短編「胡桃と僕のありふれた日常」第五話 〜呪いには撫子の無邪気な魔法〈マジック〉〜 #創作大賞2024
「胡桃と僕のありふれた日常」
第五話 〜呪いには撫子の無邪気な魔法
彼女が迫ってくる。黒マジックを握りしめ、目から白い光を放ち、一本歯の足りない笑顔を浮かべて……や、やめて……
はっと目覚めた僕の隣には、安心しきった健やかな彼女の寝顔と鼾があるだけだ。僕はほっとして寝直す。
妊婦貧血が激しい彼女は、鉄剤が合わず気分が冴えない。だから僕は張り切って家事を応援している。そして彼女がいつでもポケットに黒マジックを忍ばせる原因を作ったのは、たぶんこの僕だ。
彼女の名は胡桃。クリニック勤めのナースである。笑顔の可愛い僕のお嫁さんだ。
彼女のナース服には、ドラえもんの四次元ポケットのごとく、誰かが何かを探していると魔法のように必要なものが取り出せるパンパンに膨らんだポケットが付いている。だから彼女は、いや彼女のポケットは同僚にもドクターにさえも重宝にされている。
ある晩、胡桃は帰宅するなり開口一番、
「幽霊よ!」
「……なにが」
「違うの! 幽霊がいたのよ!」
特に何も違わない。
「ドクターの足元にいたのよ! 怪しい文字みたいな染みのある手がひらひらしてたの!」
ううむ、よくわからないが同僚の花生さんも目撃したということだから、貧血のぐらつきによる幻とも思えない。しかし、胡桃の興奮を煽ってもいけないのでさらりと受け流した。が、胡桃の幽霊目撃談は止まらない。
その日、骨折患者の処置の準備をするため、花生さんとふたりでドクターの手書きカルテを解読していた。
「ねえ、これ何て書いてあるんだろう」
「いつものことながら読めないよね」
「これってさ、ムロイ文字なんじゃない?」
「ドクター室井家に伝わる古代文字ね」
ちなみにドクターは室井先生と仰る。
そこへ主任ナースの杏子さんが通りかかり、さらりと解読。ふたりは畏敬の眼差しで杏子さんの背に向かい「さすが、ドクターの右腕!」と囃し立て、杏子さんに軽く睨まれた。
「ムロイ文字解読者を増やさないとね」
ふたりで頷きあったその時、ドクターの机の下からヘナヘナした文字のような染みをつけた手が見えたのだという。
ふたりは目を合わせたあと、胡桃が「いけいけ」とばかり花生さんの背中を押すものだから、可哀想な花生さんはびくびくしながら机の下に潜ってみたが、怪しいものは何もなかった。
その後ドクターが診察室の席に着くと、
「うわ! びっくりした!」と叫んだものだから、胡桃も花生さんも同時に驚いた。
「どうしたんですか、先生!」
「わかんないけど、机の下から白衣を引っ張られたんだよぉ」
普段穏やかで物静かなドクターが何気に戸惑っている。
「やっぱり何かいるんだわ!」
ドクターはあやふやに笑って否定したが、ふたりは確信した。その証拠に、ドクターの白衣の裾に新しい黒いインクのようなヘナヘナ文字の染みができていたからである。
胡桃は四次元ポケットからルーペを取り出し、
「先生、これ文字になってます……よく見るとムロイ文字かも!」
「なんだそりゃ」
「あ、いえ、なんでもありません」
胡桃は急いでポケットに備えてある、消毒液や血液の染みを落とす魔法の液体を何種類か、ドクターの白衣に試したが全く効かない。インクならばと、花生さんが水を含ませたガーゼで叩いたがやはり少しも落ちない。
古代ムロイ王朝の呪いの文字? ふたりの妄想が膨らんでいる間に、ドクターは修正液をボトボトと白衣に塗って、あの胡桃をも驚かせる行動に出ていた。
「先生、そんなことしたら、クリーニングで落ちなくなっちゃいますよう」
「え、そうかなあ」
呑気なドクターの台詞に驚いて、白目になった胡桃と爆笑の花生さん、なぜ笑われているのかがわからないドクター室井。
こんな長閑に大騒ぎをして処置の準備は間に合ったのか、僕の方が心配してしまう。
胡桃は、自分のポケットのものが役に立たなかったことに少なからずショックを受けたようだ。
「無敵の胡桃ポケットだったのに……」
迷わずプロのクリーニング屋に任せれば済むことだったんじゃないか、と僕が口を挟むと、
「だめよ! あれは呪いだからクリーニング屋でも無理」と言い張る胡桃だった。
白衣のその後を訊いてもドクターは口を濁すので、やはりムロイ王朝の呪いだったのだという結末に、胡桃と花生さんの間では決着したそうだ。
いったい何のための呪いなんだ?
