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#03ヒューマングループ創業者 佐藤耕一  ~卒業間近で内定取り消し 救ってくれたアシックス鬼塚会長~

ヒューマングループ創業者・佐藤耕一。

後に多くの社員を率いることになる男は、何を思い、何を為してきたのか。その半生を振り返る。


 就職は自動車ディーラーから内定をもらっていたので、バスケットボール部引退後はのんびりと残りの学生生活を送っていたのだが、卒業間近に急転した。大学の就職課に呼び出され、内定取り消しを告げられたのだ。理由を聞くと、その会社が縁故入社で一枠確保しなければいけないくなったのだという。大学からは、1年間米国にコーチ留学するならバスケの指導者として迎え入れるという代案をもらったが、興味がなかったのでその場で断った。

 捨てる神あれば拾う神あり、だ。試合観戦で訪れたバスケ会場で、オニツカ(現アシックス)の鬼塚喜八郎会長とばったりお会いした。僕の顔に何か書いてあったのか、偶然なのかはわからないが、突然卒業後の進路について聞かれたのだ。内定取り消し、進路未定の状況を伝えると「君は何ができるんや」と返された。正直に「何もできないです」と返すと「営業をやってみろ」とその場で内定を頂いた。
 
 路頭に迷うところだった僕を救ってくれた鬼塚会長には感謝しかない。

▲オニツカに入社した当時。

 
 今でこそ売上高4000億円、従業員数8500人の世界的スポーツメーカーだが、僕が入社した1958年当時はまだ設立9年目で社員数も数十名。僕を含めた新卒社員5人は、入社と同時に鬼塚会長の自宅の屋根裏に住み込みで働き始めた。東海道を担当するようになってからはスーツケースに靴を詰め込み、小売店のディスプレイ整理を手伝いながら商品を置いてもらった。商談が失敗に終わった時は、手ぶらで帰れないので近くの高校に飛び込み、生徒にバスケットの指導をしながら注文を取っていった。

 鬼塚会長はどんな人だったのか?と聞かれることがよくあるが、僕の頭の中には2つ残っていることがある。

  一つは「シューズ作りへの情熱」だ。商品開発にとても熱心な方で、時間が許せば試合会場に足を運び、選手の生の声を聞いて改良に役立てていた。
 もう一つは「ミズノへの強烈なライバル心」だ。品質には並々ならぬ自信とプライドを持っていたが、ミズノへ売り込んだ際に門前払いを食らったという。「打倒、ミズノ」の掛け声は会社の成長にとっても大きな原動力となったのだろう。

 アシックスでの仕事にも慣れ始めた頃、ある新書と出合った。欧米のビジネスマンは、転職で様々な仕事を経験することによってスキルを上げて自分の価値を高めていくという内容だった。これがきっかけとなり3年間働かせてもらったアシックスを退社した。
 
 シューズメーカー、証券会社、不動産会社、会員制レジャー会社。終身雇用が当たり前の時代に幅広い知識と経験を得るため、あえて違う業種を渡り歩いた。不動産会社と会員制レジャー会社では役員になったが、どちらも自分から辞めてしまった。
 
 後悔はしていないが、自分はこんな不器用な生き方しかできないのか、と情けなくなる。そこらへんはまた次回、お話したい。


                              ー続ー



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