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#06ヒューマングループ創業者 佐藤耕一 ~上場からこれまで、 そしてこれから~
ヒューマングループ創業者・佐藤耕一。
後に多くの社員を率いることになる男は、何を思い、何を為してきたのか。その半生を振り返る。
2004年10月、JASDAQ証券取引所に上場した。創業から19年、売上高は約500億円、営業利益は23億円にまで成長していた。株式上場におけるメリットとしてまず挙げられるのが資金調達だが、教育事業の場合は受講開始前に授業料をいただく前受金モデルなので、資金繰りには
#05ヒューマングループ創業者 佐藤耕一 ~教育、人材、介護...誕生秘話 創業から上場前まで~
ヒューマングループ創業者・佐藤耕一。
後に多くの社員を率いることになる男は、何を思い、何を為してきたのか。その半生を振り返る。
ホテルマンの養成から始まった教育事業の講座数は、800を超えるまでに成長した。発想の原点は、縦軸に年齢、横軸に講座を据えたチャートだ。人は一生学ぶ、という考えから空白の部分に入る講座を新規開設していった。
1987年にスタートさせた日本語学校もこのチャートから
#04ヒューマングループ創業者 佐藤耕一 ~「50歳までに起業」有言実行 綱領「為世為人」が生まれるまで~
ヒューマングループ創業者・佐藤耕一。
後に多くの社員を率いることになる男は、何を思い、何を為してきたのか。その半生を振り返る。
サラリーマン時代、初めて役員就任の打診を受けたのは不動産会社・大京で働いていた30代後半頃だった。当時は土地の仕入れから営業まで、なんでもやった。営業部長任命と同時に大阪支店の立ち上げもやり軌道に乗せた。結果にこだわり続けたのが経営陣の目に留まったようだ。
マン
#03ヒューマングループ創業者 佐藤耕一 ~卒業間近で内定取り消し 救ってくれたアシックス鬼塚会長~
ヒューマングループ創業者・佐藤耕一。
後に多くの社員を率いることになる男は、何を思い、何を為してきたのか。その半生を振り返る。
就職は自動車ディーラーから内定をもらっていたので、バスケットボール部引退後はのんびりと残りの学生生活を送っていたのだが、卒業間近に急転した。大学の就職課に呼び出され、内定取り消しを告げられたのだ。理由を聞くと、その会社が縁故入社で一枠確保しなければいけないくなったの
#02ヒューマングループ創業者 佐藤耕一 ~バスケットとの出合い 身についた「自分の頭で考える癖」~
ヒューマングループ創業者・佐藤耕一。
後に多くの社員を率いることになる男は、何を思い、何を為してきたのか。その半生を振り返る。
疎開先の熊本で玉音放送を聞き、兵庫へ戻ったのは1947年だった。
当時、僕は11歳。
三田市立三田小学校へ転入したのだが、その後も父親の転勤の度に学校を変わった。
その度に学校のボスにケンカをふっかけられ、やりあわなければいけなかった。
何度も繰り返すが、兄妹
#01ヒューマングループ創業者 佐藤耕一 ~8歳の時に阿蘇へ疎開―。待っていたのはガキ大将の洗礼~
ヒューマングループ創業者・佐藤耕一。
後に多くの社員を率いることになる男は、何を思い、何を為してきたのか。その半生を振り返る。
「次に狙われるのは神戸だ」
そんなきな臭い情報が流れ始めたのは1944年初めだったと記憶している。
太平洋戦争開戦から4カ月が経過した42年4月、アメリカ軍爆撃機が東京の空を覆った。
そして、次は神戸だという。のちの神戸大空襲である。
36年に神戸で生まれ、育