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【小説】『フラッシュバック』#41

 ぼくには恋人がいた。
 
 きっと人並み以上に幸せだった。何もないような世界に一緒に行くところがあったり、一日の終わりに何かを分かち合えることはとても素晴らしかった。彼女はおっとりとしてぼくを包み込んでくれる存在だった。
 眠った彼女の顔が目の前にあると、ぼくはこの上なく満たされた。そのときなら、世界を祝福できた。みんなが幸せになってくれればいいと思えた。人形のように綺麗だった。
 そうして世界中の武器を埋めて、世界中の憂鬱を消してしまいたかった。
 
 ある頃からぼくらはすれ違っていった。
 現実があまりにも醜いせいだからだと思った。仕事をして、日々を使い果たして、時間を金に換えるのが馬鹿らしくなり、次第に行く手を見失っていった。
 現実的に生きようとする彼女は現実に順応しようとし、現実的に生きられないぼくは現実を壊そうとした。そうして新しく創ってしまえばいいのだと考えていた。
 ぼくは何かを生み出したくて、安っぽい創作活動を始めた。どうしても何者かになりたくて、だからといってなれず、人生が平凡に暮れていくことを悲観した。他人と同じでいることに我慢がならなかった。
 ぼくは創作がしたくて彼女と距離を取りたがった。その頃には、彼女はぼくにとってあたりまえすぎて、つらかったり温めあいたくなったりしたら帰るだけの巣のように感じていた。心に秘めたものをあえてさらけ出すのも違う気がした。そしてこの先にあるだろう幸せすらも気怠(けだる)く感じた。
 現実的に生きようとする彼女と、そうでない方法を探るぼくは、こうして隔たっていった。
 
 幸せな時は褪せてきていた。
 四年目の記念日がなんとなく過ぎ、五年目の記念日の印象は他の日となんら変わりなく、六年目の記念日が近づく頃には、ぼくはまたか、とさえ感じていた。
 
 体裁を繕って、その日を迎えた。
 言い訳程度のプレゼントを用意し、レストランで彼女を待った。
 現れた彼女はすでに何かを察していて、目を合わせないまま席に座った。
 無言が続いた。
 ぼくが注文を促しても、彼女は聞こうとしなかった。
 居心地の悪さに耐え切れず、ぼくは申し訳の品を早くも差し出した。
 彼女は受け取ろうとせず、テーブルに置かれたそれを無言で手で退(の)けた。
 そしてぼくは彼女に辛辣な言葉を投げた。
 
 出て行かれた。
 癪だった。しばらく立てなかった。
 葛藤した。これまでのことを想った。
 そして追いかけた。失えなかった。
 
 店を出、遠い彼女を追う道の途中、幼い女の子が泣いていた。
 一度通り過ぎかけたが、放っておけず、どうしたのと声をかけた。
 あまりにも彼女の面影が重なっていたから。
 彼女はまっすぐな道の先にまだ見えていた。
 少女は見るからに迷子で、親とはぐれた様子だった。
 彼女のほうを見ると、まだぎりぎり追いつけそうな距離だ。
 根拠はないが大丈夫だと少女に言ってみせた。
 彼女が彼方のほうで振り返っていた。
 
 ちょっとしたすれ違い。
 
 少女にどちらから来たのか聞いて、その方向を探した。
 彼女は立ち止まり、何事かとこちらを窺っていた。
 少女は泣き止んでくれなかった。
 もう間に合わないのかと一瞬思った。すると。
 彼女がこちらに引き返し始めてくれていた。
 
 胸騒ぎがした。
 
 少女の親が斜め前の店から出てきた。
 見ると、彼女は涙を拭きながら歩いてきていた。
 泣き止んだ少女の親に礼を言われた。
 これで大丈夫なのか。
 
 ふとそう思って彼女のほうを見ると、泣いてうつむきながら歩いて来ていたため、車道側の青信号に気がつかず、けたたましいクラクションが鳴った時には、もう遅かった。
 少女が目撃していた。
 
 意識不明の重体。
 一命はとりとめたものの、彼女の意識は何日も戻らなかった。二週間が過ぎ、三週間が過ぎていった。
 彼女の意識が戻る可能性は日に日に薄くなっていった。ある時から、彼女は生命維持装置なしでは、もはや生きられなくなっていた。少女が親に連れられ、一度見舞いに来た。
 
 彼女の両親の同意のもと、彼女の生命維持が解かれる日が決まった。
 ぼくは、ものごとがすべて遥か彼方で起きているような気がした。
 
 無い頭で考えた。
 絶望は無謀へと変わった。
 
 彼女の生命維持装置が外される日の前夜。
 ぼくは病室で彼女の手を握り、致死量寸前の睡眠薬と幻覚剤を飲み、臨死と幻視の極限状態をつくって、戻らない彼女の意識に接触しようと試みた。
彼女のそばで目を覚ますのを待つ間、本を読みすぎて迷信深くなっていた。生死の境をさまよう意識との交流。無根拠で絶望的にも程がある。
 それ程ぼくは、彼女に逝ってほしくなかった。最後に声を聴かせてほしかった。またもう一度やり直させてほしかった。
 そのあと案の定、病室は一(ひと)騒動になった。その場にいた医療従事者の人たちには申し訳なく思っている。動けなくなったぼくが、ストレッチャーに乗せられ運ばれていく。
 
 後を追うならまだしも、生きたまま会おうとするなんて。生死の境目まで行けば、会えるのではないかと思うなんて。そしてあわよくば、連れ戻せるのではと考えるなんて。
 
 ぼくは愚かで無茶で欲深く、自己中心的であさましい人間だ。
 愚かなことをしたが、あのまま終わるよりはいい。後悔はない。
 
 そして、あのまま終われなかったし、この後このまま以上を求めて、さらにその上をいこうとするのが、ぼくの悪い癖だ。

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