*
八月。僕達の入籍一周年だ。
お盆休みは胡桃の希望で、しゃぶしゃぶに定評のある露天風呂付きの宿を予約した。胡桃は温泉で呪いを浄い流してやるわ、とはしゃいでいた。
美味しい料理を堪能して、僕は少しアルコールが入っているので部屋で涼み、胡桃はご機嫌で二度目の露天風呂に浸かっていた。野生の撫子が満開の風情ある小さな庭の露天風呂。腹の子は順調だし、来てよかったな。
ところが、またしても事件が起こったのである。
胡桃が風呂の上がりしなに倒れたのだ。半白目で口から血? この時ばかりは笑えなかった。
「胡桃、どうしたんだよ!」
呼吸が荒い。
「歯……歯が……」
胡桃の身体にバスタオルをかけてから、彼女の差し出す右手に目をやると、小さな歯を握っていた。唇についた血液の正体だ。なんで? と考える前に止血だ。身体が温まっているから出血しやすいのかもしれない。
「呪い……呪いのせい……よ」
倒れた原因は、湯あたり。問題の歯は元々少しぐらついていたから、湯に浸かりながら気になって舌でぐいぐい押していたらぽろりと抜けてしまったらしい。
歯医者曰く、
「乳歯だからそのうち抜けるべくして抜けますよ。抜けたら、長い間よく頑張りましたねと、歯を労ってやって下さい」
何のことはない。胡桃の口腔には未だ乳歯が現存していたのだ。
湯あたりに乳歯か。ほっとしたと同時に大笑いしてしまった。
「これは呪いよ! そんなに笑って、楽くんにも呪いが移るからね!」
ちなみに楽とは僕の名前である。
*
胡桃が妊婦貧血で体調不良が続く中、相変わらず僕は慣れない家事を精一杯こなす。
やらなくていいマグカップの茶渋なぞとって、
「張り切りすぎよ」と言われた矢先、
「ちょっと楽くん、その模様は何?」
胡桃の指差す僕の黒いTシャツが、はねが跳んだように赤褐色に色が抜けている。
「呪いかしら! ムロイ文字かも? ううん、ちょっと違うわね……これは漂白剤!」
買ったばかりのお気に入りのバックプリントの黒Tシャツ、心なしかショックだ。
胡桃は一瞬考えて、
「楽くん、動かないで」と言って、黒マジックで色が抜けたところを塗り始めた。ドクターの修正液の発想にヒントを得たのだろうか。出来栄えに満面の得意顔である。
以来胡桃は黒マジックを肌身離さず、黒い家具なども小さな傷を見つけては塗り潰すという、何とも地味で滑稽なブームを迎えた。
そして同じ事は職場でも繰り返される。
花生さんが黒いワンピースで出勤した日のことである。
「何これ!」
花生さんの悲痛な声にいち早く反応した胡桃は、
「どうしたの、花生ちゃん? あっ!」
「どこで付いたんだろ、白いヘナヘナした汚れが……今夜おデートなのにどうしよう」
「花生ちゃん、これはムロイ文字よ! 呪いの模様よ!」
胡桃は、ポケットからルーペを取り出して、花生さんのワンピースを引っ張って凝視しながら言った。
「呪われてるの? 私」
「任せて! こんなこともあろうかと、これよ!」
ナース服の魔法のポケットから取り出したのは黒マジック。
胡桃はさっそく花生さんのワンピースを塗り始めた。
「ほら見て、じろじろ見なければわからないわ。ふふ、これがホントの胡桃マジックよ」
人助けに満足した胡桃の得意満面が目に浮かぶ。が、果たして花生さんは……
*
就寝前、鏡の前でマジックを手に真剣に奮闘している胡桃。
「何してるの?」
「話しかけないでくれる」
吹き出すどころかまたしても爆笑してしまった。
胡桃は見つけてしまった自身のたった一本の白髪をマジックで必死に塗っていたのだ。
「やめてよ、笑い事じゃないのよ。呪いに対抗するにはマジックなのよ。歯は抜けるし白髪見つかるし。今度笑ったら楽くんの歯をマジックで塗ってやるから!」
そして笑いを堪えながらも小心者の僕は、迫りくる胡桃の夢を見てしまったのだ。
今僕は、温泉旅行の画像をアルバムにまとめている。
宿の中庭の自然体で無邪気な野生の撫子がかわいらしいな。笑顔でいれば呪いなんてないんだよ。
ふたりの髪がマジックで塗りきれないほど白くなっても、今と変わらず楽しくやっていこうな。
ところで、室井ドクターの白衣の染みはいったいどうなったのだろう。
第五話 おわり
第六話に続く
第六話
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