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【小説】『フラッシュバック』#28

  ぼくは図書館併設のカフェに来ていた。一連の情勢で仮想敵国がいなくなり、国内から長いことお世話になっていた外国軍が撤退したため、憲法が改正され、まもなく徴兵が始まろうとしていた。
 なんとなく本を蹂躙(じゅうりん)してから小説を書く算段でこの場所に来ていた。ぼくの頭は偏頭痛に悩まされ始めてもいた。そしてまずは本にあたった。
 その日の収穫の模様をお届けする――。
 記憶は脳の一体どこに、どのように蓄積されているのだろう? 脳の特定の場所に特定の記憶が位置しているのではなく、何らかの形で脳全体に広がって、または分散して蓄積されているのでは? すべての部分に全体が含まれるというホログラムの性質を読んだ。人間の脳があれだけ小さなスペースにどうやってこれだけ厖(ぼう)大(だい)な記憶を蓄積できるのだろう?
 脳は身体の物理的境界を越えたところに感覚体験の場所を設定することもできると知った。つまり、脳の中の法則が物理法則と似ている必然性はない。もっといえば、人間にとって「現実と幻想」という分け方にも、意味がないということになる。
 外に広がっているのは、実は茫漠(ぼうばく)とした波動の共鳴が奏でるシンフォニーで、いわば「波動領域」なのか? そしてそれは、この身体の感覚器官に入ってきた後にはじめて、ぼくらの知るような世界にその姿を変えているにすぎないのだろうか……。脳は、時間と空間を超えた深いレベルに存在する秩序から、投影される波動を解釈して、目の前の客観的事実なるものを数学的に構築しているのだろうか。つまり脳がその波動の靄(もや)を、机や椅子といったおなじみの物質に変換しているのか……? 意識と物質は同じ根源的な何か、もともとは一つである何かの異なった側面にすぎないのだろうか?
 アカシックレコードというものを読んだ。ぼくらの窺い知れない次元には、過去現在未来のあらゆる世界の記憶が保存されている宇宙倉庫があるという。
 あるいはユングを読んだ。精神が現実の創造に参加し、ぼくらの精神の最も深いところにあるものが、シンクロニシティとして客観的世界に表出するという。意識は、無意識の結果をまとめた受動的体験を、あたかも主体的な経験であるかのように錯覚するシステムなのかもしれないという仮説にも触れた。だがしかし、人間に特有なゆらぎは、人が実際にできる以上のことを期待することや、条件が許す以上のことができるという感覚が含まれているのかもしれない。それは心が、今あるものだけではなく、何か未来に可能なものを知っている時にだけ生じるのでは? そして何かの本で、「心臓も知覚する」と知った。なぜ自分は、思い出せないだれかに心は奪われたままなのだろう……。
 だがしかし。結局こうして必要なのは、自分の運命は自分が握っているという暗黙の信念なのだろう。
 ――おっと、またぼくの悪い癖が出てしまった。
 
 ぼくは司書さんに、すいません、ぜんぶ返却で、と声をかけ、ロビーにあるカフェへと移動し、ラップトップのロックを解いた。
 それにしてもだ。
 
 ……肝心の小説の方が進まない……。
 
 また得意の空想ばかりして、こうして現実が手に着かないでいる。このままではわざわざ仕事を辞めた意味がない。望まないとはいえ、何もかも中途半端なぼくには一大決心だった。お世話になった人たちのことも顧みず飛び出してきてしまった。やらなければだ。やりきらなければ。そうしなければ意味がない……。
 
 ぼくは小説を書くために一人でいる時間が多くなっていたので、天使とはお互いソロ活動の状態だった。家に帰ったら見かけるのが殆どだった。
 
 その日、部屋に戻ると、天使はエプロンをしてお菓子作りをしていた。
 ……と思いながらも、ぼくはだれかとそれを作ったような覚えがある――。
 
 薄力粉五〇グラムに砂糖一〇グラムを加える。卵を溶いて加え、よく混ぜる。ねばりけが出る。牛乳二二〇ミリリットルを入れる。少しずつ入れ、ほどほどに混ぜ、繰り返す。サラダ油を小さじ一杯入れる。ラップをし、冷蔵庫で一時間ほど寝かせる。生地の液ができる。
 ぼくは作り方を逐一覚えている……。
 フライパンを温める。油をひく。お玉一杯分の液を流し入れる。トンボで薄く生地を延ばす。時計回り、そして反時計回り。弱火で三十秒から一分程度焼く。薄い生地が出来上がる。箸ですくってキッチンの天板に置く。
 一体なぜだ……?
 生クリームを乗せる。フルーツを盛る。チョコレートをかける。生地をくるくると丸めて紙を穿(は)かす。クレープができあがる。
 
 ……なぜかこう、もやもやと引っかかる。どうしてぼくは、どうしてもだれかを思い出せないんだろう……?
 
 世界の崩壊が進む。ぼくの不調はつづく。

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