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#02ヒューマングループ創業者 佐藤耕一  ~バスケットとの出合い 身についた「自分の頭で考える癖」~

ヒューマングループ創業者・佐藤耕一。

後に多くの社員を率いることになる男は、何を思い、何を為してきたのか。その半生を振り返る。


 疎開先の熊本で玉音放送を聞き、兵庫へ戻ったのは1947年だった。

当時、僕は11歳。

三田市立三田小学校へ転入したのだが、その後も父親の転勤の度に学校を変わった。
その度に学校のボスにケンカをふっかけられ、やりあわなければいけなかった。

何度も繰り返すが、兄妹を守るためとはいえこれが一番辛かった。

 バスケットボールとの出合いは川西市立川西中学校2年の時だ。

悪さばかりするものだから、母親と担任の中田先生が示し合せ、半強制的に入部させられた。

校外ランニングでは別荘地を回りながら玄関の軒先に配達されている牛乳を飲んだり、果樹園でイチゴやスイカを採って食べたりしていた。
部活に入ったからといってすぐに生活態度が改善するわけがない。

ただ、チームメートに恵まれたこともありバスケットにのめり込んでいった。



中学3年最後の夏の大会では、猛練習の甲斐あって兵庫県大会決勝まで駒を進めた。

均衡した試合展開の中、後半開始早々に2ポイントシュートを入れたが、何やら会場の雰囲気がおかしい。

コートが入れ替わっているのを忘れていて、相手チームに得点を献上してしまったのだ。

結果、その2点が勝敗を分ける形となり、優勝を逃した。

▲関西大学バスケットボール部では主将を務めた(左端が筆者)

中学2年の時にはその後の人生を左右する出会いがあった。

バスケットシューズを買い替えるお金もなく、修理のためよく靴屋に通っていた。

するとある日、男性から声を掛けられた。


「君、名前は?中学校は?」。

鬼塚商会(現アシックス)の創業者・鬼塚喜八郎さんだった。


そこから交流が始まり、モニターとしてレポートを提出するかわりにシューズを提供していただけるようになった。

結局、大学4年までお世話になった。本当に感謝してもしきれない。

父親の転勤で、高校は兵庫県の田舎にある県立社高校に進学した。

バスケ部に入部すると、知識が豊富ということで僕が日々の練習メニューを考えることになった。

そうは言っても、指導者としてのノウハウはない。

顧問の先生のツテをたどり、関西大学出身の元日本代表選手を臨時コーチとして招聘できることになった。

それがきっかけで毎年、歴代の主将が来てくれるようになりノウハウを吸収していった。

体育館がなかったのでフィジカル強化に多くの時間を割いた。

だからスタミナに関してはどのチームにも負けない自信があった。

高校3年時に出場した近畿大会初戦では大阪の強豪・府立高津高校と対戦し、圧倒的な運動量の差で大金星を挙げたのだ。

中、高、大、いずれも主将を務め、どうすれば強くなるか、どうすれば勝てるかを追求してきた。

自分の頭で考える癖は、社会に出ても大いに役立った。


一方、勉強の方はというと真ん中ぐらい。興味が沸かず、試験前はいつも一夜漬けだった。

弟の雅美は全てのテストで100点を取らないと気が済まないタイプ。

後に作家となり、94年には直木賞を受賞した。

〈人間というのは、自分の好きなことや得意なものには凄まじい集中力を発揮する生き物である〉ということを学ばせてもらった。


                               ー続ー




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