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『取説型文章』と『小説型文章』~より重要なのは『小説型文章』ではないか~

 20年度から始まる大学入学共通テストのモデル問題に「駐車場の使用契約書」が出題されたとは知りませんでした。日経電子版の記事【国語も「トリセツ」重視? 文章の海は豊かなのに】を読むと、2022年度から実施される高校の新学習指導要領で、国語の選択科目が「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探求」に再編成されるなど、『文章』を巡る最新の動向が見えてきます。



 あえて『文章』を『取説型』(論理国語)と『小説型』(文学国語)に分類するなら、前者には、取説・法律文書・新聞記事・小論文・学術論文などが、後者には、小説・エッセイ・コラム・雑文・詩文などが含まれるでしょうか。両者の本質的な違いは何かと問われたら、例えば、カメラに例えて、被写界深度(ピントが合っているように見える範囲)が深い(範囲が広い)=解釈の幅が広いのが『小説型文章』、逆に、被写界深度が浅い(範囲が狭い)=解釈の幅が(非常に)狭いのが『取説型文章』と言えるかも知れません。

 つまり、理論上は、『取説型文章』は解釈の余地がほとんどなく、『読解』の教材としてはあまり意味がない、と言えます。逆に、解釈の余地がほとんどない=誤解の生じる余地のない=明確な『文章』を記述する『作文』の能力は極めて重要ではないか、と考えられます。



 ところが、これは誰しも経験したことがおありだろうと思いますが、「トリセツ」には、時として(あるいは頻繁に)意味不明、極端な場合はAともBともどっちにでも解釈できる『文章』が登場するのです――間違った操作は危険なのにもかかわらず――。

 そのような場面は、ハリウッド映画にすら登場します。――例えば、あの名作「スペースカウボーイ」で、クリント・イーストウッド扮する老境の元宇宙飛行士候補フランク・コ―ヴィンが、自宅のガレージに愛妻と二人閉じ込められた(?)際、日本の電動シャッターの「トリセツ」について、ただでさえ難解な日本語の「トリセツ」が、翻訳されてチンプンカンプンだ、と言い訳するシーンには笑わせられます。



 分かり易い「トリセツ」がある一方で、何故そのような事が起きるのか、これはあくまで一般論ですが、UX(ユーザーエクスペリエンス)を推測し、ユーザー、読者の立場に立って考えることに慣れておらず、言葉の持つ二面性、本質的にファジーなあやふやさに留意することなく、技術的な側面についてそれ位分かるだろ的な立ち位置で(=読者に寄り添ってない)「トリセツ」を記述すれば、所謂チンプンカンプンになっても何ら不思議はない、と言うべきでしょう。

 つまり、これが逆説的で皮肉な点ですが、被写界深度の浅い、疑問の余地のない明快な文章を書くには、言葉の持つ本質的なファジー性に精通した『小説型文章』の『作文』能力が(絶対に)必要なのです。――意図的に被写界深度の深い文章=解釈に幅のある文章を書くことに長けていれば、ピントをグッと合わせることも出来ます。逆に『文章』の被写界深度を理解できていないと、ピントを合わせるも何も、自分の書いた文章はピントが合っていると思い込んでしまう可能性の方が高いのではないでしょうか……



 『言葉』とは本質的にファジーなものであり、その『言葉』によって綴られる『文章』には解釈の幅=被写界深度があります。つまり、まずは被写界深度の深い『小説型文章』に親しむことこそが肝要なのであって、その素養なくして卓越した『取説型文章』は記述できないでしょう。

 今、ビジネスの世界ではアートが注目されていますが、それは、『文章』の世界でも同じだと思います。……技術的なものにも素養があり興味のある小説家が「トリセツ」を書いたら、さぞや楽しく分かり易い「トリセツ」になるかも知れません。



#COMEMO #NIKKEI

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