。お気に召した方は、マガジン「紫と藍のあいだ」からも本シリーズ作が読めます。どの作品からも読めますので、よかったらぜひどうぞ。
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