長編小説 「扉」32
巧の正体 一
本来なら塁や桜子が来れば、私は満面笑顔で父親面するところである。しかし、今回の失職は誤魔化せる自信がなく、自己防衛のため心を鬼にして勘の良い桜子を遠ざけることにした。また「パパのお店のパスタが食べたい」などと言われると面倒だからだ。塁や倫の受験勉強の優先を理由に、一泊させて送り帰した。私の清潔に刈り上げた後ろ髪は引かれたが、これは賢明な判断であった。
案の定桜子は「邪魔なんてしないのに。パパのお店のパスタ食べたかったのに」と、小さな顔の頬を目一杯膨らませながら、赤い車の助手席で不貞腐れていた。それに倫を慕う桜子を見ていると、何故かモヤモヤする感情が渦巻くのだ。
姉の退院が決まったというので、コンビニスイーツを片手に退院間際の姉の見舞いに初めて行った。
というのは、考えの相違から姉と距離が出来ていたのは確かだが、何よりもここは会計ロビーに麻耶がいた病院なのである。だから来たくても来れないという、私の繊細な硝子の心情が本音である。だがここは病棟、外来の会計にいる麻耶に会う機会などない。
「麻耶ちゃん、だいぶ前に辞めたみたいだよ」姉が言う。
早く教えてくれれば、こんなにビクビクしながらドキドキする必要もなかったのに。同時に、穴空き心臓のもう一つ穴が、再びポッカリと大きな口を空けた。
「アユ坊、長い間倫を預かってもらって助かった。ありがとうね」
「俺は殆ど家に居なかったから、お父さんに言っておくよ。それより倫のことでちょっと気になることがあって」
私は申し訳ない気持ちで続けた。
「思い過ごしかもしれないけど、最近倫がよそよそしいんだよ。俺と目を合わせないし、あまり話しかけて来ないんだ」
「思い過ごしでしょ。倫はいつでも飄々としているんだから」
「違うんだよ、いつもの倫じゃないんだ。多分俺、知らず知らずに倫を傷つけていたかもしれない。塁や桜子をつい可愛がっちゃうだろう。その姿を見て、父親という存在を意識させちゃったかと思って。倫は父親を知らないだろう、だから俺は倫の前で随分罪作りな行動をしていたんじゃないかと反省しているんだ」
「倫はそんな風には思っていないと思うよ。仮に羨ましいと思ったとしても、あの子は態度には出さない。考え過ぎよ」
「サト姉、それは買い被りだよ。倫はサト姉が思っている程、何でも受け止められているのか。初めから父親というものを知らずに過ごして来た子供の気持ち、サト姉にわかるのか」
姉に対してずっと感じていたことを、ついに口に出してしまった。
「そんなこと、百も承知よ。だから今迄だって父親としての分も頑張ってきたのよ。今後は倫自身の判断で、彼の父親とのコンタクトは任せるつもり」
姉は強気だった。
暫し無言でスイーツを平らげると「山神さんの返済は進んでいるのか」と問われる前に、私はそそくさと病室を後にした。事実、滞っていたからだ。
麻耶の辞めた病院で、無意識に麻耶の姿を探しているせんちめーとるな私は、一体何をしにここまで来たのか。ポンコツゴルフを運転しながら、母の病のため親戚に預けられた我が幼少期を思い出していた。
愛する母は、私を生み落とした直後から血の病になり、あらゆる所から出血を繰り返していた。失血で眼の光も消え、死を覚悟した最初の入院は、私が二歳の頃だ。地元から都内の大学病院に転院し、数年に渡る入院生活を強いられていた。その間幼き私を育ててくれたのは、母方の祖母である。料理の上手い優しく上品な祖母であった。泊りがけで我が家に滞在していたので、私にとっては母親同然であった。
ところが、祖母の家で同居する義叔母が、不注意で足に大火傷を負ったため、祖母の我が家への滞在は不可能となり、逆に私が祖母の家に居候する羽目になったのだ。
そこには私と同年の従兄弟がいて、火傷を負ったその母親に驚く程甘やかされていた。そこで私は三歳にして、居候の虚しさを経験したのだ。義叔母の幼き私への扱いに対し、その義叔母の世話をする一方で、日頃から酷い仕打ちを受け続けていた祖母は抵抗出来ず、「アユちゃん、ごめんね」と涙を浮かべながら、仏壇の戸棚に隠してあるお菓子をこっそりとくれるのであった。
