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#04ヒューマングループ創業者 佐藤耕一  ~「50歳までに起業」有言実行 綱領「為世為人」が生まれるまで~

ヒューマングループ創業者・佐藤耕一。

後に多くの社員を率いることになる男は、何を思い、何を為してきたのか。その半生を振り返る。


 サラリーマン時代、初めて役員就任の打診を受けたのは不動産会社・大京で働いていた30代後半頃だった。当時は土地の仕入れから営業まで、なんでもやった。営業部長任命と同時に大阪支店の立ち上げもやり軌道に乗せた。結果にこだわり続けたのが経営陣の目に留まったようだ。

 マンションブームの波に乗り会社も急成長。順風満帆のように思えたが、一寸先は闇だ。先行投資が重くなり資金繰りが悪化。当時、営業部に所属していたのだが、専務が東京から僕のところにやってきて資金調達の指令を受けた。大手住宅メーカーに勤務していた友人が手を差し伸べてくれたおかげで会社が所有する沖縄の土地を売却でき、事なきを得た。しかし、その後の会社の姿勢が気に食わなかった。詳しいことは書かないが、資金が確保できたら後は知らぬ存ぜぬ。不義理な会社の態度に腸(はらわた)が煮えくり返った。上司から役員就任打診の連絡を受けたのはその直後。だが、怒りは収まらず打診を断って退職してしまった。

 無職になり、身の振り方を考えていたら会員制リゾートホテルの役員から連絡があった。経営参画しゼロから営業部隊を作ってほしい、という誘いだった。当時、余暇産業という市場が存在していなかったので〈怪しい〉というのが第一印象だった。色々と調べていくうちに、日本の高度成長を主導した元通商産業省事務次官・佐橋滋氏が「余暇開発センター」という財団法人を立ち上げ、理事長に就任していたことがわかった。余暇産業の可能性を感じ、専務取締役として未知の世界に飛び込んだ。会員権は一口70万円。「会員数10万人」という目標を掲げ、営業社員1人当たりの月間ノルマを300万円に設定し、営業人員を増やしていった。

 10年が経過した頃、会員は5万人に到達。うっすらとゴールが見え始めた時に事件が起きた。泊まり込み研修で軽井沢にいたのだが、部下から電話がかかってきた。僕以外の役員が一堂に会し、僕を会社から追い出すための会議をしているのだという。出る杭は打たれる、ということか。〈専務が辞めるなら一緒に辞めます〉と言ってくれる部下が大勢いたが、そうするとお客様に迷惑がかかる。苦悩の末、一人で会社を去ることにした。

 当時、僕は48歳。大京、リゾートトラストで経験と実績を積み自信がついた。50歳までに起業する、という夢もあった。タイミングは今しかない。リゾートトラストの株式売却で得た資金と退職金を全てをぶち込み、1985年4月「株式会社教育未来社」を設立。大阪・心斎橋にある農林会館ビルで会社をスタートさせた。当時はホテル建設ラッシュの真っただ中。業界の人材が不足するとみて、全日制教育のホテルマン養成講座を開始したのだが、1期生の生徒募集がうまくいかず、早々につまずいた。入学時期は年に1回しかないので、生徒募集に失敗すると丸1年間引きずることになる。このビジネスモデルではリスクが大きいので、キャッシュポイントを増やすために短期募集が可能な社会人教育を開始。試行錯誤の日々だった。

▲座禅を通じ、あの綱領が生まれた(京都・天龍寺にて)

 起業直前、座禅に通っていた京都・天龍寺の故平田精耕老師に起業の相談に行った時のこと。教育事業をする旨を伝えたところ、えらい剣幕で怒られた。
<教育は事業ではない。教育事業とは何か、そこをよく考えてスタートするように>
 当時、株式会社立の教育機関は一般に馴染みがなかったので、故平田老師が怒った理由もよくわかった。

 社会に認められる株式会社立の教育機関を目指すにはどうしたらよいか。会社設立から1年間、座禅を組みながら禅問答〈事業ではない教育を事業にすること〉を解く日々。ある日、ふっとこの言葉が降りてきた。

「為世為人」

 教育を通じて世の中の、人様のお役に立つ企業へ。この綱領が、その後の事業展開においても羅針盤となったのは言うまでもない。


                              ー続ー


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