残業や徹夜が当たり前だった我が父は、私の様子を見に来ることはあまりなく、たまたま顔を出した時に、義叔母の私への扱いを目撃した。それに抗ってくれない祖母への不満が原因で、私は父によって家に連れ戻された。その際、父方の祖母が我が家に呼ばれたのだ。
私はこの父方の祖母が大変苦手であった。まず声がデカイ。顔が怖い。料理が大雑把で私の口には合わなかった。全てが母方の祖母と真逆なのである。何よりも嫌なのは、愛する母の悪口を言う。
「明日から、中嶋のおばあちゃんが来るからな」
父が言った途端、私は「ヤダヤダ」と大声で泣き出した。
「何で嫌なんだ」
「だって中嶋のおばあちゃん、変な顔だから」
泣きながら必死に答えて父の怒りを買った。
幼気なその台詞の内容について反論出来ずに、ただ私を睨み付けていた父と泣きじゃくる私を観察していた姉は、笑いを堪えるのに必死だったそうだ。余りにも尋常ではない私の嫌がり方に、父方祖母の二日目は実現せず、可哀想な私は、鬼のような義叔母の差別攻撃の真っ只中へ再び身を投じたのであった。
そんなことを思い出しているうちに川沿い駐車場に着いたが、帰宅する気にはなれず、足は自然とパチンコ屋へ向いた。
*
姉の霹靂
退院しても私は本調子ではなく、強烈な鎮痛剤と安定剤を服用していました。退院後初めての通院日は父の運転に活躍してもらいましたが、この日、父の心を抉り、私を激昂させる展開が待っていました。
アパートに送り届けてもらった私は、氷の入ったコップに市販のアイスコーヒーを注ぎながら、父に話しかけます。
「来月、倫が十八歳になるの。倫が生まれた時にお父さんとお母さんが入ってくれた学資保険が満期になるでしょ。だから、ラストスパートに進学塾に通わせたいの。いいよね」
父が何故か、まるでこの世の終わりのような顔になり、ボンドでくっ付いたように口を開きません。
「何で返事をしてくれないの。満期だよね、十八歳で」
「いや、済まない……ないんだ」
「何が」
私は、嫌な予感が的中していることが分かりました。
「もうないんだ、倫の保険……」
父への恩も忘れて、父へのリスペクトを改めて思い出したことも忘れて、私は逆上を止められず、上った血は簡単には下がらず、ヒステリックに父を罵りました。
「孫の人生まで狂わせるの? 歩の不始末のせいにしてお金借りたり、倫の学資保険まで解約して黙っているなんて。お父さんて何なの!」
一年前の悪夢の夏、最初の四百万を捻り出さねばならかった時に、倫の学資保険を解約したことが、今ここで発覚したのです。私は最早半狂乱でした。当てにしていた安心が、必要不可欠な時期を目前にして幻となったのです。父親のいない倫の将来を見越して、「素敵なプレゼントをお父さんと一緒に贈るから、貴女はしっかりと倫を守って育てるのよ」と、亡き母が用意してくれた保険だっただけに、尚更許せなかったのです。
「だから謝っているじゃないか。わかったよ、もういいよ」
何がわかったのか、何がもういいのか全くわかりませんが、逆ギレた父はアイスコーヒーに口も付けずに背中を丸め、アパートから逃げ出すように引き上げてしまいました。
十七年間存在を疑わなかった学資保険の消滅。倫の進学のための貯金は皆無ではないが、微々たるもの。私が働けない今、目下の受験料や入学金などまとまった費用をどうしよう。奨学金だけで学費は賄えるだろうか、何か方法があるだろうか。ショックと動揺で冷静ではいられません。安定剤の許容最高量の服用による、思考停止及び睡魔降臨で、ショックと不安を誤魔化そうとしましたが、何の解決にもなりません。
私のヒステリーは倫にも悪影響を及ぼし始め、本末転倒です。私は壊れ始めていました。詐欺事件が全てを露わにし、狂わせ破壊していくのでした。
つづく
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